「働けないこと」は人間じゃないのか?
ものすごく過激なワードで批判もあるかもしれないがご了承頂きたい。
というのも私は現在就労移行支援事業所で働いている。
「働けなくて」大変な状況にある人たちに向けて就労支援をしている立場の人間としてこの過激な「見出し」を論駁でなければならないと日々切実に思うのだ。
「働くことだけがが人生ではない」
「働かなくてもまず、君は君のままでいいんだよ」
なんて言葉を用いて勇気づけたとしてもそれは心の底からそう思えているのか?私自身が働けなくなった立場に陥った時に上記の言葉を投げかけられれば、肯定的でなくむしろ暴力的に感じてしまうかもしれない。
私の場合はもしかしたら「そうは言っても・・・」という言葉が心に去来するかもしれない。というかおそらくするだろう(偏屈な性格なんで・・・)
安易な言葉は時として人を傷つける。
大事な事は、相手の背景や価値観,生育/社会環境の個々の物語に関心を向け「分かろうとする」態度だ。(「想像力」と言ってもよいだろう)
働くことができなくなり自分を責めている世界とはどの様な世界観なのか、「心」が向かう方向性の原動力は何なのか、私は知らなければならないと思った。
本記事は「働けないこと」が何故辛いのかについて概観したいと思う。
「働くこと」と「愛する事」
「愛」という言葉は昔は嫌悪感を抱いていたが最近よく多用するのは私の中の「アイデンティティ」が変容したからであろうか?
「くさい言葉」も悪くはないと思う昨今である。
さて「働くこと」と「愛すること」とは無意識を発見した
偉大な心理学者フロイトの言葉である。
「良き大人になるために必要な事は何ですか?」という問いに対する答えとして「働くこと」と「愛する事」だとフロイトは答えている。
独立行政法人労働政策研究・研修機構には以下のような記載があった。
意味が分からないと思うので私なりに解説させて頂くと、そもそもフロイトの精神分析理論の「人間観」とは、人間は他の動物と同じで本来「欲」の塊であるという考えがある。(性悪説,性弱説に近い・・?)
特に「自己保存本能の本体」として「性(性欲)」こそが強烈な本能
(以下,心のエネルギー)の一つであるとフロイトは考えていたが、もちろん心のエネルギーが向かう方向は必ずしも「異性間」に限定されない。
音楽や創作活動や遊び芸術やスポーツ等々の「心のエネルギー」が向かう方方向性は多様である。
「愛すること」・・・それはすなわち「心のエネルギー」が向かう対象があるか否か?もっと端的に言うと「喜びの対象」があるか否かである。
そういう意味では「愛することとは技術である」というのも納得である。
何故なら、外界の信頼がなければ「愛する事」がとてつもなく難しくなるからである。「信頼」や「愛」は能力なのだ。
では、ここで考えて頂きたいのは、「喜びの対象がある自分らしい人生を送りたい」という、生き方は可能なのか?という「問い」である。
「自分らしい人生(意訳:愛する人生)」や「本能のままの人生」も
魅力的だが当然、好き勝手できないのが私たちの生きる現実である。
(私がありのままに生きれば多くの人に迷惑をかける事は言うまでもない)
すなわち「現実と向き合う営み」が必要なのである。
つまり、社会に適応しながら上手に心のエネルギーを発散できる人間が健全であるとフロイトの精神分析では考えるのである。
さて、今を生きる私たちの世界は「働くこと」と「愛すること」の均衡が崩れつつあるのだ。もうお分かりであろう。
「働くこと」への比重があまりにも大きくなり、その様な社会様相から
見える様々な病理を私たちは目撃しているのである。
※「様子」は主観であり「様相」は客観である。
また、動静の意味合いが強いのは「状況」より「様相」のため、
「様相」という言葉を用いている。
しかし、以下の意見もあるであろう。
「私は働くことが喜びなんです」
それはそれで、素晴らしい事であるし私自身も「働くこと」が喜びになっている側面がある。(元々やりたかった心理支援という理由もある)
しかし、人生はそれだけではない。働くこと以外の損得勘定を抜きにした「生きる喜びの対象」を見出す必要があると思われる。理由や理屈はなく「楽しいから」と言える対象である。でないと「働くこと」が出来なければ強烈な自己嫌悪や無力感を感じてしまうからだ。
そうだ・・つまり「愛することができる対象の選択肢」はたくさんあった方が良い。そして「愛することは内外界への信頼する力」がないと難しいのだ。
東畑開人先生は、書籍「何でも見つかる夜なのにこころだけはみつからない」にて以下の様なニュアンスを述べている。
ここまで記事をお読みの方は自分事として一旦考えて欲しい。
私たちは何かをしていないと、なぜかものすごく不安にならないだろうか?
※入社一年目は何もできなくて当然だと頭では分かっているが
「いる」だけの時期が続くと罪悪感を抱く等々
何かを「する」事で周囲から承認(愛される)を得るための手段として
「働くこと」に比重が置かれすぎていないであろうか?
