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母親のお金を盗んで散財した小学生はわたしです

わたしの母はすでに他界していますが、今でも申し訳なく思っていることがあります。それは小学生の頃、母親の財布から何度もお金を盗んだことです。

母親の財布はいつもタンスの上に置かれていました。
わたしがお金を盗むのは母が留守のときですから、財布が家の中にあるというのもおかしな話ですが、おそらくこの財布は大きなお金(紙幣)専用のものだったのでしょう。

小学校4年生のわたしは、タンスの上に手が届く身長になっていました。映像的に云えば、わたしの視線がズームインされた財布に釘付けになっている構図です。心の中では「やってはいけない」と知りながら、わたしは500円札(岩倉具視)や1000円札(伊藤博文)をかすめ取っていました。

背中から誰かに見られている感覚。
手に紙幣が触れ、それが絡んでくる感覚。
そして何より、悪いことをしている罪悪感がわたしを後押ししました。

また、子ども心に1000円以上抜き取ると見つかると思ったのでしょう。いつもお札を一枚だけ(500円札か1000円札)盗んでいました。


わたしは盗んだお金を持って、友だちと「ゲームセンター」に繰り出します。当時インベーダーゲームが流行しており、「おい、ゲームしようや。ぼくがお金持ってるから」と宣言していたのを思い出します。

子どもの世界ではヒエラルキー(階層)が存在します。強からず・弱からずという微妙なポジションだったわたしは、大金の威光を借りて、その場をコントロールしようとしました。

お金の存在が、自分を大きく見せるように思えたのです(ほんとうは儚い優越感だったのですが・・)。盗んだお金を持って、友だちと電車に乗り、須磨の山上遊園地にも行きました。乗り物に乗ってソフトクリームを食べれば、お金はあっという間に無くなります(何しろわたしがみなに奢っているわけですから)。

盗んで(それを)散財する爽快感は、盗むこと自体の罪悪感をどんどん消していきました。結局わたしは4回も5回も、母の財布からお金を盗むことになります。

抜き取りが発覚した際、わたしは母親から布団叩きの棒で何度も叩かれました。が、そのうち母は叩くのに疲れて、どこか虚ろな表情を見せました。

お金がある→お金が盗める。わたしにとってお金は豊かさの象徴でしたが、母にとってお金は「生きるの象徴」であったはずです。

そんな大事なお金を息子がかすめ取っていたことに、大きなショックを受けていたのだと思います。

当時のわたしは、母親の財布からお金を盗むことで、母の気を引きたかったのかもしれません。我儘な子どもの論理です。結局、よちよち歩きから老いる瞬間まで愚子のままで、親にはいつまで経っても頭が上がりません。
 

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カン・チュンド
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