【北東北の龍神伝説「三湖伝説」】第1回 十和田湖・南祖坊編
「昔、鹿角の草木という場所に八郎という力が強く心優しいマタギが住んでいた。
ある日、仲間と共に3人で八郎が山に猟へ出かけた時のこと。その日の炊事当番だった八郎は3匹のイワナを捕まえて焼いていたが、あまりにも仲間の帰りが遅いので、つい仲間の分までイワナを3匹とも食べてしまった。
すると八郎は異様に喉が渇き、近くの川の水を飲んでいるうちに8つの頭を持つ龍へと変身してしまった。
龍となり水から離れられなくなったことを理解した八郎は、帰ってきた仲間たちに謝罪と共に自身が竜になったことを告げ、故郷の両親に詫びの言葉を告げてくれるよう頼むと山の上へと消えていった。
山の上で八郎は周囲の川を堰き止め、湖を作ってここに住むことにした。そうしてできたのが十和田湖である。
それから何年も経った頃、十和田湖に南祖坊という僧侶が訪れた。
南祖坊は「自分は鉄のわらじの鼻緒の紐がちぎれた場所を棲家とするよう仏のお告げがあった」と言い、八郎に十和田湖を自分に明け渡すよう求めた。
八郎がそれを拒否して襲いかかると、南祖坊は9つの頭を持つ竜へと変身して八郎と戦い、7日7晩にわたり争った末に南祖坊が勝利した。
勝利した南祖坊は「占場」と言う場所から十和田湖に飛び込んで青龍大権現となり、十和田神社に祀られることとなった。
対して、敗走した八郎は放浪の末に男鹿半島の根本に八郎潟を作り出してここに住むようになった。
一方、秋田の院内という場所に辰子という非常に美しい娘が住んでいた。
辰子は自身が老いていくことを恐れ、若さと美しさを永遠のものにしたいと仏に祈り続けていた。
するとある晩に「北の山の上にある泉の水を飲めば永遠に若く美しくいられる」というお告げを受けた。辰子はそのお告げに従い山の上の泉にたどり着いて水を飲むと、どういう訳か酷く喉が渇き始めた。泉の水を飲み続けているうちに、いつのまにか辰子は龍へと変身していた。こうして龍となった辰子は、田沢湖の主となった。
そのうちに、湖を渡る水鳥から八郎と辰子は、それぞれ近い境遇にあるお互いの存在を聞く。
八郎は川沿いに旅をして田沢湖の辰子に会いに行って夫婦となり、以来毎年秋が来ると八郎は八郎潟から田沢湖に向かい冬の間は夫婦で過ごすようになった。
そのために八郎潟はどんどん干上がり冬になると凍りつく一方で、田沢湖は2柱の龍神がいるために湖がどんどん深くなり、冬でも凍らなくなったという」
以上は、十和田湖や八郎潟に伝わる「三湖伝説」の大まかなストーリーだ。
人名の揺れや出身地などには諸説あるが、大筋については上記のようなストーリーとして語られていることが多い。
三湖伝説は上述の通りに秋田県と青森県の県境にある十和田湖と、男鹿半島の付け根にある八郎潟、そして日本最深の湖田沢湖に関連する伝説だ。
これらの湖にはそれぞれ青龍大権現、八郎太郎、辰子姫という龍神が住むとされており、それぞれを祀る神社も存在している。
2024年は辰年。
ということで今年は各湖にフォーカスして3回に分けつつ、龍の伝説であるこの「三湖伝説」についての記事を投稿したいと思う。
さて、上述のストーリーで八郎は悲劇の主人公として被害者的に描かれており、対して南祖坊はかなり理不尽な立ち回りをしている。
それどころか八郎潟サービスエリアにある看板に書かれたパターンのように「南祖坊は夫婦となった八郎と辰子の元に現れて辰子を無理やり妻にしようとするが、今度は力をつけた八郎に撃退される」という下りが追加された、南祖坊が完全な悪役として描かれているものもある。
一方でこの南祖坊は、秋田県のお隣である青森県では非常に人気がある。
