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【試し読み】ソ・ユミ『終わりの始まり』より


 【試し読み】ソ・ユミ『終わりの始まり』(金みんじょん訳)より

 ヨジンは携帯と美容院の電話を交互に見ながら腕を組んだ。マナーモードにしておいたら着信音に気づかない可能性があったので、マナーモードを解除し着信音も最大にしておいたが、午後の間ずっと二台とも沈黙を守った。客が多く忙しければそれほど気にならないはずが、お昼を食べた後はカットの客一人、カラーの客が一人だけだった。ソファにもたれかかって座っていたキムさんは、ラジオから流れてくる歌に合わせて頭でリズムを取っていた。窓から降り注ぐ太陽の光が眩しいのか、時々額にしわを寄せた。
「花が全部散っちゃうわ、もったいないね」
 道路向こうのフェンスの横には木蓮が見事に咲いていた。いっぱいに広がった花びらは何の予告も徴候もなく突然ぱらぱらと花びらを落とした。
 窓の外では季節が入れ替わり、天気が激しく揺れ動いていたが、今年は春が来るのも花が咲くのも気づかずに過ごした。時々ふと外を見ると季節外れの雪が降る日もあり、黄砂が飛んでくる日も、春を知らせる雨が降る日もあった。美容院の切り盛りで忙しかったが、別の理由でも心ここに有らずの状態が続いていた。
「花が咲いたら散るのは自然の摂理でしょ。何がもったいないの?」
 ヨジンがそう言うとキムさんはあくびをしながら不満げな顔でヨジンを見た。花が恨めしかったわけではなく、午後ヨジンの感覚が電話の音に集中していただけだ。小さい音にも驚いて彼女は電話機の方を見た。「お店に行けたら電話する」。一昨日、ソキョンは間違いなくそう言った。昨日やりとりしたショートメールにも「明日行く前に電話するから」と書かれていた。電話ごとき何でもないのに待つなんて、もう無視してしまおうという気持ちもあったが、ヨジンを縛っていたのは「行けたら」という前提条件だった。行けたら、と言っておいて、電話がないのは、今日は来ないという意味なのだろうか。そう思うとソキョンに会えなさそうで落ち着かなかった。ソキョンが来ると思って夕方の予約も受け付けなかったのに、キムさんはそんなことなど露知らず、春がどうの花がどうのとたわごとを言って浮かれていた。ヨジンは窓の外と時計を交互に見た。数カ月間、一緒に仕事をした間柄、こういうときは引き留めておくより、恩を売った方が効果的だ。
「桜祭りも今週まででしょ。花でも見てきたらどう? 代わりに週末はよろしくね」
 ヨジンがそう告げると、キムさんはすぐに肩を揺らしながらソファから立ち上がった。
「さすが、チョ院長、センスあるわ」
 キムさんは忙しそうにあちこちにメッセージを送り電話をしながら出かける用意を始めた。
「お先に」。キムさんが手を振って出ていった美容院には明度の下がった太陽の光と寂寞だけが残っていた。ヨジンはドアのプレートをCLOSEDに変え、ラジオの周波数をクラシックチャンネルに合わせた。ピアノの旋律が静かなのでボリュームを少し上げた。桜が散った後はライラックが咲くだろう。二度と春が来ないと思っていたのに。誰かを待つことなんて二度とないと思っていたのに。時間が流れるというシンプルな事実が魔法のように思えた。ヨジンは窓の外を眺め、ホットワインを作ろうと思って買ってきておいたワインを取り出した。一杯飲むと今日は会えなさそうでもどかしかった心が落ち着きを取り戻し、もう一口飲むと美しいものは美しいまま、会いたい気持ちもまたそのままにしておいた方がいいかもしれないと思えた。
 二杯目のワインを飲んだとき、美容院のドアが開いた。ソキョンを見て何よりも早く反応したのはヨジンの唇だった。唇は激情を隠せず、上下に大きく開いた。来ないと思っていたから、気持ちを隠すとか、冷静にならなければならないとか、そういう計算すらできず体が先に動いた。「どうして電話しなかったの? 待っていたのに」のような言葉や、電話を待っていた荒れ果てた午後のぼろぼろになった心のようなものは、目が合った瞬間、溶けてしまった。ヨジンがソファから立ち上がると、フード付きトレーナーにデニムパンツを着たソキョンはにっこりと笑いながら近づいてきた。寝起きみたいで髪が乱れていたが、ぴんと立っている耳とまっすぐ伸びた鼻筋がきらりと光った。ソキョンはグラスに残っていたワインを飲んだ。「シャンプーする?」と聞くと、うなずいてトレーナーを脱いだ。白い半そでシャツだけになった上半身が目の前に現れた。兵役を終えたばかりの体はぜい肉もなくスリムだった。ソキョンを見るたび、美しいという言葉は、実態と比べたらどんなに貧弱でみすぼらしいかを実感した。ヨジンはその体をすぐにでも抱きしめたい気持ちを抑え、髪を洗い始めた。
