『今現在』のモードを巡って

今回は、現代短歌界のスターの一人である穂村弘による歌論『短歌の友人』を取り上げる。中でも、第4章『リアリティの変容』掲載の論考(『モードの多様化について』『モードの変遷と「今」』『反アニミズム的エネルギーについて』)を素材とする。
なお、本作は歌論というだけでなく、広く表現論や言語論としても極めて興味深い論点がてんこ盛りであるので、是非その他の論考も読むことをお勧めしたい。

1.   穂村の問題意識
本作を通じた穂村の問題意識は以下の部分に端的に示されている。

近代以降の短歌の流れを眺めてまず感じるのは、時代のモードが切り替わる時期に秀歌は生まれているのではないか、ということだ。…時代の転換期に詩型としての短歌が何らかの「対応」を示し得たとき、それが秀歌として定着するのではないか。「対応」の力が弱い場合、それは単なる時代の「反映」に終わってしまう。        『モードの変遷と「今」』

優れた短歌である秀歌となるかは、その時代のモードを明敏に自覚しつつも、一方で拮抗するような力を示し得るか、ということになろうか。だからこそ、ここで言う「対応」が弱ければ、それは時代のモードに埋没した小器用な代物に過ぎず、秀歌たり得ない。

ここまで考えると当然以下のような問いが立ち現れることになる。

時代によって規定されるモードとはどのようなものであるのか。或いは、どのようなものであったのか。

この問いに答えるためには先ずは近代と現代のモードを考え直す必要がある。

2.       近代のモードと現代のモード
本稿は、『モードの多様化について』に則り、近代短歌と現代短歌を比較しつつ二項対立的に進めていく(一方、私は近代→現代→今現在というフローで動態的に捉え直したいと考えているので、次回はこの流れに沿わないことになる)。とはいえ、先ずは穂村の論に沿って考えていくことにしよう。

斎藤茂吉の作品を頂点とする近代短歌は、どのようなモードに規定されていたのか。例えば以下のような短歌が引用される。

さびしさの極みに堪へて天命に寄する命をつくづくと思ふ            伊藤左千夫
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり             斎藤茂吉

穂村は、近代短歌を支えるモードとは『生の一回性』の原理であり、そこでは命の重みを歌うことが至上の価値とされたとする。そこでは交換不可能な「私の生」が歌われる。穂村の言葉を借りれば、近代短歌は『命の器』そのものだった。

一方、現代短歌はどうだろうか。
穂村は塚本邦雄の以下の歌を引く。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも             塚本邦雄

どうだろうか。
先の斎藤茂吉らの短歌と比較したとき、ここに言うペンギンは、どう考えてもリアルなペンギンとは思えないのではないか。
穂村はここに、現代短歌のモードとして、言葉のフェティシズム=『言葉のモノ化』を見る。リアルな生ではなく、アニメ的マンガ的なイメージが乱舞する世界。近代短歌の生の一回性というモードを手放した末に、我々は『生命を生身のそれではなく自由に扱えるモノとして』扱えるようになったのだ。

ここで注意したいことは、決してマンガ的な表現とは写実的でないこととイコールではないと言うことだ。ある種の神話や寓話にあるようにメルヘンの形をとってリアルを痛罵するような表現形式は、穂村の言葉を借りれば『近代のモード』のもとにあることに変わりない。リアルであること、根拠を求めていけば最終的に生の一回性に辿り着く感覚、寄るべきところの明確性があるかが鍵となるのだ。

3.      近代→現在、その次のモードとは?

このような近代のモードの相対化と『言葉のモノ化』は、何によって引き起こされたのだろうか。穂村はそれを驚くことに『自分自身が死すべき存在だという意識の希薄化』に求めるが、どうも陳腐な結論に思える。穂村自身、モードの多様化のために現代以降のモードは語りきれない、そんな一種の諦念を吐露しているように思える。

モードの多様性を自然なものとする感覚に正比例して、現実を唯一無二のものと捉えるような体感は衰退していく。…いわゆる「なんでもあり」の感覚である。   『モードの多様化について』

『私』性の屹立(生の一回性の原理)→言葉の『モノ化』と時代のモードを反映しながら、対応してきた短歌のモードは、今どのような段階にあるのか。それを語る段になるや、またしても穂村の切れ味は鈍い。

モードの多様化は、自分自身が死すべき存在だという意識の希薄化と表裏一体になっている。…我々は死を直視して「生の一回性」の原理を見据えた表現に戻るべきなのか。…「何でもあり」からの次の一歩を想像することは難しい。

近代のモードでは一回性に特徴づけられる生を表現するために、使役される手段として言葉があった。その言葉の優劣は、如何に生のかけがえのなさを活写するかに終始することになる。その後、近代のモードにより言葉は『モノ化』されることで、恰も現実との接着点=生の一回性を見失ったかに見える。
だとすると、穂村の言うように現代以降のモードは、最早なんでもありの様相を呈し、無秩序な代物とならざるをえないのか。

私にはそうは思えない。
次回は言葉のモノ化とはどういう現象なのか、もう一度考え直すところから始めよう。その中で、今現在増えていると穂村が指摘する「棒立ちな歌」とはどのような歌なのかを考えていくことで、今現在のモードについて迫っていくことにしよう。

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