完璧な状態で居続ける許可
嫌いから愛おしいに変わるまで
60歳に新しいエネルギーの私で生きるスタートを切れるように、59歳のうちにもう少し残っている思考や常識のしがらみを脱ぎ捨てたかったのです。
その一つとして、私と伴侶は一糸まとわず人の前に立つという二人の世界を表現する撮影に挑みました。
私は、まぐわいというものがエロティシズムの延長線上で語られることにどうしても違和感があるのです。
私の知っている伝えたい、まぐわいとは、エロティシズムをも包括し、それを超えた魂の和合に繋がるための鍵。
ましてや、ただの色情や欲情などの情念という心ベースや、満たされない心の刺激や癒しだけで止まって語られるのはどうなのか?と懸念を持っているのです。。
話は飛ぶかもしれないけれど、避けては通れない私の「体」コンプレックスを乗り越える話をしない限り、今日伝えたいことは伝わらないので、少し横道に逸れるのを許して欲しいのです。
大阪で生まれて育った私の小学時代。小学校は私服でした。
小学6年生2学期の時、私は大阪から愛媛の田舎の小学校に転校することになったのだ。その学校は制服だったのです。
まさにこのタイプの制服。
なんと。私は12歳から身長も体重もほぼ変わっていないのです。
そう。相当私の体は成長が早かったわけですね。
12歳の時には胸の大きさが80センチ近くあり、しかも頭の大きさは58センチの完全に近い大人体型だったのです。
小学校の制服が異様に似合わない少女。
この黄色い帽子もそもそも合うサイズがなかったくらいだし、その上、このデザインの制服が際立って、大人が小学生の制服を着ているかのような雰囲気を醸し出していたわけなのです。
大人のサイズでありながら、胴が長くて足が短かった私。(それは今も変わっていません)
頭のサイズも大きいこともあり、残酷な小学生の男子たちからいつもからかわれるの対象になっていたのです。
いつも私の後ろに回った男子たちが、
「胴長!短足!」と大声を出して笑ったのです。
女子たちは体育の授業の着替えの時に、
「そんなに胸が大きいのになんでブラジャーしてないの?おかしいよ!」と胸の大きいことを冷ややかな目で見て口々に言ってくるし。
この頃から、自分の体型に全く自信が持てない上に、体(見た目も中身も)が大嫌いになっていく青春期が始まったのです。
好きな人ができるほど、私のコンプレックスは強くなりました。
大人になって、初体験を経験して、好きだった人と愛し合う時はどこかでいつも恐怖を感じていたのです。
「絶対この体に幻滅される。」
そんな風に思い込んでいた私は、極力布団で体を隠し、一緒にお風呂に入るのも断り続けたのです。
大人になっても払拭できないトラウマ。
どんなに大きな胸を羨ましがられても、くびれた腰を褒められても、なで肩が嫌いだったし、お尻の形が嫌いだったし、太くて短い足なんて憎んでいた。
そんなところは変えられなかったのです。
そんな私だったけれど、それ以外のところは全てを曝け出すことできたし、楽チンな感覚で暮らしていた。
でも人前に出る時は、コスプレなどで自分を自分で隠すようなスタイルで出るような私だったのです。
50歳直前まで、このトラウマの解放だけは起きなかったのです。。
でも、奇跡が起こって、49歳で今の伴侶と出会い、彼が全てを受け入れてくれて、全てをさらけ出せたことによって、このトラウマそのものを受け入れることができ、愛おしく思えるようになっていきました。
この人の前ではもう怖くない。全てをさらけ出せる!
そんな、堂々とありのままを彼に見せる生き方を何年も送ってきたからか、今ではもう誰の目も気になることがなくなり、あれだけ嫌いだった自分でしっかりと受け入れられるようになりました。
ここまで来ると、表現する際に、逆にゴテゴテと飾ったり、モリモリに盛流ようなことには全く興味がなくなったのです。
ありのままでいたい。これが私の肉体なのだから。これが完璧なのだから。
理解が深まった私は、本当の本当が現れているものでないと、つまらないと思うようになってきて、隠したり修正することを嫌だと思い始めたのです。
じゃあ、本当の本当がどうやったら現れるのか?
それが最後のテーマになったのです。。
ありのままが完璧であると許せること
さて、話が最初に戻るのですが、私はまぐわいをエロティシズムで片付けられてしまうのがもったいなくてたまらないのです。
自身の経験を通して言えることは、真のまぐわいは、精神と肉体を融合させて、魂まで昇華させていくだけの鍵となりうるものであるのです。
単なる刺激の先にある肉体的至福だけでもなく、承認欲求を満たす心理的至福も超える程度のものでもない。
生…すなわち命そのものを感じる体験の鍵なのです。
真のまぐわいは目醒め続けて生きることができるエネルギーを生み出します。
このエネルギーこそ、目先の欲求ではない【精神の高みに導かれる】真のエクスタシー(至福)に誘ってくれるのです。
この至福を何度も味わい、その世界に居続けている時間が長いほどに、体を重ねた相手と私に境目がなくなり、私は宇宙であるということを知り得るのです。
ただ、まぐわいを、欲求を満たすレベルの認知してしまうと、そんな程度になっちゃうのが残念でならないのです。
もちろん、私も伴侶もそれを体現し、実体験で受け止められたから言えることだけれど、誰しもがそうなるとは限らないのかもしれない、とは思っています。
わからないのです。これは素直に認めます。
ただ、いま、私たちは【覚醒】を2人で深いところで意識し、その状態で生きることを心から望んで毎日くらしているのです。
ありのままの私と相手を『これが(お互いにとって)完璧なのだ』と認め合えたからこそ、誰の目も憚ることなく、全裸で太陽の下に凛と立つことができたと思うのです。
短い足でも、頭が大きくても、私はただの1人の人間で、地球の一部でありながら、私という肉体が伴侶とともに存在している。
愛しています。
すべてを。