※もちろん「愛すること」と「働くこと」は相互作用する事がある。
しかし、発達から鑑みるにやはり土台は「愛すること」が重要なのだ。
國分康孝先生は、引きこもりと非行の両者本質は「外界に対する拒否」だと述べられている。信頼の欠如はただ「いること」に罪悪感を抱いてしまうのだ。
働かずにただ「いる」事は何か孤独感であったり疎まれる様な声を妄想してしまう。
ここで一番最初の問題提起に戻る。
「何故私たちは働けないことが辛いのであろうか?」
それは、「いること」が辛いからである。
何故「いること」が出来ない、、辛いのだろうか?
それは、「愛すること」ができないからである。
なぜ「愛すること」ができないのか?
それは、内外界(自分や他者や世界そのもの)を
「信頼」できないからである。
信頼ができるからこそ私たちは「いること」が可能になる。
なお、外界を信頼できない要因は個々の物語に起因するのである。
※信頼とは,私は世界から受け入れられているという感覚が土台である。
ここからがカウンセラーの腕の見せ所であろう。
ここで「働くこと」と「愛すること」が不調和を如実に表したエピソードを紹介したい。
※守秘義務のため一部物語を脚色させて頂く事はご了承頂きたい。
上記の物語は結果的に期間満了で支援が行えたわけだが
私は彼に何度も述べた言葉があった。
それは、「どんな自分であれ最終的には無条件で自分の存在や選択そのものを許容できる様になる、しなやかさをもって欲しい」であった。
必要とされなくても「アイアムオッケー」と自分自身に
言えるようになって欲しいと・・・
彼はその後どの様な物語を歩んでいるのかは分からない。
私の蒔いた種は彼の心に花開いたのであろうか?
彼は「健やかな人生観」をもって、当時の家族のためではなく
「自分のため」に今でも「働くこと」が出来ているであろうか?
「愛すること」ができているであろうか?
結論を述べる
「働けないことは人間じゃないのか」
まず、「働けなくても人間」です。
そもそも「=」として成り立たないにも関わらず何故か胸が締め付けられる嫌な言葉である。
何故私たちがその様な極端な考えに至るのかと言うと
「市場と存在価値」を混同してしまう事が原因ではないだろうか?
効率性や合理性によって生産性が生まれ資本が得られる。
その事と、「人間存在の価値」を安易に結び付けるから極論に走ってしまうのだ。
また、生産性を生み出す事や社会のため,人のために生きる事が良き事という「正論」と言う名の「暴力」が私たちの「物語」を粉砕してしまう。個々の何らかの物語や背景があまりにもおざなりになってしまったのではないか。
そして、「正論」は私たちに「愛すること」を奪ってしまった。
タレントのryuucheruさんの自殺問題然り,働くことが出来ない事に対する
罪悪感や無力感が跋扈する背景は、正論によって個人があまりにも脆弱になった事に起因するのではないだろうか?
(グローバル資本主義という荒波に飲まれた私たちは自己責任論というリスクに担い手として生きる事を余儀なくされた。そこには、「信頼」もあったものではない。経済的に生きるか死ぬかのサバイバルの世界観である)
そして内なる自分が以下の様に問いかけるのである・・
「それって意味があるの?将来のためになるの?」
「それだけでは何も生み出してはないではないか?」
「その人間関係はビジネスにつながるの?」
「それだけで本当に生きていけるの?」
「未来は大丈夫なの?」
ここで、上記の様な「確実性」や「未来志向」や「効率化」によってもたらされる社会の問題を辻信一氏は以下の様に述べている。
人間性と生態系の破壊の真っただ中にいる私たち・・・
ここでまとめると、「成果」や「生産性」や「働くこと」や極端な優勢思想に陥る原因はイデオロギーも然り私たちの「内なる声」が私たちの「いる」をできなくしてしまうのであった。
働く事ができずにに辛い人は是非胸に手を当てて自分とどの様な自己対話をしているのかを見守ってあげて欲しい。
「自己存在」そのものを正論と言う名の刃物で傷つけていないだろうか?
分かるだけでも大分心が楽になるであろう・・。
「働けないこと」はそうは言っても辛い・・
自分自身のアイデンティティが揺らぎ孤独感に陥るため普通はしんどいであろう。
しかし、その上で、「満を持して放たず」という気概をもって、働けない辛さを許容しながら今できる事を、少しずつ心を込めて取り組んで欲しい。
少しずつ、、スモールステップで、ここがポイントである。
そして、働けない辛さを共有できる、ビジネスではなく損得抜きで自分の事を話せる友人やカウンセラーや近しい人を頼ってほしい。
ここはすごく大事。
何故なら一人で立ち向かう事は今の世界はあまりにも辛すぎるから・・・
最後にガンジーの言葉を紹介して締めくくりたい。
ここまでお読み頂きありがとうございました!!!