「風土 人間学的考察」を読んで。
和辻哲郎著
ある日、同僚と車での移動時、お気に入りのサザンが流れていた。
「かまくらよ な~ぜ ゆめのよう~な にじを とぉ~ざける~ ♪」
その音楽につられて、神奈川県出身の私は「鎌倉」の話をしていた。ら・・盛岡出身の同僚が、突然「あ~この曲のかまくらは、雪で作る『かまくら』じゃなくて、地名の鎌倉なんだ?!」と、言い出した。
「えっ?そりゃ~この曲は昔ので、世代の違いもあるけど~『かまくら』って言えば鎌倉しかないでしょう?!」
「いや~うちの地域からすると『かまくら』って言えば、雪で作るかまくらのイメージしかないよ・・・」
「え~~~うっそ~~!!あり得ない・・・」
しかし、あり得る・・・ことなのだ。
ただ、環境によって使う言葉の「イメージ」が、違うだけのことだ。
その時からだった。
一人の人間が、どのような地域で生まれ育ったかによって、使用する単語一つのイメージが変わってくるということを・・・
そして、その言語を使用しながら一人の人格が、その地域から影響を受けて形成されるということを・・・ある意味、確信した瞬間でもあった!!
主体的人間の空間的構造に基づくことなしには、一切の社会的構造は不可能である。 (「風土」和辻哲郎著から )
ふんふん、そういうことよね。
社会的存在に基づくことなしには時間性が歴史性になることはない。歴史性は社会的存在の構造なのである。(略)人間存在は個人的・社会的なのであるが、歴史性のみが社会的存在の構造なのではない。風土性もまた社会的存在の構造であり、歴史性と離すことができないものである。(同上)
まぁ~ざっくりいうと、歴史性と地理性(ここでは風土性)が、人間を個人的・社会的存在たらしめるってことでしょう。
特に・・
風土とは単なる自然環境ではなくして人間の精神構造の中に刻み込まれた自己了解の仕方に他ならない。この観点から著者(1889~1960年)はモンスーン・砂漠・牧場の3種類を設定し、世界各地域の民族・文化・社会の特質を見事に浮き彫りにした。(「風土」解説 井上光貞から)
以前「森林の思考・砂漠の思考」という本を読んだけど、時代的にその本の元になった本のようで、モンスーンと牧場という細かい分析が面白かった。
この本は、地理学系かと思ったら、実は有名な哲学書だったそうで・・
日本版「カントと地理学」的なイメージかな?!
存在論的な究明は「風土の型が人間の自己了解の型」であるという所に到達した。(「風土」和辻哲郎著から )
ふんふん、解説でもあったけど・・・良い言葉~♡
人間は自然とのかかわりにおいて存在し、自然において己を見る。(同上)
①人間が存在しているのは、自然とのかかわりにおいてである。
すなわち自然とのかかわりを認識してこそ、人間が人間として存在できる。
②そんな自然を通して、自分を見ることができる。
自分と自然はつながっているから、自然を見て慰められたり、元気が出るのはごく当然のことだった。
風土とか、地理とか、自然とか、いろいろな表現はあるけれど・・
「母なる大地は、常に共にある」って、ことですね♪
おかあさ~~ん・・・・はっなまるっき♡
あっ、失礼いたしましたm(__)m (おまけ80年代CMはこちら)