介護施設に入所していた84歳の母親が他界した。 ありふれた話である。 食べ物が気管に詰まり心肺停止の後の死亡である。 これもまた、介護業界ではありふれた話なのだろう。 施設からは何の説明もなかった。荷物を引き上げに行った時に施設長からお悔やみの言葉とともに香典を頂戴し、それで何事もなかったかのように終わった。凪の海のように静かに時だけが過ぎていった。 その後、一切の連絡もないので、自分の方から相談員に面会を申し込んだ。 私「今回、誤嚥が原因で窒息し心肺停止になったことは
私は今、障害者グループホームの開業・運営サポートを生業としている。障害者グループホームにはもう30年ほど前から支援者としてかかわってきた。その中で、グループホーム利用者の通院同行を誰がやるのか、という問題が制度の変遷の中で一つの問題として浮上してきた。 私がかかわった頃はグループホームの支援者が利用者の通院に同行することに一片の疑問すら感じなかったのだが、支援がサービスという形になり分業化されることによって生じた問題である。 とあるグループホームの経営者が「お金にならない
向精神薬を服用し始めて9年近くになる。自立支援医療を申請して4年ほどが過ぎた。服薬が長期になるならもっと前から申請しておけばよかったと思ったりしたが、主治医も「そういえば申請してなかったっけ」とどうでもいいような口ぶりで、実のところ自分もどうでもよかったのだが。 しかしながら、診断名がついて、いよいよ自立支援医療受給者証というものを手にすると、社会的に障害を持った人として規定されているような意識になるのは妙なものだ。 色々な属性が社会から与えられて自分という存在が形成され
抑うつ状態なせいか文章が書けない。躁の時のような高揚感で一気に書き上げるような過剰なパッションが影を潜めており、一言一言を探るような倦怠感のなかで言葉を拾っていく。 何を伝えたいのかもわからないが、なにか深いところに沈殿している言葉をつなぎ合わせたい。 7月7日は七夕である。七夕はもともと旧暦の行事だから今でいう8月上旬の季節である。 日本海側の小さな農村で育った。 小さい頃、8月7日に子供たちが集まって五穀豊穣を祝う七夕祭りがあり、翌8日は後夜祭で、海岸に出てスイカを食
平成24年(2012年)の話である。 全国知的障害者福祉職員研究大会某地区大会の分科会でシンポジストとして登壇した。発表者は私を含め3名、260名の席数の内8割ほどはうまっていただろうか。 「矯正施設等を退所した障害者の地域生活を支援する」というテーマで発題した。平成24年というと前年に都道府県最後の地域定着支援センターが東京都に設置された頃であり、繰り返し罪を犯し刑務所に収監されている知的障害者の存在とその問題がようやく社会の課題として顕在化し、司法から福祉へとつながる
"In the beginning, there is a relationship" コリンズというアメリカの遺伝子研究者が2006年に開催されたアメリカ宗教学会での講演で冒頭に述べた言葉である。 聖書の「太初に言葉ありき」を念頭に置いた言葉であろう。 「はじめに関係がある」とは何か? アリストテレスは人間を「社会的動物」(zoon politikon)と定義した。 これは、人間が社会を構成する、であるとか相互意思伝達を図る存在である、ということとは本来違う意味だろう。
中島みゆきに「命の別名」という歌がある。 聴く人の心を強く揺さぶる。 周知のことだがこの曲は知的障害者への虐待をテーマにしたドラマのために作られた。 「知的障害」という呼称はすでに現代社会において広く認知された福祉・教育用語である。 かつて「知恵遅れ」というとてもわかりやすい言葉があったが、 「精神薄弱」という制度上の用語が差別的、蔑視感情があるという理由で法改正されたことに合わせて時代の隅に取り残された。 差別とは呼称の属性ではなく人の認識の形態である。 「遅れる」こ