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駅伝と緊急事態宣言。年末年始、ウイルスは たすきを見事につないだ。そして私たちは?


 新年明けて、9日。
 例年ならばようやく正月ボケの沼から這い上がり、世の中が否応なくゆるゆると通常運転へと戻っていく、そんなタイミングだとは思うのだが、今年は違った。
 どんよりとボケていた自分が、どこか遠くに吹き飛ばされてしまったような気分だ。

 新型コロナウイルスの感染爆発による、一都三県への緊急事態宣言の発出。
 正月よりも静かに過ごす三連休を迎えている。

 前回の宣言下において、最も1日あたりの感染者数が多かったのは、2020年4月11日の720人。それが2021年1月7日は7533人と、10倍以上になっている。
 この目を覆いたくなる数字はもちろんのこと、手探りでの治療体制を構築しながらの自主的ロックダウン、という極端な形をとった昨年3月4月とは、状況がずいぶんと異なっている。

 昨春の自粛警察が大量発生してしまうほどの過剰な同調圧力を伴ったが、どうにかやり過ごした。
 夏の第二波も、温度と湿度を味方につけて、なんとか抑え込んだ。
 そして、半年間の経験をもとに「このぐらい対策していれば大丈夫」という一定の社会的コンセンサスを得た秋、GoToトラベル/イートで「久々のオトクなお出かけ」と「経済を回す私たち」を楽しんだ。

 この時点で、マスクをして、手洗い消毒を励行し、三密を避けながらの生活の習慣化はかなりの割合で進んでいたはずだ。その習慣を続けていれば、罹らない、このぐらいやっていれば大丈夫、という確信とともに。
だが同時に「このぐらいやっていれば大丈夫」の「このぐらい」の個人差がどんどんと拡大してしまい、そのタイミングで年末年始に突入してしまったように思う。

 この年末年始、前回のロックダウン時のように、飲食店が店を閉じることはなかった。そのため政府は「感染リスクの高まる5つの場面」を示し、5人以上の会食は「リスクが高い」と警告を行い、行動の自制を促した。
しかし、この警告の受け止め方は、まさに人それぞれだった。

 私の周囲でも、多くても4人程度、密にならない場所での外食を心がけていた人は数多くいた。その一方で、連日6,7人程度の忘年会、飲み会をガンガンとこなしている人もいた。

 飲食店側も、きちんと席数を減らして密を避ける対策を講じているところもあれば、アクリル板を立てるだけでワイワイガヤガヤを許容する居酒屋もあった。

 帰省も、しかり。
 今日、帰省した30代男性が陽性と判明し、両親にも感染させてしまった、というケースを聞いた。

 初詣も、しかり。
 もちろん全体としての人出は少なく、帰省ラッシュは起きなかった。それでも明治神宮には行列ができ、浅草仲見世通りは密になった。

 いずれにしても、「感染リスクが高まる5つの場面」=ロシアンルーレット・シチュエーションは、やはり発生した。

 結果として、人々の足並みは、そろわなかった。

 感染リスクをとことんまで避けようとする意識を全国民が持つべきだ、というつもりはない。自主的ロックダウンをもう一度、というつもりもない。

 あたりまえのことだが、私たちには表現の自由、行動の自由がある。
強制力を伴わないガイドラインや警告は、私たちの自由を奪うことはできない。そう簡単に、奪われてたまるか、とも思う。

 とはいえこの年末年始を経て、われわれは「ウイルスは手強いぞ」ということだけは共通認識として持つべき状況下にあることは、認めなければならない。

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 ここで、時計を一週間ほど前に戻したい。

 1月1日はニューイヤー駅伝。
 1月2,3日は箱根駅伝。
 いつものように、新春の日本では、たすきがつながっていた。

 つなぐ、という行為は、日本人の社会性の一端を示す行動ではないだろうか。

 思いをつなぐ。
 希望をつなぐ。
 夢をつなぐ。
 愛情をつなぐ。
 伝統をつなぐ。

 私たちは公私を問わず、部活動や企業や事業など特定の集団において、それぞれが自分に与えられた役割を全うし、「次」に何かを託し、全体として大きな果実を生むことに意義や喜びを感じる。
 チームとして戦い、チームとして勝利する。私たちはそれが得意だし、そうしている自他の姿に感動を覚える。年のはじめに、ランナーの姿を見て、今年もがんばろう、今年も自分にとってのたすきをしっかりつなごう、と思う。

