人間は、1日で最大3万5000回の決断をしているらしい。
人間は、己の生き甲斐、遣り甲斐を感じる道に進むべし。
これ、満場一致で異口同音であろう。
然し、これだけでは埒が明かないのが実相。
「え?生きがいとかやりがいを持って生きるだけではダメなんですか?それだけでも難しいことなのに…。」
「人間って、ほらあれだろ?すぐに楽したがるし、あきらめるし、やりたいことあってもやり切れん。だから、最後まで続けろっていう継続力が大事だって言ってるんじゃないの?」
「いや、違うと思うよ。生き甲斐とか遣り甲斐って、聞こえはいいけど、自分だけの話でしょ?一生懸命に遣り甲斐もってやっていたことが、社会悪だったり、人を傷つけていることだってあるんじゃない?そういうことも考えることが大事だっていうことなんじゃないの?」
「いや、なんか意味不明。これ以上、何を頑張れっていうんですか?こっちは生きるのに必死で、明日のおまんまも食えるか分からない状態の時に、生き甲斐とか遣り甲斐とか、そういう話、無理だし。もっと命削って働けっていうこと?ならばもうこれ以上は無理っす。死ぬしかない…。」
「いやいやそれって、生き甲斐とか遣り甲斐もって生きていないから、そういうひもじいことになっているんじゃないの?もう、自分がダメなことを他人とか社会の所為にしない方がいいと思うよ。」
「人間って、結局、一人じゃないですか。親に頼ろうが、誰に縋ろうが、最後は自分で生きていかなきゃならないんだから、もっと自分がしっかりしなくちゃって思います。そのために、生き甲斐ややり甲斐を持って生きるのは分かる。その方がしっかり生きれそうな気がする。でも、それ以外に何があるんだろう。ぜひ、教えてほしいです。」…
人間は、1日で最大3万5000回の決断をしているらしい。
そう。
人間の生涯は、このたくさんの決断の積み重ねで出来ている。
その中には、善い決断や、悪い決断が混在している。
問題は、ここだ。
この善い決断、悪い決断は、誰にとっての評価だっていうこと。
確かに、自分自身にとって、もっと云えば、自分の遣り甲斐や生き甲斐にとって善い決断、悪い決断と評価することも出来る。
然し、未熟な人間の評価など、なあなあ曖昧、そして実相の中では悪に相当することもある。
つまり、人間は、未熟者であることが前提なのだから、未熟な人間が生き甲斐、遣り甲斐を持って生きるのは自明の理としても、“善一筋、生涯善人で生きる”という人間万人の絶対的宿命の一つ、即ち人間の最大の務めを果たさぬば、運の扉は啓ことはないということだ。
厳しいかなこれが実相。
事実、人間は、実相の中で生きている。
しかもそれを自ら志願して。
己、生き甲斐遣り甲斐に生きたとして、どれだけたくさんのことを見て見ぬ振りをした?
どれだけ多くの微悪を隠した?
人間同士なあなあずくで悪を許し合ったことは本当にないか?
実相では、些細な出来事、心の内まで見逃されることはない。
この在り様を分かったのなら、そのように性根を入れ替え生きてみよ。
運の扉が啓き、人生、劇的に好転し始める。
そのことを肝に銘じ、自分の遣り甲斐生き甲斐が善一筋になっているかを見直し、否であれば、一から出直します。
有難う御座います。