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禅とホ・オポノポノ

私は、何かに悩むと図書館にいく癖がある。一時期は、2週間に6冊ほど借りる生活を2年間継続していた。

全部読破しているわけではなく、バーって走り読みして、興味がある本は全部読み、本当に気に入ったものは本屋で購入する。だいたいいつも4,5種類の分野を1,2冊ずつかりている。

インプットが偏らないように、という安易な考えからきているのも承知しながらで、分野は、科学、金融、歴史、宗教、経営、IT、哲学、文学などなど。

そんな図書館通いが1年間ほど続いたおり、宗教学にとてもはまってしまった。ちょうど「ダビンチ・コード」の小説が流行った時期だったと思う。「ダビンチ・コード」から始まって「レンヌルシャトーの謎」、「グノーシス主義」、「マニ教」、「サバタイ派」、「カタリ派と大異端」などなど、キリスト教、ユダヤ教からイスラム教、仏教、禅宗などの成り立ちと歴史を読み漁っていた。

そんな時、怪しげな密教のコーナーにあったロシアの量子学者が書いた本で「トランサーフィン」というものがあり、卒論で量子を勉強した私に多いに刺さりハマってしまった。結局、トランサーフィンは全部購入し、読んで実践して、というところまでいった。

しかしトランサーフィンは、そこまでだった。そして、その隣にちょこんとあった「ハワイの秘宝」を読み、さらにガツンときた。今考えると、それが一番、私の人生の行動指針に影響があった本だ。

ハワイの秘宝とは、ホ・オポノポノと呼ばれるハワイに伝わる実践的哲学ともいえるものだった。ここで詳細は書かないが、もしホ・オポノポノの考察を書くとしたら、たぶん2,3冊(10万字/冊×3)くらい執筆できると思う。そして今もその実践は続いている。

そんなホ・オポノポノとの出会いの前によく読んだのが、鈴木大拙著の禅の本だった。今日は、その中から気になっているキーワードを取り上げたい。「禅八講」というアメリカのコロンビア大学、ハワイ、カリフォルニアなどの講義で使用した原稿が元となっている著書だ。

曰く、「自貴、自尊、自成、自立があって、人は初めて落ち着きを得る」というようなものだ。禅宗のなかでは、自・・というのは、たくさんあるらしい。この自・・の意味を調べてみるととても興味深い。また、禅における「不可得」の解釈も含めてとても考察しがいがある。

調べてみるとわかるのだが、自貴、自尊、自成、自立は、全部自分発で、自分で何とかできる領分だ。それが、ホ・オポノポノの教えとほぼ一致していて、さらに興味を惹かれた。特に「自分自身を大切にする」という部分は、まさにである。

「何言ってるのか全然わからない」と、言われるかもしれない。ああ、多分思われているのでしょう。これは、私のニッチな考え方と、ニッチな興味と、ニッチな解釈を織り交ぜている感想ともいうべきものなので、ただの独り言かと。

カール・ユングの集合的無意識においても、中年の危機での集合的無意識との関わり方の指南においても、この禅とホ・オポノポノは、知行合一を持って取り掛かれる数少ないものだと私は思っている。そして、私はもうかれこれ10年間近くこれらを実践している。

その継続の理由の一つに次のような言葉があった。アメリカで長く講師生活をしていた鈴木大拙は、生徒から宗教とはなんですか、と問われた際、「宗教とは自分自身を自由にするものだ」と答えたという。この背景と意味、解釈を様々な文献から学び、私自身を動かすまでに、腑に落ちるまでに、数年間はかかったが、とてもいい学びだった。

「宗教は自分自身を自由にする」、今日、世界には様々な宗教がある。現代日本においては特に、宗教というキーワードにマイナスなイメージがついて回っている気がするため、あまりマイナスイメージがない神道、仏教、キリスト教以外のキーワードを口にすると、周囲は身構えるようになっていることが多い。

だが、しっかりと自貴、自尊、自成、自立を学び、心底から腑に落ちるプロセスに乗った場合、周囲が持つ±イメージから、段々と離れていくことが分かってくる。離れるというより、気にならなくなる、本質だけみえる、無駄が見えなくなる、という感じに近い。

そんな私の禅とホ・オポノポノとの付き合いだが、今後も続いていくことは必然だと思うし、それを楽しんでいる。

私の場合は、この2つだったが、おそらく人それぞれに「自由になる」ための理論と実践が、様々な形で用意されているのだと思う。人によっては、それがスポーツや学問、仕事だったりするのかもしれない。

宗教という、相当に手垢のついたキーワードではなく「自分を自由にする」もの、こと、という面から考えると、とっつきやすい。そして、そのきっかけは自分の身の回りの小さなものから始まっている可能性がとても高い。私の場合は図書館だっただけの話で。

数千年、ずっと言われ続けている「細部に神は宿る」、「細部に悪魔の実は宿る」byゲーテ、などは、自分の生活の細部を大切にすることで見えてくるものだと私は信じている。ここに善悪や是非はなく、ただ「在る」というだけのこと。解釈は人それぞれで、その解釈こそが、±を決める。そしてそれが手垢にもなってしまうことがある。

すこし禅問答的になってきたので、ここで終わりたいと思う。
また次回お会いしましょう。


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