悩みにはたくさんの種類がある。恋愛や仕事、或いは小さな人間関係で私たちは簡単に疲弊する。友人から嫌われたかもしれない、自分は評価されていないかもしれない…笑ってしまうほどの忙しなさで、日々大なり小なり私たちは悩んでいる(と思う、少なくとも私はそう)。 もしも悩みがないとすれば、それは心底羨ましいことだが、今考えたいのは悩んでしまう私やあなたに向けて「どんな手があるのか」だ。 その方法として、私は「小さな悩みに、大きな悩みをぶつけること」を提案する。奇怪なアイデアな気もするが
既に人々が経験していないものは終末だけとなった。 とてつもない作品である。 正直なところ、本作は簡単にレビューするには余りに深い。 このような作品は滅多にあるものではない。 だからこそゆっくり考えて読んでいくことにしよう。 本作は、『太陽』と題されてはいるが、人類の終末を描いている。それも、その終末は映画『アルマゲドン』のように英雄が土壇場で回避するのでもなければ、人類の叡智を結集するのでもない。人類は後述する第三形態に至り、言わば必然的に終末を渇望するのだ。 作中で、
生きる。生活する。 答えは簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。 一体日本人は生きるということを知っているのだろうか?。小学校の門を潜ってというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を成し遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。 現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにも
祖父が亡くなった。 明るい人だった。 関西人らしくいつも冗談を飛ばしていた。最後に電話したのはいつ頃だったろう。 多分、1ヶ月前くらいだろうか。 俺は都会で暮らしていたから、仕事や日々の雑事に追われる中で連絡も疎かにしがちで、そこに近頃の感染症もあって顔も碌に見せられていなかった。 小さいときベイゴマやらあやとりやら、怪しい手品もよく教えて貰った。本当に楽しかった。何をやらせても、上手だった。 あの時に教えてもらったことは、実はもう覚えていない。楽しかった記憶だけが残って
以前、日本は「自罰的」になっているのではないか、という記事を書いた。 東京オリンピックを巡る我々の陰鬱なモードが何なのか、それを「自罰的」という言葉で捉え直すことを企図したものではあったものの、どうも生半可なままで終わってしまった感が否めない。国民感情は日本•日本人自身へ「自罰的」となっており、「オリンピックを中止させたいという潜在的な感情が蠢いているのではないか」というかなり直感的な感覚に基づいて書かれたものであったこともあるが、当時オリンピック開催前•開催中であり、自ら
日本は自罰的になってはいないだろうか。最近の動向を見てふと思う。 私には、現状の閉塞感や、或いは遣る瀬なさを超えて、かなり過激な運動として、蠢いているように思えるのだ。 蔓延するのは、何とか現状を打開しようとする態度でもなく、自分を虐めるような不可思議なマゾヒズムに近い。 外部要因で否応もなく押しつけられる不快な現実から、何とか目を背けるために「寧ろ自分で壊してしまう」。壊される前に壊してしまう。更に悲しいことに、これは苦し紛れの行為ですらない。逃避すべき先/未来への覚悟も
前回は、近代短歌と現代短歌のモードを論じた穂村の議論を踏まえながら、穂村自身が語り尽くさなかった今現在のモードとはどのようなものなのかを考えていく、という本稿の主題を確認した。 今回は前回の整理を基に、今現在のモードを反映しているであろう「棒立ちの歌」の意味するところを精査することから始めよう。 1. 穂村による 「棒立ちの歌」解釈 穂村は2000年代以降(現代と対比する上で「今現在」としよう)の短歌には、以下のような「棒立ちの歌」が増えていると指摘する。 3
今回は、現代短歌界のスターの一人である穂村弘による歌論『短歌の友人』を取り上げる。中でも、第4章『リアリティの変容』掲載の論考(『モードの多様化について』『モードの変遷と「今」』『反アニミズム的エネルギーについて』)を素材とする。 なお、本作は歌論というだけでなく、広く表現論や言語論としても極めて興味深い論点がてんこ盛りであるので、是非その他の論考も読むことをお勧めしたい。 1. 穂村の問題意識 本作を通じた穂村の問題意識は以下の部分に端的に示されている。 近代以降の
寺田寅彦という随筆家がいる。正直なところ彼の著書は沢山読んでいるわけでもないが、ただ一冊のあるフレーズがどうしても忘れられない。 黴臭く、ひんやりとした大学の地下書庫で、手に取ったその本の一節に、俺は只管にやられた。 日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。 出典:『柿の種』寺田寅彦 岩波文庫 詩的なものや芸術に憧れていた当時の俺は、その一方で、芸術なんて過度にセンチメンタルで役に立たないものなのかもしれないと畏れていた。役に立たないこと
日頃から思っていたことをふと備忘的にまとめてみたくなったので。 全く取り留めもないがあえて書く。 自分の身近にいる優れた人の条件をまとめたもの。 ①守備範囲以外のことでも、『この範囲に答えはある』という嗅覚があること。 お受験とは違い、社会の物事にしっかりとしたそのものズバリの解答を出せることは少ない。だからこそ、区間推定のように「ある範囲±αのなかで答えは落ち着くだろう」と言う直感が重要。 網羅的に場合分けをすることは大切だが、常識的な範囲を決めなければ、際限なく場合分
万全な準備をして臨みたいと思う。準備万端一点の曇りもない安心な状態で挑戦したいと思う。 叶わないと思ってはいても、ついそう願うのが人間の性なのだろう。いつか来る準備万端な自分を夢想し、「少なくとも今日ではない」と先延ばしにする。そんなこんなで月日が流れる。 そもそもここで言う準備万端な状態とはどんな状態だろうか。色々と言葉を尽くしたとしても、要するに「不安にならない安心な状態」ということに違いない。 とすれば、「安心な状態で挑戦したい」という矛盾どころか一種倒錯した感情が浮
最近絵画教室に通い始めた。 特に大きな理由がある訳ではなく、デッサンを学んでいる。デッサンをする、というとどうも現実をありのままに模写する、と受け止められがちだけれども、全く違う。デッサンは、『現実を因果に基づき細部に分割し、それを再統合する行為』そのものだ。ある物体は、それ単独で存在し得ず、常に他の物体との相互作用(光源、影、テーブルの反射…)の集積としてしかあり得ない。 従って物体を眼差し、デッサンするには、現実を分割し、因果の糸を解きほぐし、集積した後、全体の統合を図
つくづく『教養』という言葉は、喧しい言葉だと思う。 書店に行くと、「教養としての〇〇」やら「教養の〇〇」といった具合で、全く強迫観念的なタイトルばかりで、辟易してしまう。何でこんなに『教養』という言葉を見るにつけ、聞くにつけ、苛々するのだろう。 彼らの言うところの『教養』はどうやら一つのパッケージ化された知識のようで、とても便利な代物のようだ。最初から最後まで、まじめに「学び」「覚えれば」、次のステップに移っていける。そしてそれは、直線的なプロセスの一部分でしかなく、当然