死亡保険金はあなたの敵か味方か
おそらく運用相談のお客様の中で最年少だったと思います。仮にAさんとしましょう。AさんはTシャツに緑のパーカー、ジーンズといういでたちで来られました。テーブルの上にアメリカの野球チームの帽子を置いて、資産運用について教えて欲しいと言われました。
"どこで、何を、どんなふうに買っていけばよいか。守らないといけないことは何なのか、そういう具体的な方法論を訊きたいです。"Aさんから事前にお預かりした情報を見ると、ご資産が2億4000万円ほどありました。
このご資産についてなのですが・・と私が訊こうとする前に、Aさんが「ちょっと暖房を緩めてもらえないですか」と言われました。そして、その言葉に次いで「そのお金は両親の交通事故の保険金です」と言われました。
暖房を緩めてもらえないですか。と、交通事故の保険金です。のトーンが全く同じだったため、私のほうが驚いてしまい、少し頭を下げて「あぁ・・」と言葉に詰まってしまいました。
保険金の2億4000万円は預金通帳に240,000,000と印字されています。この数字は、ご両親が亡くなられた代償です。この9桁の数字を適切に管理していけば、Aさんは経済的には充分満足に暮らすことが出来ると判断しました(ちなみにAさんはその時大学生でした)。
ただ、物理的に暮らすことは出来ても(お金に)失ったものの「代わり」が出来るわけではありません。2億4000万円は、計り知れない逸失の言い訳のようにそこに鎮座していたのです。
私は職業柄(ファイナンシャルプランナー)、死亡保険金が関わる相談案件をいくつも受けてきました。文字通り、人の死を介して大きなお金が動く事です。その種のお金は、壮大な無意味さと有意味さを併せ持っています。
「有意味さ」とはいったい何でしょう。雨が降ったときの傘のように、死亡保険金が作用することがあります。例えば幼い子どもと配偶者を残して亡くなった人が、残された家族が経済的な打撃を被らないよう、死を金銭に代替し償う機能が「生命保険」という商品です。
起こる可能性は低いが、万一起こった場合、経済的損失が著しく大きくなる事案については、貯蓄も投資も無力です。保険の出番となります。
「このお金のお陰で大学に行けました」「親子三人が不自由なく暮らせています」という保険による効用は、世の中のいたるところで存在します。その金額が8桁であれ9桁であれ、手を合わせて感謝したくなるものです。お金という無機質な媒体が、人に益をもたらす稀有な例のひとつでしょう。
では死亡保険金の「無意味さ」とはいったい何でしょう。病気や事故などによって亡くなった親族は永遠に還ってきません。そこに生じた空洞を、お金で埋めることは出来ないわけです。
本質の救済にはつながらず、横手から申し訳程度に「花」を添えるのがお金です。その「花」は暮らしの中で実用性は発揮するものの、空洞に対しては為す術がありません。
モノやコトを消費する観点からお金を見ると、「大金さえあればほとんどの問題が解決する」と私たちは安易に考えます。しかしそれは物事を正しく言い当てていません。お金で解決できることはたくさんありますが、お金では解決できないこともたくさんあるのです。
冒頭のAさんは最初の面談から10年近く経って、再び相談にお見えになりました。海外赴任に伴い証券口座で保有する投資信託をどうするべきかという相談内容でした。
両親を亡くされた悲哀と、大金と付き合いそれを扱っていく労苦は、ひとりの人間の中で別種の「器」として共存し続けます。それはAさんの中で一生続くわけです。
9桁の無機質なデジタル数字が、AさんとAさんのご家族にとって、質感を持った実のある「お金」に昇華していくことを今でも願っています。