八戸市にある宝照山普賢院 (ほうしょうざんふげんいん)には、南祖坊が若い頃に普賢院の2代目である月法律師の弟子として修行をしていたという伝説が残っており、上述した青龍大権現を祀る十和田神社とも交流がある。
また、青森県十和田市と秋田県小坂市には南そボーヤなる南祖坊をモデルにしたゆるキャラが存在する
他にも、南祖坊による八郎退治の場面は青森市のねぶたや八戸市で行われる三社大祭の山車の題材の定番の1つだ。
南祖坊の戦い方については9つの頭の龍に変身して戦ったという他に、経典を読み上げそれを無数の剣にして戦ったというパターンがある。
これらの祭りに何度か行った経験がある方は、恐らく1度は「2頭の龍の戦い」や、「竜 (または蛇)と戦う修行僧」の山車を見たことがあると思う。
三湖伝説では悪役じみた (伝承によっては悪役そのものの)立ち回りを見せる南祖坊がなぜ祀られ、人気を集めるのか。
調べていくうちになかなか面白いことが分かってきた。
そもそもかつて十和田湖に伝わっていた南祖坊にまつわる伝承と、三湖伝説とはかなり違うのだ。
前提として、かつて十和田湖は周辺の山地を含めて「十和田山」または「御山」と呼ばれ、修験道の霊山として主に南部藩で信仰されていた。
平安末期に開山し、江戸時代に最盛期を迎えた十和田山信仰であったが、その後は明治時代に神仏分離の影響で大きく衰退。湖の主として伝わっていた青龍大権現も神仏混淆の産物として排斥され、大和武尊が祭神とされた。
その後は明治から昭和にかけて今度は観光地として発展し、現在に至っている。
南祖坊はこの十和田山を開山した人物であると伝えられており、三湖伝説に語られている通りにその最終的に青龍大権現という十和田湖の主になったとされている。
さて、前述した普賢院は南祖坊が修行したという伝説のある寺院の1つだ。
この寺院は鎌倉時代から江戸時代にかけては永福寺と呼ばれており、現在も普賢院のある場所の住所名は永福寺となっている。
こちらの現在の住職の方は真言宗豊山派の研究機関に所属されており、ブログやYouTubeチャンネル、Instagramなどで情報発信をされている。
そして幕末に記されたと伝わる「十和田山神教記」の写本をダイジェストにした絵本を作られており、こちらの内容も公開されている。
詳細は上記の動画を見てもらうとして、ダイジェスト版の更に要約になってしまうがこちらのストーリーは以下の通り。
「斗賀村 (現在の南部町斗賀) に生まれた南祖丸は、永福寺 (現在の普賢院)で修行を積んでいた。
彼は玉鶴という女性と恋仲になるも、親から豊姫という別の女性との結婚を勧められ、彼自身も心変わりをして玉鶴を捨ててしまう。
しかし裏切りを知った玉鶴が毒蛇に変身してしまい、南祖丸は南祖法師と名を改め逃げるように修行の旅に出る。
旅を旅していた途中、南祖法師は夢で鉄の草履と竹の杖を授けられ「竹の杖がすり減り、鉄の草履が重くなるまで旅を続ければ、お前を恨む人々の悲しみを鎮められる」と告げられる。
南祖法師は50年かけて国中を旅するが、杖も草履も変わらなかった。そしてついに南祖法師は、かつての故郷に辿り着く。
そこで水鏡に映った自身の姿が50年前と変わらないことに恐怖するが「これは自分が故郷に残してきた両親に親孝行をしなかったせいだ」と反省すると本来の老人の姿に変わった。
そして故郷に残してきた豊姫が、自分に代わり自分の両親を世話をして看取っていたことを知る。
その晩、瞑想をしていた南祖法師の前に毒蛇に姿を変えたはずの玉鶴が現れる。彼女は自身が八郎の旅を見守ってきたこと、竹の杖と鉄の草鞋を授けたのは自分であることを告げる。
そして旅の終わりとして、かつては人であったが、妻であった浅野が南祖法師に殺されたと思い込んで毒蛇に変わってしまい、現在は十和田山の沼に住む八郎を調伏するように告げた。
