専門職としてのレゾンデートルとは?
介護施設に入所していた84歳の母親が他界した。
ありふれた話である。
食べ物が気管に詰まり心肺停止の後の死亡である。
これもまた、介護業界ではありふれた話なのだろう。
施設からは何の説明もなかった。荷物を引き上げに行った時に施設長からお悔やみの言葉とともに香典を頂戴し、それで何事もなかったかのように終わった。凪の海のように静かに時だけが過ぎていった。
その後、一切の連絡もないので、自分の方から相談員に面会を申し込んだ。
私「今回、誤嚥が原因で窒息し心肺停止になったことは病院と情報共有をしていますか?」
相談員「しています」
私「今回の事は施設として事故ととらえていますか?」
相談員「事故とはとらえていません。事故報告はしません」
(そもそも、本来は家族からの食べ物の差し入れは原則断っているのだが、今回の誤嚥は家族が差し入れた梅干しが原因なので施設の責任はないという意味の事を弁解していた。この言葉がどれだけ家族を傷つけているか、彼は微塵も理解していない)
私「今回のことについて何らかの検証はするのですか?」
相談員「検証はしません」
私は施設に対し責任を追及したり損害賠償を求める訴訟を起こす気など一切ない。皆無である。やはり家族は世話をしてもらっているという負い目がある。対等ではありえない利害関係の中にある。契約上の対等性は心理面では担保できない。
私はただ起こった事象を施設がどうとらえ、事故として認識し検証するのかどうかということを知りたかっただけなのである。そのことは念を押して理解をしてもらったうえで、上記の質問をしたのである。
ちなみにこの法人は社会福祉法人である。
これが介護業界の一般通念なのだろうかと耳を疑った。
人は必ずミスをする。ヒューマンエラーは必ず起きる。システムもまたエラーを起こす。システムとは不完全性を内在する。だからこそ、そこに検証の意義がある。
母親が入居するときにお世話になった某市の社会福祉協議会に挨拶に行き所長さんにその話をして意見を聞いた。「そうですね、いやぁ~難しいですね、何とも言えないです~」
知り合いのケアマネ(社会福祉士という国家資格を持っている人物である)にも聞いてみた。「事故に当たるかぁ。。と思います。」と言いながらも気づいた時のタイミングや、その後の対応で、適切でなければ事故に当たる。とのことである。つまり、対応が適切であれば事故には当たらないという認識である。
この人たちは一体何を考えているのだろう。何を勘違いしているのだろう。およそ福祉施設という、ケア、あるいは支援という地平において、原因、契機がなんであれ、ケアされる側が誤嚥により窒息し心肺停止になり死に至った、という事象を「事故でない」とするならば、介護事故とは一体何か?
高齢者は嚥下能力が低下する。そのことは身体機能的に常識ともいえることである。だから、だから誤嚥して死ぬのは仕方ないんですよ、それは事故じゃないんですよ、自然死なんですよ、と言いたいのであろう。
であれば、専門職としてのraison d'etreとは何なのか?
嚥下能力が低下するという高齢者特有のリスクがある、だからこそそれに対してスキルをもって最善のケアをするのが専門職なのではないか?
84歳の母親が物を詰まらせて窒息して亡くなったこと自体は、ある意味(生物学上)自然なことと言ってもいいだろう。おそらく、今までかつて幾多の人々が老いた時に食べ物を詰まらせてその生を終えたことだろう。
摂食欲求という生への本能が直接的に死をもたらすという存在論的自己矛盾は神が与えた自然の摂理なのかもしれない。
しかしである、哲学的、生物学的な問題はさておき
介護福祉という業界においてその職分を果たすべき立場にある人間がそのような認識であることは職業人としての矜持のかけらもない。
問われるべきものは資格や肩書ではない。
人としての資質こそが対人援助における専門職としての存在意義である。
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