 彼の頭の形はまん丸だった。年を取って髪の毛が減ったら、坊主にしても似合いそうだった。シャンプーの泡に包まれていてもふさふさの髪の毛からは、そういう姿は想像できなかったが、いつかこの子にも中年という時間がやってくるだろう。頭皮マッサージをする間、ソキョンは目をそっと閉じたまま、時々足をぱたぱた動かした。時に目を少し開けて、ヨジンの胸元を探るのを忘れなかった。ヨジンはシャンプーを流しながら、自分の指先や手首を見下ろした。手のひらにぴょんぴょん飛びはねる脈が感じられた。刺激的に生き、手の届くものに胸を躍らせ、今より多くを感じることを望んでいた。シャワーの水を止めて髪の毛の水分を軽くふき取った後、上体を起こし座らせた。タオルで頭を包み込んでから、「お疲れさまでした」と言うと、ソキョンは笑いながらヨジンの腕を引っ張った。
 唇が重なった瞬間、携帯電話が鳴り始めた。長く短く、長く深くキスをしている間、着信音は鳴り続けた。ヨンムからの電話だった。ソキョンがヨジンのブラウスのボタンをはずし、ブラジャーのフックをはずしたばかりだった。その間にもヨジンのうなじや胸元に何度もキスをした。こんなに甘くこんなに熱くてもいいのだろうか。ヨジンは目を閉じて頭を後ろにそらした。甘い誘惑に落ちていくヨジンとは関係なく携帯は機械的に鳴り続けた。電源を切っておくことも考えたが、病院にいる義理の母のことを思ってそうしなかった。
「ちょっと待ってて」
 ヨジンが身構えるとソキョンは拍子抜けしたかのようにため息をついた。ヨジンはブラウスのボタンを適当に留めてシャンプー室に入り、通話ボタンを押した。「どうしたの?」とついいらついた声が漏れた。
「今日、ちょっと病院に来てくれない?」
 病院という言葉に声のトーンが少し冷静を取りもどしたが、いらいらを隠せるほどではなかった。
「危篤なの?」
「そうではないけど」
「じゃ、あとで電話する、いま忙しいから」
 ヨジンはヨンムの返事も聞かずに終了ボタンを押した。そして急いで電源を切った。ソキョンはこんなことに寛大な方ではなかった。ソファベッドに戻るとすでに冷めた顔で携帯電話をいじっていた。ヨジンが隣に座り、ソキョンの体を抱きしめた。だが、ソキョンはうつむいたまま、いま始めたばかりのゲームに夢中になっていた。ヨジンは羽織っていたブラウスを脱いで裸のままソキョンの体に抱きついた。するとソキョンは体を起こし、ヨジンの乳首を嚙んだ。「あっ」という短い喘ぎ声とともに体が後ろにそった。ソキョンはヨジンの腰を両手で抱きしめた。ヨジンはあらわになった自分の胸と下腹を見ないように目を閉じた。全身で彼を抱きしめてもっとくっついていたかったが、弾力のない胸と垂れたお腹が気になった。美しくないということの方が年上の既婚者であることよりずっと大きな欠格事由のように思えた。そういう心境とは裏腹に体はソキョンを求め、ソキョンに触れたくてたまらなかった。
 美容院が密会の場所になるとは思いもしなかった。一回り年下の男の子に入れ込んで正気を失うなんて、自分とは関係のないことだと考えていた。人生が常に計画通りにいくはずはないが、ここ数年のように予期しなかったところで急流に流され、とんでもない方向に行かされたのも初めてだった。家族や友人が意外だと思う相手と恋をし、キツネにつままれたかのように三カ月で結婚した。結婚生活は順調で落ち着いていたが、調味料の欠けた料理のように味気なかった。味や適温のようなものは一緒に暮らしながらいくらでも合わせられると思って耐えてみたものの、火力が尽きただけではなく、味を良くしようと頑張れば頑張るほど、料理の味がまずくなった。この三年間、ヨジンの人生は大きく変わった。彼女は十年近く働いていた出版社を辞めて人生のある部分に対し自信を完全に失い、人生はコントロールできるものだという信念も捨てることにした。何の計画もなく美容院のオーナーになり、客と秘密の恋に落ちた。

