天下一面鏡梅鉢②~災害と飢饉の時代を描く作品
江戸時代には、1707年に富士山が噴火し、1783年には浅間山が噴火し、噴煙が江戸の町を襲っている。震度6強の安政の大地震は1855年だが、1782年、1783年にも大きな地震があり、江戸の町にも被害が出ている。富士山さえ姿を変えたといわれる。天変地異が起きれば農作物も不作となり、1782年~1787年にかけては天明の大飢饉と呼ばれる全国的な飢饉が起きた。
大変な時代だからこそ、人々は笑いを求めて黄表紙を楽しんだのだろう。
寛政の改革を茶化した本作は、ベストセラーとなり、そのため幕府に目をつけられ絶版にされた。
「天下一面鏡梅鉢」(寛政元年1789刊)唐来参和(1744~1810)作、栄松齋長喜(1725~1795)画、三巻三冊の現代語訳、中巻の紹介。
中巻
六
昔の中国で、泰平の世のあかしに、牛を放し、馬を放したというが、その例にならい、四谷と品川に牛馬を放したまう。それで、当時は新宿には馬が多く、高輪には牛が多いというこじつけさ。
侍「牛は牛どうし、馬は馬どうしで放せ放せ」
侍「この趣向は、あんまりさえませぬ」
男「ドウドウ、ドウ」
七
人の心も自然と素直になり、狭い道でも互いにゆずりあって、お辞儀をしあうので、互いに動けず、全然進めないということになる。
車引き「殿様のお通りだ。車を屋根へ上げよう」
車を押す小僧「ウウウ――」
侍「これこれ、車引き、こっちが片すみに寄って通るから、よけなくてよいよい」
女「まあ、おまえ様から通りなせえ。魚が腐ってしまうよ」
魚屋「いえいえ、おまえ様から通りなせえ」
八
泰平の世にあっても、危険な状態を忘れてはならぬと、道真公はもっぱら武芸を好まれたので、相撲の様式をまねて、晴天十日の興業を行う。東西に分かれ、木刀二本で、相撲の行司の森田勘太夫が取り仕切る。
見物「次の試合は、宮崎島太郎と小野川右門の試合だ」
「エイトウ」
「エイアア、ハイ」
九
吉原の遊郭の客も武芸をもっぱらとすれば、武士は大小の刀を預けると、すぐに玉だすきで身構える。女郎もかんざしを抜いて、手裏剣の稽古をする。
また、学問が流行りければ、女郎も中国の文書の本をかかえ、「子、曰わく」と言う。
侍「鉄の扇をもって、屏風の前でひと合戦まいろうか」
新造「おいらん、長刀の師匠がおいでなんした」
右のおいらん「まあ、せわしない。待たせておきやな」
左のおいらん「客に漢詩を作って贈ろう。ちょっと上等の紙を買ってきや」
十
芝居も、心中物や世話物は流行らず、舞台は学問の都、中国で、中村仲蔵と松本幸四郎の両人がともに孔子の役にて、両花道より舞台に出、儒学の問答議論あり、すると聖人が現れると出現するという鳳凰が舞い降りるを怪しみ、幸四郎は、仲蔵が実は政治家陽虎だとわかり、孔子を迫害した司馬桓魋、役者は坂田半五郎を取って投げ、大悪人少正卯、役者は松本大五郎を取り押さえる、といういそがしい芝居なり。
十一
町を警護する自身番も、毎日勤めることもなく、風の強い日ばかり「火の用心」とまわる。時々、誰もちょろまかさないので、金銀の落とし物もあり。
現実とは逆を表現しつつ、次回、最終回につづく、
この作品と同じ年に発行された、山東京伝の黄表紙、「孔子縞于時藍染」(寛政元年1789刊)は、同じようにカタログ的に世の中の様子を描くが、こちらは幕府からのおとがめはなかった。庶民の生活だけを描き、皮肉がさとられないようにした京伝の手腕だろう。
新年早々、黄表紙の現代語訳を連続投稿している。(去年から、黄表紙を多く投稿しているけど……)
江戸好きの私としては、当時流行した黄表紙を、もっともっと知って欲しく、自分が元気なうちに、できるだけ紹介したいと思っている。
少しでも黄表紙に興味を持つ人が増えてくれたらうれしい。まあ、黄表紙の絵を模写するのは、浮世絵師や版画の彫り師になったようで、描くことが楽しく、自分の趣味にもなっているけどね。
①でも紹介した「江戸生艶気樺焼」の後半部分に、今まで紹介した黄表紙を全部載せているので、おもしろそうな作品だけでも読んで欲しい。
また、知られざる江戸の文学としては川柳もある。今、川柳をつくる人がnoteにもたくさんいるが、川柳の原典は江戸時代にあり、江戸時代の川柳を古川柳という。
今読んでもわかりやすい川柳を集めて紹介している。「古川柳つれづれ」の文章の後半部分に、今まで紹介した川柳記事を全部載せている。川柳本文も載せているので、おもしろそうな川柳があれば、見て楽しみ、さらにその解説文も読んでほしい。
新しい文学もおもしろいけれど、温故知新で古いものからも学ぶことがたくさんある。