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悪七変目景清②~山東京伝の黄表紙
平家の武将、藤原景清が、源頼朝の命をねらうという、当時の人々がよく知っている物語を、なんと景清の「目玉」が、頼朝をねらうという奇想天外な話とした、山東京伝作画の黄表紙「悪七変目景清」(天明6・1786刊)下巻の現代語訳。
景清の目玉を捜索するあれこれを描いて下巻へ続く。
下巻
七
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今月は、重忠(畠山)が当番なので、景清の目も、重忠となれば、ちと目の上のこぶなので、ひとまずは目をやつして、いやいや、身をやつして、計画を練らんと、目医者はさまざまある中で、赤坂の「入目お望みしだい」という看板を目当てに訪ね来たりて、そこにかくまわれていることを、重忠、聞き出し、大勢の捕り手をつかわしければ、目玉は、このことを悟り、目から鼻へ抜け出て逃げ失せる。これ、目の敵のはじまりなり。
捕り手「とった、とった」
八
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捕り手の者ども、目がわり(身代わり)とも知らず、入目所の棚にならべてある義眼の目を持ち帰り、
「この中に、さだめて景清が目があらん」
と思えども、誰も目利きができる者もなく、重忠つくづく案じければ、
「なんぼ英雄の目でも、名人の琴を聞けば感動して目に涙が浮かぶもの。義眼なら涙は出ないが、生ものなら景清の目とわかるべし」
と、理屈らしき不理屈を考え出し、琴の上手をさがせば、京町一丁目四ツ目屋の傾城、七里を召して琴を弾かせたまう。
重忠、瞬きもせずににらみつける。これが大目付、小目付のはじまりなり。
♪水晶ビードロの目玉並べし床のうち、泣く子も目をば明け暮れも、無理なこじつけ書くからに
新造「この草双紙を、扇屋の片歌さんや菊園さんに見せとうござんす」(草双紙は、黄表紙も含む絵本のこと)
この菊園は、後に作者京伝の妻となるが、それはまだまだ先のこと。
九
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傾城七里、技術をつくして弾きけれども、いかなること、もともと作り物の目玉ゆえ、いけしゃあしゃあ、まじまじとして、ひとつも景清らしきことはなきゆえ、重忠、ふたたび工夫して、
「お芝居でも、大仏供養に景清がまぎれこんだゆえ、今回も大仏供養をやるぞ」
と、重忠、だんだん詮議がヘタになるおりふし、達磨大師が日本にやって来て、大仏をたずね来たりしが、目が大きいのを重忠に見とがめられ、いろいろ言い訳しても聞いてもらえず、しょうがないので、消毒液にて何度も目を洗ってみせれば、ようよう疑いはれにける。これより、物のさっぱりしたことを「ダルマの目を洗ったようだ」と申しける。
重忠「景清の目と名乗れ」
達磨「こんなところに長居をしたら大変だ。景清とはとんだ宗旨違いさ
♪どうでも重さん野暮じゃもの。わしを達磨と知らざるや」
十
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景清の両目は、
「いかにして頼朝公に近づかん」
と思うおりしも、相模川の橋供養に頼朝公が馬に乗って参加すると聞き、生き馬の目を抜き、そこへ入り込み、
「途中で落馬させ、ただひと思いに蹴殺し、目を驚かさん」
と、興奮して荒れに荒れけるところへ、重忠、懐から日向勾当へ貸した五百両の証文を、荒れた馬の前に差し出して曰く、
「そのほう、かくまで頼朝公を怨みたてまつれども、景清を勾当になし、給料まで出して、宮崎で楽隠居をさせたまう。その思いもわからねば、そのときの五百両、つもりつもって都合千両、この金を今すぐ返すか、頼朝公の首をとるか、さあさあ、どうだどうだ」
馬「さては景清を勾当(盲人の位)になしたまいしは頼朝のお心か。そうとは知らず怨みしは、この両目の目がね違い。今すぐ千両を出せとは、ああ、目が回る」
と、この馬、ものを言うかと思えば、たちまち両目が飛び出す。
重忠「おれの目が黒いうちは、なんとしてもさせてたまるか」
十一
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頼朝公、景清の目の忠義に感動し、
「かかる英雄の目は、武門の宝なり」
とて、長く重忠にあずけたまい、目でたき世とぞなりにける。日向勾当は山中に住んでいて、正月の来たのも知らずにいても、目ばかりは鎌倉の都で春を迎え、目の保養をさせける。
頼朝公、目の騒動おさまれば、目という字を七つ書いて、目にご利益があるという、日本橋の薬師堂へ奉納したまう。
重忠「そのほうの礼服の紋を見たら、竹屋の遊女、歌菊を思い出す」
十二
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重忠、目かずらという目の仮面を工夫し、これを吉原のたいこもち目吉に伝えける。今、座敷芸で行われる「七変目」というのはこれなり。
目吉「この次は、色目をつかう目と、小さなノミを取るときの目でござります」
まさのぶ画、山ひがし京伝作
「目の仮面」をかぶる芸は、当時流行っていたものだろう。また、上巻一場面の景清は、やけに鼻が大きい。当時、歌舞伎の景清役で有名なのは市川団十郎。東洲斎写楽の浮世絵で有名な五代市川団十郎だった。その絵でも鼻が大きく誇張して描かれている。彼は鼻が大きいのが特徴だったらしい。
鎌倉時代を舞台にしながら、現代、つまり浮世を描くのが黄表紙だった。
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