十和田山までの険しい山を越え、南祖法師が八郎を元の人間に戻すと、2人の前に観音となった浅野が現れ、八郎を守り神として受け入れる山本郡の沼 (現在の八郎潟)に導くと共に、南祖法師には自身と玉鶴がそれぞれ観音になることができたことと龍となり十和田湖を守るように告げた。
こうして南祖法師は十和田湖を守る龍神となった」
なお、上記のダイジェスト版では省略されているが「十和田山神教記」において南祖法師の名は「南に祖先がある」ということから名付けられたとされており、南祖法師の祖父はかつて都の関白であった藤原是実、父は藤原是行 (斗賀村に流れてきた後に宗善と改名)という人物であったと語られている。
余談ながら普賢院は、明治時代の神仏分離令までは近隣にある七崎 (ならさき)神社の別当寺 (神社を管理する寺)であった。
この七崎神社には「藤原諸江という都から流れてきた人物の娘である『七崎姫』が、経文の力で近隣の蓮沼に住み着いていた邪悪な大蛇 (あるいは竜)を調伏し、七崎観音となった」という伝説がある。
主人公の性別こそ違うが、大筋については「十和田山神教記」の南祖坊伝説と共通する部分が多い。
そしてこの伝説に登場するかつて邪悪な大蛇が住んでいたと伝わる蓮沼があった場所の地名は八太郎という。
更に遡ると、この南祖坊ならび十和田湖伝説の現在見つかっているうちで最古の形は1407年から1446年に現在の滋賀県で編纂された「三国伝記」 (さんごくでんき)というインド・中国・日本の説話集の「釈難蔵得不生不滅事 (しゃくなんぞうふしょうふめつをえたること)」であり、この物語に登場する釈難蔵 (しゃくなんぞう)が南祖坊の原型とされている。
この「釈難蔵得不生不滅事」については十和田湖自然ガイドクラブと十和田市地域おこし協力隊が中心となって設立した「十和田湖伝説の伝え方を考える会」が解読し、原文を併記した上で現代語訳を公開している。
こちらについても上記の動画を見てもらうとして、ストーリーは要約になってしまうがこちらのストーリーは以下の通り。
「和阿弥という人物の語る話である。
中世の頃、播磨国 (現在の兵庫県のあたり)に釈難蔵という非常に信心深い僧侶がいた。彼は経典を唱え功徳を積んでいるなかで「生まれ変わる前に弥勒菩薩の出世に立ち会いたい」と強く願うようになっていた。
彼は3年間熊野山にお篭りをし、この願いを祈り誓いを立てたところ、1000日目の夜に白髪の老人が現れ「関東に向かい、常陸と出羽の境にある言両 (ことわけ)という山に住めば弥勒の出世に立ち会うことができるだろう」と告げた。
(※注:常陸は現在の茨城、出羽は秋田と山形のあたり。これらの地域は接しておらず、また十和田神社の縁起として語られていることから常陸は陸奥 (現在の青森、岩手、宮城、福島と秋田県の一部)の誤表記とされている)
難蔵は熊野山を降りて教えられた山へと向かった。言両山の頂には大きな池があり、ここで難蔵は法華経を読み静かに暮らしていた。
するとある頃から、難蔵の前に美しい女性が現れ、毎日難蔵の読む法華経を聞くようになっていた。何日か経った頃、女性は難蔵の法華経のおかげで悟りを得ることができたこと、できれば自身の住処に来て導いて欲しいことを告げる。
難蔵は自身がこの山に来た経緯と共に、住処を変えることはできないと断る。すると女性は自身の正体が池の主である龍であることを告げ、自分と夫婦となり長い寿命を持つ龍になれば弥勒の出世に立ち会えると誘った。
難蔵は騙されているのではないかと疑ったが結局は、池に入り龍と共に住む事にした。
