それを自由と称し浮遊し続けている
何かが足りない。何が足りないのか?何かが足りないから、心が満たされない。不安が拭えない。苛々が収まらない。ものごと思うようにならない。この「何か」が足るに至るには、どうすれば良いのか。何か条件でもあるのだろうか。この何かに対し、モノや金を想像したものには、残念ながら一切何も訪れない。条件すら提示されない。どう頑張っても人生好転しない。モノや金ではなさそうだと感じるものでも、よろよろ、ふらふらと、外ばかりが気になり、目に見えるから何か良さそうだからと言って誰かの言うことや幻想ばかりを掻き集め、それを自由と称し浮遊し続けていると、本当のこと、本当の自分を見ようとすらしないことに対し、意味不明な不安や恐れ、イライラに苛まれ続けることになる。ふと気付いた時には、濁流の中に紛れ、吸い込まれ、もはや自力で戻ることは出来なくなる。この得体の知れない“何か”を、まず知るための条件とは何なのか。それは、己自身が根が無い状態で生きている「根無し草」であるという事実を受け入れる必要がある。即ち、真の自分の存在が一番良く分かっていないということを自認すること。まずはそこから始まる。見えているようで見えていないのは、実は本当の自分なのだ。だから人間は、自分のことを分かっていると思っていても、無条件で探究し続ける必要がある。なぜならば「人間」は、そもそも半端で、いい加減で、気分屋で、自我が強く、自分勝手で、自分が見たいものしか視ない生き物だからである。ならば、意志を持って見えない部分に目を向け、素直に謙虚に探求の根を張ることが出来るか、これが肝となる。また人間は、全て与えられているということに心底感謝が出来れば、心の目が啓き、見えないものが見えるようになっていく。そうなれば、何が現実に起きようと、不安や恐れ苛々が訪れることなく、心の安寧を持って生きることが出来る。
そのことを信じ、肝に銘じ、真実と自分自身への探求の根を張り、真っ当な大人になれるよう尽力していきます。
有難うございます。