【続きは書籍『終わりの始まり』でお楽しみください】

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Woman's Best 15 韓国女性文学シリーズ12
「終わりの始まり」끝의 시작

ソ・ユミ 著
金みんじょん 訳

四六、並製、176ページ
定価:本体1,600円+税
ISBN978-4-86385-538-0 C0097
2022年10月上旬全国書店にて発売

装幀 成原亜美(成原デザイン事務所)
装画 都築まゆ美

恋の記憶、家族の記憶、残酷で美しい春の記憶。
ソ・ユミは、私たち自身の傷と記憶を呼び覚まし、
時の流れとは何かを伝えようとする。
私たちはいつだって、人生の新しい章を始められるのだ。
櫻木みわ(小説家)

1970年代生まれの韓国女性作家、チョ・ナムジュ、ファン・ジョンウンなどと並び、韓国文学界を背負う一人であるソ・ユミ、待望の初邦訳

<あらすじ>
末期がんで苦しむ母の看病、妻との離婚を目前にし、幼いころの父の死が亡霊のように付きまとうヨンム。夫とはすれ違い、愛を渇望するも満たされず、若い男とのひとときの恋に走るヨンムの妻・ヨジン。貧困の連鎖から逃れられず、社会に出てもバイトを転々とし、恋人との環境の違いに悩むヨンムの部下ソジョンの物語とが交錯する。

「甘ったるい春夜の空気を物悲しく」感じる人々のストーリーは不幸という共通分母の中で一つになり、三人の人物が感じる「静かにうごめく喪失感」が小説の根底に流れている。それぞれがその喪失感を乗り越え、成長していく四月の物語を、やさしい視点で描き出す。

【著者プロフィール】
ソ・ユミ(徐柳美/서유미)
1975 年ソウル生まれ。2007 年「ファンタスティック蟻地獄」で文学手帳作家賞、同年「クールに一歩」で第1回チャンビ長編小説賞を受賞し、デビュー。都市に暮らす人々の孤独や葛藤を温かい眼差しで繊細に描く韓国を代表する女性作家。
短編集に『当分は人間』(2012)、『誰もが別れる一日』(2018)『今夜は大丈夫、明日のことはわからないが』(2022)、長編に『ファンタスティック蟻地獄』(2007)、『クールに一歩』(2007)、『あなたのモンスター』(2011)、『終わりの始まり』(2015)、『隙間』(2015)、『ホールディング、ターン』(2018)、『私たちが失ったもの』(2020)、エッセイに『ひとつの体の時間』(2020) などがある。本書が初邦訳。

【訳者プロフィール】
金みんじょん(きむ・みんじょん)
ソウル生まれ、東京育ち。10代で来日し、KBSラジオや京郷新聞などを通して日本のニュースを紹介し、また日本文化を韓国に伝える活動をしている。
慶應義塾大学総合政策学部卒業、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士課程単位取得退学。
韓国語の著書に『母の東京 ― a little about my mother』『トッポッキごときで』、共著書に『小説東京』『SF金承玉』、韓国語への訳書に『那覇の市場で古本屋』(宇田智子著)、『渋谷のすみっこでベジ食堂』(小田晶房著)、『太陽と乙女』(森見登美彦著)、『縁を結うひと』『あいまい生活』『海を抱いて月に眠る』(以上3冊、深沢潮著)など。日本語への訳書は、『私は男でフェミニストです』。


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