ある時、龍は難蔵に「言両山を西に三里行った先に奴可の嶽という場所に沼があり、そこには8つの頭を持つ大蛇が住んでいる。大蛇は自分を無理やり妻にするために、自分は月の初めの15日は奴可の嶽に、残りの15日は言両山にあるこの池に住んでいる。そろそろ奴可の嶽の大蛇が来るから用心して欲しい」と言った。
難蔵はそれを聞いて恐れる事なく、法華経を頭に乗せると9つの頭を持つ龍へと変身した。
龍となった難蔵はやってきた大蛇を迎え撃ち、7日7晩の戦いの末にこの大蛇を倒すと、大蛇は小さな蛇へと戻り奴可の嶽へと逃げ戻っていった。
こうして難蔵は龍の夫婦として暮らすようになり、今でもこの池の近くを通ると微かに難蔵の読む法華経が聞こえるという」
最終的に2匹の竜が夫婦になるなど現在の三湖伝説と共通する部分は多いが、やはりこの物語でも主人公は南祖坊の方である。
十和田湖伝説を調べるうちに、十和田湖の伝承における元々の主人公が南祖坊であったことはわかってきたがなぜ三湖伝説において南祖坊は悪役となったのかについては疑問が残る。
確かに「十和田山神教記」に語られる南祖坊の人物像は特にその前半生についてはあまり褒められたものではないが、最終的には信仰の対象になった存在だ。
これについては歴史的な背景が関連しているかもしれない。
南部氏の27代目当主に南部利直 (1576年〜1632年)という人物がいた。この人物は全国的な知名度はほぼ皆無だと思うが、陸奥盛岡藩の初代藩主であり盛岡の整備に尽力した人物だ。
様々な逸話の中でも有名なものでは、かつては「不来方 (こずかた)」と呼ばれていたこの地域を「森ヶ岡 (もりがおか)」と改称し現在の盛岡という地名の由来になったというものがある。他にもわんこそばは彼が花巻を訪れた際に蕎麦を気に入ったことが始まりという説があったり、彼の正室である於武の方の墓が「むかで姫の墓」として盛岡市の中心部にあるなど、盛岡に住んだ経験がある方ならどこかで名前を1度は聞いたことがあると思う。
そしてこの人物は南祖坊の生まれ変わりだとされていた。
利直本人が生前から自らを南祖坊の生まれ変わりとしていたのか、或いは利直の没後に南祖坊と利直が結びつけられて信仰の対象になったのかは定かではないが、南祖坊≒南部氏のような印象がかつての南部藩やその周辺地域の人々にはあったことは想像に難くない。
かつては現在の鹿角市のあたりまでが南部藩であった。しかし現代の感覚ではあるが、交通の便などの都合で、大館市や鹿角市のあたりは弘前などかつての津軽の影響が大きいという感覚が個人的にある。
普賢院の住職の方曰く、3つの湖の伝承が三湖伝説としてまとめられたのは十和田湖周辺が国立公園に指定された昭和初期ごろと考えられるという。
現代でこそ笑い話として語られる津軽と南部の対立だが、三湖伝説が成立した時代においては秋田側が中心となる物語を成立させるにあたり、南部氏と関わりが深い人物を主人公にしにくいという感覚が当時はあったのかもしれない。
思えば以前大館市の記事で少しふれた老犬神社の伝承においても、南部藩である三戸城の武士達が敵役として描かれていた。
(一応、老犬神社の伝承は実話であるとされていることを付け加えておく)
そして完全な想像になるが、前述した八の太郎や七崎姫伝説に登場する大蛇もまた、山の向こうで信仰されていた八郎が南部地方で悪役で貶められた存在だった可能性も排除できない。
また、前述した通りに江戸時代こそ盛んであった十和田山信仰であるが明治に入ってからの神仏分離の影響で大きく衰退し、湖の主として伝わっていた青龍大権現も神仏混淆の産物として排斥され、大和武尊が祭神とされた。
そういった時代背景から南祖坊は「前時代の後進性の象徴」となり、悪役として語られるようになったのかもしれない。
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