お金の価値 = お金そのもの × お金の保持者
私はすでに老齢に近い年ですが、高校二年の時に家出をした経験があります。実家は神戸なのですが、国鉄と近鉄電車を乗り継いで、なぜか名古屋にまで出ました。
知り合いは皆無で、何がしたいという目的もありませんでした。ただ「ここではないどこかへ」という気持ちに憑かれていたのです。その時の所持金は3万3千円ほどでした。
私は名古屋の中心部、栄の地下街を歩きながら、とある喫茶店の前でアルバイト募集の貼り紙を見つけます。家出の状態を続けるために、私は取りあえず働こうと思ったのです。
その時、「おトイレを貸してもらえませんか」と同じくらいの調子で、「アルバイト募集の貼り紙を見たのですが・・」と声に出していました。3万3千円を所持していたため、ここがダメなら別のところで探せばいいや、くらいに思っていたのです。
17歳の青年にとって3万3千円はいかほどのお金だったのでしょう。当時(1985年)を振り返ると、「これだけのお金があれば当面大丈夫だ」という安心感があったのを思い出します。
時代はずっと下ります。
私は40代になっていました。縁があって資産運用の相談業を営んでいます。東京に出て来て3年目の冬に、会社を経営するお客様がお見えになりました。
証券会社の取引報告書を拝見すると、資産額が14億円ほどあります。お客様は「これまで2回の倒産危機があった」。「30年以上前に大手企業との取引が始まって風向きが変わった」と仰っていました。
そして最後に、私にこう洩らされました。「個人で14億のカネを持っていても、中途半端なだけなんだ」と。
今、ふたつのエピソードを述べました。
そこには2種類のお金(3万3千円と14億円)が登場しました。数字だけを見れば、両者の違いは歴然です。多くの人は圧倒的な量を誇るお金(14億円)のほうに魅力を感じるのではないでしょうか。
実際、大金(14億円)は人に対して威光を放ち、さまざまなイマジネーションを刺激します。いっぽうの3万3千円は、暮らしの中で用いる平凡なお金です。
ところが14億円を保持する男性は、そのお金を持て余していました。男性がお金に対して冷めていた理由は何なのか。部外者には知る由もありません。
「数字」としてのお金と、お金の保持者が感じる「価値」は、残念ながら比例しません(実際に14億円を持っても、そのお金があるからといって心の空白が解消するわけではないのです)。
お金は大事なものです。ただ、お金は自身で動き、意思を表すことが出来ません。お金に意味を与え、それを動かすのは、お金の保持者(人間)でしかありません。
お金の価値 = お金そのもの × お金の保持者
お金そのものは定数ですが、お金を持つ人は「変数」となります。1億円が500万円の値打ちになったり、逆に500万円のお金が1億円の価値を現出したりということは、社会の中でときどき、いや、しばしば起こったりします。
お金とは実に不思議なものです。
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