何回同じことの繰り返しやねん
何回同じことの繰り返しやねん、もうそろそろ疲れたわ。
朝起きて、まず思うことは「死にたい」
いや、もう少し言うなら、「どうして生きているんだろう」という問いだ。
初めてそう思ったのは小二だった。その時は、うっすらそう思っていた。父は勝手に、何も言わず母と離婚したのに、毎日私にわがままだの短気だの言ってくることが、私の腹の中を黒く染めていった。新しい母親が来ても、一向に変わらなかった。今思えば、もうこの時点で自分は黒く染め上がっていたのだと思う。
中学は母と過ごした。流石にこれは父に殺されると思い、家を出た日から、前の家には帰らなかった。幸いなことに、母はとても優しくて、コロナの自粛期間中は人生で1番幸せな時だったと思う。
でも、私は黒いままだった。
中1の後半から学校に行けなくなった。
学校は窮屈で、酸素濃度が低くて、私は息が出来なくなった。息をする方法を忘れてしまった。「普通」が出来なくなってしまった。いや、元々自分は黒かったのだから、そもそも普通になることなんて不可能だったのだろう。
私は明らかクラスで浮いていた。浮いていた癖に、軽蔑の目や尊敬の眼差しは、誰よりも素早く感知していた。私にとっての「普通」は、皆にとっての「異常」だった。
そんな私にも、一筋の光はあった。
絵を描くことだ。
私は誰よりも絵を描くのが上手かった(と思っていた)。小学生の頃から藝大をめざしていたから、絵には自信があった。実際、ネットにもファンが出来て、それだけが救いだった。自分は本気で藝大に行けると思った。だから、中3の時、東京で一人暮らしをして、予備校に通うという、なんとも軽率な計画を立ててしまった。でも、このときは、夢があった。だから、楽しかった。
母親の期待と莫大なお金をかけ、東京へ来た。
王子に住んだ。日当たりの悪い部屋だった。
内覧も無しに来たから、(今思えば本当に馬鹿だ)初めて見た時は少しがっかりした。母親との別れは呆気なく終わった。
高校、友達は1人も出来なかった。それどころか、予備校でも誰とも話すことが出来なかった。御茶ノ水にあるその予備校では、3日目の講評の日、才能のある作品が目の前に並べられる。35人位いて、大体10枚ぐらい。私が並べられたことは、一度も無かった。
その時、気がついた。自分はただ人に認められたいがために絵を描いていたということを。
なんと失礼なことだろう。自分は絵に対して、芸術に対して、本当に無礼なことをしていたと、気がついた。
死にたくなった!
でも、もう後戻りは出来ない。東京に来てしまったのだから。母親の期待を背負ってここまで来たのだから。友達もおらず、家族もおらず、私は王子の中で、1人孤独を感じた。
過食に走った。貯めていたお金を、全て安い食べ物に変えた。学生マンションのご飯をおかわりしまくり、一日に切り餅を5個食い、カップラーメンを食べ、チョコを食べ、そして吐き気に悶えた。顔だけが、ぶくぶく太っていった。(きしょい体質)おまけに散髪も失敗されたから、鏡には不細工な顔が写っていた。このときはもう、爪の先まで真っ黒だった。
母親に、正直に打ち明けた。
予備校に通えないこと、毎日苦しいこと、過食して吐いてしまうこと。
母は最後まで優しかった。私の心身を優先してくれた。そして、12月に一緒に東京に住もうと言ってくれた。この優しさも、また辛かった。結果を出せなくてごめんなさい、そう謝ることしか出来なかった。
そして、今がある。
母とゆきちゃん(犬)と仲良く暮らしている。クラス替えもあって、学校も楽しい。友達も出来た。
だけど、どうして私は死にたいと思うのだろう。
自分に価値が無いと思って仕方がないのは、何故だろう。環境は年々良くなっているのに、私は小学二年生からなんの成長も出来ずに止まっている。
「消えたい」「死にたい」
何回言うねん。もうええわ。ほんならさっさと死ねや自分。毎日毎日、囁かれる。「早く死んでしまえ、そうすれば楽になれる」と。