変態が我が道を行くと。。。
わたしって、どっか変態なところがある。(のは自覚している。)
突然ですが、理想の死に方、って考えたことあります?
わたしは結構死ぬ時のこと考えるんです。
その話をし始めたら、セミナーの時やタロットの生徒さんたちには、
「『あー。おもろかった!』と言って死にたいんだよね。」と、いつも話しているのだけれど。。。
でも、実は高校生くらいの時から、こんな死に方できたら、めちゃ面白いはず!って思っている【死に方】がわたしにはある。
そして、それをどうしてもやりたくてウズウズする危険で変態的なわたしがいたりして…。
そのやりたくてたまらない【死に方】って、
【死んで行く人間の実況中継】。
不謹慎に聞こえるかもしれないということをあえてわかって書いている。
でも、これは思っている妄想レベルのことなのだから、文章としてここで書くことをできれば許してもらいたい。(誰にだ?)
さて、わたしの言う【死んで行く人間の実況中継】とは、こんな感じ。
「あ。いま、心臓がやや心拍数が落ちて来た。」
「それに伴って、呼吸がちょっとしにくくなって。。」
「いや待てよ?呼吸というよりも、肺が動きにくいのは全体的な筋肉に力が入らなくなって来たからか?」
「あ、そうこう言っているうちに、足が動かなくなって来たよ。」
「ここまで来て、なぜか顔の周りかが痒くなって来ました。」
「うーん。○○さんの声も聞こえづらくなってきたな。もう少し大きな声で話してみて?うん。聞こえた。」
「どう?わたしの顔色ってどんな感じになって来ている??」
「そっか、ああ意識がだんだん…」
みたいな。
死んで行くプロセスの自分の身体の中に起きる感覚をしっかりと味わって、それを周りの人に伝えたい。
まあ、それに付き合わされている周りの人間はめっちゃいい迷惑でしょうけれどね。
ね?変態でしょ?
ただ、なぜか高校生の時から、なぜかそんな願望を持っていたわたし。
だからかもしれないね。
「まぐわい極め道」という、ブログを毎日のように書けたのは…。
愛する人がわたしの体の中に入ってきて、どんどん変化し、起きてくる全身の感覚を、つぶさに観察するのが、わたしにとって、とてつもなくワクワクすると楽しみだった。
だから、毎日ブログを書けたし、何よりも書きたかった。
まぐまぐ(愛のあるセックス)の間に、膣の中で感じていることが、わたしの全身を通して、感情がどんな風に変わっていき、同時にわたしの肉体がどんな風に動き、そして終わった後の、起きている目の前の現実がどんな風に見えるのか。
ただ、それを楽しみたかっただけなのだ。
なのに、いつからか、それを「伝えていかなきゃいけない」という使命感に切り替わってしまって、『誰かのためにこの感覚を味わう必要がある』、とどこかで自分を追い込んでいたような節が見受けられたので、だんだん面白くなくなっていったんだよね。
ふふふ。
あんぽんたんだ。
じゃあ、今回、どうして、そこの追い込んでいた自分に氣がつくことができたのか?
実はこれがこの肘のかゆみの感覚を味わい尽くすということから始まった。
きっかけは、夏に肘を虫に刺されて痒くなって、掻いていたのが、なぜかいつまでも治らない。
そんなところからだった。
最初は左だけだったのに、いつしか右も出るようになり、かゆみが強くなって来た。
昔、ステロイドでちょっと困った目に遭ったわたしは、病院には行っていない。だからなのか?もう軽く2ヶ月は経つのに、虫刺されのかゆみは治っていても、かゆみと乾燥になって残ってしまっている。
かゆい。
いつしか口癖が、
「痒い。」となってしまうくらいになっていた。
それが【嫌でたまらない】。
さあ来たぞぉ。
体が声を上げ始めたぞう。
でも、意味がわからなかった。かゆみに聞いてもわからない。内側から声が聞こえてこない。
いつものわたしなら、自分の知識や読んでいた本から、いろんなものを引っ張り出して来て、どうしてそうなるかを調べるのだけれど、今回はそこを【あえてやらなかった】のは、『内なる声を聞きたかった』聞こえてくるのをひたすら待っていたから。
でも、今朝、ふともう感じ取ることができないのなら、諦めて意味を調べてみよう思ってしまったら、すごい何かが軽くなった。
今のわたしに起きている体と心のリンクを説明すると。
肘(腕)のかゆみが起きるとき、わたしは決まって「わからない人にイライラしている」ところまでは自分で観察できていた。
例えば、マグワイヤーが、
「携帯どこにある?」って聞いてきて、じぶんで探そうとしないで、すぐにわたしに聞くという状態にイラっとしたら、痒くなる。
腕を掻きながら、
「そこにあるやん。」とぶっきらぼうに答える自分のそんな無愛想な声が、たまらなく耳障りでそれが嫌になり、またイライラ加速して、知らない間に肘をボリボリ掻いてしまっている。
とか。
タロットの生徒さんに「これやっておこうね。」と伝えたのに、全然前に進んでいないで、既読されたスレッドを見返されることもなく、
「あれってどこにありましたっけ?」と聞かれて、
「ここに書いてあるよ?」と答えるときにイラっとして、その自分の短氣さに情けなくなってまたイライラする。
とか。
ちゃんと自分で見返してよ。
調べもせずに聞いてこないでよ。
やりもしないのに、質問しないでよ。
『こちとら【ちゃんと】自分でチェックして確認しているのに!わたしだって簡単に聞きたいわよ。自分で調べろ!面倒くさがるな!』
という本音がでてきているのを、無理くりぐっと【抑えていた】わけなんだよなあ。。
ほら、ほら。ちづるちゃん。抑えていたことを出して(書いて)いたらだんだん見えて来たじゃん。
かゆみが始まったら、わたし中ではこんな葛藤(炎症)が起きていた。
『氣をとられて集中が途切れる。』
『動きを止められる。』
『振り返させられる。』このようなことが起きていたわけですよ。
そんな時に、どんな氣持ちが生まれるかというと、
『朗らかでいられない自分が嫌。』
『笑い飛ばせない自分が嫌い。』
『集中できない自分が情けない。』
そんなドロドロとした感情を味わっておりますです。ハイ。
自己嫌悪!