 一方で今年の駅伝観戦は、沿道での声援を「お控えください」という告知がなされていた。

・第97回大会はスタート・フィニッシュ地点および各中継所、コース沿道での応援、観戦はお控えください。テレビなどでの応援、観戦をお願いします。
・大会関係者、OB・OG・同窓会組織など卒業生の方や、選手のご家族の沿道での応援や観戦もご遠慮ください。 (公式ウェブサイトより)

 ところがご承知の通り、スタート地点や中継地点には観客がいなかったものの、沿道のあちこちには応援する人々の姿が見られた。マスクをして、スマホで動画を撮り、カメラに向かって手を振っている人々の姿が。

 SNS上には、彼らをテレビで見て、いらつくツイートが並んだ。ツイートの嘆きや、テレビ画面での警告が増えた復路でも、沿道に人々は出ていた。

 新年早々、人々の思いは、見事なほどにつながれていなかったのだ。


 すべての人々がすべてのたすきをつなぐような、そんな社会はもちろんありえないし、正直そんな社会は気持ちが悪い、と思う。

 でも、つながなきゃいけないときが、来てしまった。

 なにしろウイルスは、この地球のそこかしこで、見事にたすきをつないでいるのだ。アメリカ、欧州、抑え込んだはずの韓国、中国、そして日本。変異種の伝播というあらたな武器をえて、見事にその増殖を続けている。
 彼らは実に巧みに、つながっている。

 つながりつづける彼らと私たち人類が、うまく折り合える(=ワクチンによる集団免疫の獲得が、最もありえる到達点だろう)までは、私たちもまた、時にはある意識をつながなければならないのだろう、と思う。

 今年の箱根駅伝は、創価大学の躍進が印象的だった。
 優勝校が脱落していく中、各区間の選手が淡々と走り続け、往路優勝、総合2位と過去最高の成績を叩き出した。

 淡々と、が一番むずかしい。

 3年前に創価大学の駅伝部監督に就任した榎木和貴氏は、部員の15km以降の走力低下をカバーするべく、綿密な計画を立て、月間500kmほどの練習量を750kmへと引き上げた。一方で身体のケア、コンディション作りを重視し、全体としての走力アップと各部員の自信を引き出し、昨年の9位、そして今年の2位という結果を手にした。
 彼らがつないだのは、正月2日の走りだけではない。おそらくずっと前から、たすきをつなぎ続けていた。だからこそ淡々と結果を出せたのだ。

 もちろん、完璧ではない。10区で猛追する名門駒沢大学にかわされた。悲劇も包含された躍進だった。

 これもまた、私たちにある教訓を示してくれている。
 いくら準備しても、完璧というものはないのだ。

 今。
 私たちはそれぞれに自由を持ち、生活を営んでいるけれど、その自由や生活が奪われてしまうくらいに、ウイルスは私たちの道を阻んでいる。
 ならば、私たちは自由と生活のために、いまはウイルスと競わなければならない。
ウイルスが見事にたすきをつないでいるように、私たちも、感染予防というたすきを、それこそ淡々とつながなければならない。そう思う。

 そして政府はただ、私たちが現段階で最も効果的と思える予防策(=ガヤガヤ外食しない、出歩かない)をつないでいく中で生じる無理を解消するための施策に傾注すればいい。

 シンプルな話だ。

 いまは、たすきをつなごう。
 ウイルスがたすきを十分につなげなくなるまでの、我慢比べが始まった。


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