【岩手県八幡平市】「イーハトーブ火山局」と「松尾鉱山資料館」に見る火山の脅威とその恵み
岩手県八幡平市は岩手県北部の内陸部に位置する街だ。
その名の通り岩手県と秋田県を隔てる日本百名山の1峰である八幡平の東部に位置し、初夏に開眼する「ドラゴンアイ」で有名な鏡沼へ公共交通機関で行くには基本的にこの街から行くことになる。
十和田八幡平国立公園はもちろんのこと、冬には東北有数のスキー場である安比高原スキー場が賑わう。
そしてこの街を語る際には欠かせないのは、八幡平と共に奥羽山脈を形成する1峰である岩手山。岩手県最高峰の山であり、岩手県のシンボルとされることも多い。山の東側はなだらかな稜線を描いていることから南部富士、または南部片富士とも呼ばれる。
岩手山の山頂まで登る為に八幡平市を訪れる人も多いほか、中でも今から約300年前に岩手山の中腹で発生した噴火で形成された岩原である焼走り熔岩流は国の特別天然記念物に指定されているほかこの街の観光地の1つでもある。
300年前に噴火が発生していることからわかる通り、岩手山は2024年9月現在噴火警戒レベル1に指定されている活火山だ。
登山者向け情報として呼びかけが行われていると共に常に複数のカメラで岩手山の監視が行われているほか、八幡平市には国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所が運営している岩手山火山情報ステーション、その名もイーハトーブ火山局が存在する。
「イーハトーブ火山局」の名前は宮沢賢治の作品である『グスコーブドリの伝記』に由来する。
岩手県をモチーフにした架空の地「イーハトーヴ」を舞台に、その筆致こそ童話的でありながら冷害や旱魃、病害虫による飢饉やいつ来るともしれない噴火、飢餓や身売りなどによる家族の離散といった北東北の歴史の中で刻まれた人々の恐れとそれに抗う人間を克明に描いているこの作品。これに登場する機関の名が「イーハトーヴ火山局」なのである。
噴火による被害というと近年では1991年の雲仙普賢岳や2014年の御嶽山で多数の犠牲者が出てしまっている。一方で2000年に発生した北海道の有珠山の噴火では道路などの被害こそ大きかったものの、人的被害は0であった。
火山活動の予測は現代の技術では非常に難しく、正確な噴火の発生を予測することは現状では不可能に近い。しかし1人1人が適切な避難を行うことで、その被害を大きく抑える可能性を有する災害でもある。
そして展示室内でひときわ目を引くのが天井まで届く巨大な模型だ。
これは岩手山被災予想ジオラマであり、立体的に作られた岩手山のジオラマで岩手山周辺の都市や主要施設の位置、そして噴火時に発生が予想される災害の想定被災地域を確認することができる。
想定されている様々な噴火による影響の中でも、特にゾッとしたのはこれだ。
これは積雪時に火砕流が発生した際に、溶けた雪と共に火砕流が流れ落ちて発生する火山泥流の被害想定だ。噴火の影響というと直接的に噴出する噴石やガスの影響を想定しがちだが、東北地方の場合は積雪のように間接的な要因でさらに被害が拡大することもあるのだ。
そしてこれらの災害に備えた防災対策も数多くの手段が講じられてきている。その1つが岩手山周辺の各地に設置された監視カメラだ。カメラによる監視映像はイーハトーブ火山局内でも見ることができる。
そして八幡平市は前述した通り、火山の脅威に対応すると共にその恵みを享受している街でもある。
高原ならではの気候により育まれた農畜産物や様々なアクティビティの場所となる山々や温泉。更には地熱を利用した発電などこの場所に生きるからこそやらなくてはいけないことも多いが、得られるものもまた多い土地なのだ。
さて、現在も火山の恵みを享受している八幡平市だが、かつてはこの恵みにより「雲上の楽園」とさえ呼ばれていた時期があった。
この表現は自然環境の美しさを讃えたものではない。かつて存在した硫黄鉱山に多くの人が集まり、当時としては最新鋭の設備が整った住宅や娯楽施設が揃っていた時代があり、その様子を表したものだ。
イーハトーブ火山局から車で約5分。現在は住宅街となっている場所に建つ松尾鉱山資料館では、当時の生活の様子の写真や鉱山で使われていた道具などを実際に見ることができる。
廃墟好きの方は松尾鉱山跡の名前でピンとくるかもしれない。
(現在廃墟とその周辺敷地内は立ち入り禁止)
現在松尾鉱山跡と呼ばれている場所はそれぞれ「緑ヶ丘アパート」「至誠寮」「桂寮」という松尾鉱山で働く人々の住居だった場所だ。
現在残っているのは鉄筋コンクリート構造のアパートの廃墟だが、かつては木造の建物も多数存在した。木造の建物については最終的には建物の延焼を調べる実験に使われ燃やされてしまったらしい。
八幡平で硫黄が取れること自体は古くから知れていたが、長らく開発はされていなかった。
大規模な採掘が始まったきっかけは1882年に地元に住んでいた佐々木兄弟が大露頭を見つけたことだ。その後もしばらくは小規模な試掘を行うに留まっていたが、1910年ごろから横浜の貿易商であった増田兄弟が経営に参加してから一気に大規模化が進んだ。
1914年には増田兄弟の弟である中村房次郎 (旧姓は増田)が松尾鉱山株式会社を設立し初代社長に就任。水力発電所や索道、さらには精錬窯といった設備が建造される。
一時は日本で生産される硫黄の1/3がこの松尾鉱山で採掘されたものであり「東洋一の硫黄鉱山」と呼ばれるまでに至った。
ちなみに松尾鉱山の名前の由来は、当時この一帯が松尾村という村であったことのようだ。
かつては非常に栄えた硫黄鉱山であるが、一方で大規模な落盤事故で多くの人々が犠牲になったり、1930年ごろから発生した排水により北上川が汚染されたりと問題も発生していた。さらに戦後日本の経済が発展するにつれて海外から安価な硫黄を輸入できるようになった。更には公害問題の解決が本格的に取り組まれるようになり様々な工場に脱硫設備が取り付けられるようになると、鉱山から掘らずとも工場で副産物として硫黄が得られるようになり競合相手が増えたことで徐々に硫黄鉱山は衰退。1969年の事実上の閉山を経て、1974年に完全に松尾鉱山の歴史は幕を閉じた。
現在はアパートの廃墟や、現在も発生している鉱山排水を浄化する旧松尾鉱山新中和処理施設に当時の名残を残すに留めているものの、当時の華やかな時代は今も地元の人々に語り継がれている。
今日は彼岸の入り。ようやく夏が終わって秋が訪れ、目にも舌にも鮮やかな季節の訪れを感じる一方で北東北の長い冬が近づいている。
今年の冬も八幡平には多くの人々が訪れ、ウィンタースポーツを楽しむことだろう。
八幡平を訪れる時には様々なリゾート地でのんびりしたりアクティビティを楽しんだりするのはもちろんのこと、文化に限らず様々な産業で奥羽山脈の恵みを享受してきたこの地の歴史と、今まさに共存するために行われている取り組みに触れてみるのも楽しい思い出になるかもしれない。
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