ふふふ。(ん?ここで笑ってるわたしって誰なんだ???)
ということで。。。
ここまで出したらだんだんわかって来た。
わたしって、こんな観念を持っていたんだね。
【わたしは朗らかでなければならない。】
だって、元氣で笑っていないわたしだと失望されるんだもん。
【笑える人間でなくちゃいけない。】
だって、深刻すぎると怖がられるもん。
【集中できないわたしじゃいけない。】
だって、バカにされるんだもん。
そうわたしは、暗いわたしや、深刻なわたしや、注意力散漫なわたしを排除しようとしていたわけだな。
そんなことを思い知らされるような出来事が満月で重なった。
絶対落としちゃ行けないスケジュールをポカしてしまった。
しかも寝坊という、一番鈍臭い形で。
一番最初に沸いた感情。
「呆然。」
ん?これは感情じゃないか!状態だな。
や。でも呆然だった。
そのあとに自分をまあ、攻める責める。
自己責任・自己管理・自己否定・自己自己自己自己・・事故。
実はお叱りもうけたし、批判もあった。
それを甘んじてもちろん受けた。けれど、最後の最後に出てわたしの奥底から出て来た言葉。。。
「失敗しても笑い飛ばせる関係性でありたいんだよ!(一回くらいの失敗を許してよ!)」
というわたしの悲痛な心の声だった。
わたしはわたしを見張っていた。
失敗しないように、ドジ踏まないように、完璧であるように、外れないように。
それが苦しくて仕方なかった。
でも、どうしてそうなったのか?そこは正直わかっちゃいない。
けれど、まずは、いまのわたしが【わたしを赦せていないわたしの声が聞こえた】からそれでよかった。
今日、この肘とかゆみのメッセージを調べてみてわかったキーワード。
●皮膚・自分をどう評価しているか(どう見られているか)に現れやすい
●かゆみ・欲しくてたまらないのに我慢してイライラしている
●肘や腕・自由に振る舞う、自分の能力を発揮する
ほんとうは、失敗するとか、ドジを踏むのが嫌だから、一所懸命頑張って大人ぶって振舞っているのに、好き勝手に子供みたいにわからない!という人をみたらとてつもなく腹が立っていた。
わたしも、あんなふうにドジを踏んでいいのに、失敗してもいいのに、それは頭ではわかっているのに、それができない【観念】があったということ。
「失敗しても笑い飛ばせる関係性でありたいんだよ!(一回くらいの失敗を許してよ!)」
人の失敗を許容していても、自分のそれは許せない。
どうして?
自分の失敗は笑い飛ばせないから。
これが根深くあった観念だっだね。
さっき炙り出した
【わたしは朗らかでなければならない。】
だって、元氣で笑っていないわたしだと失望されるんだもん。
【笑える人間でなくちゃいけない。】
だって、深刻すぎると怖がられるもん。
【集中できないわたしじゃいけない。】
だって、バカにされるんだもん。
この大前提がわたしの中にあったんだ。
はあ。すっきりした!
そう感じた瞬間に、ずっと言えずにいた言葉がすっと出て来たり、どうでもいいかなと思っていたことを、パッとやめられたり、でも何よりも、こうやって、ずっと「何を書こうかな」と思っていた文章が止まらないほど出て来ている。
自分に嘘をつかないって本当に大変だ。
だって、嘘ついてることに氣がつかない時だってあるんだから。
でも、それがわかったら、本当にスッキリするし、晴れやかだ。
今日の天氣のように。
さあ。ここから、ブログも活動も改めていこう。
失敗してもいい。
ドジ踏んでもいい。
すべてがわたしの中では【感覚を徹底して感じたい変態の遊び】のような人生だと諦めよう(笑)。