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青い緑にドキドキッとする言葉の不思議さ

 秋、紅葉がきれいに色づいている中で、針葉樹の緑も鮮やかだ。青い葉、赤い葉が入り乱れていた。
 青い葉といったが、青は緑のこと。緑の葉っぱを青いと言う。

目には青葉 山ほととぎす 初鰹

 江戸時代の俳人・山口素堂の有名な句だ。春から初夏にかけてのすばらしいものを詠んでいる。目で見る新緑の季節、耳で聞くホトトギスの「テッペンカケタカ」「トウキョウトッキョキョカキョク」という耳で聞く鳴き声、高い金を払ってでも食べたかった舌で味わう初鰹。五感をふるに使って表現している。人間の感覚の多様性を示すものでもある。

 新緑の青葉の季節だけでなく、青信号や青虫も、どっちも青ではなく緑色をしている。昔は、緑という色の区別はなく、あの辺りの色はみんな青と言っていた。だから、緑色の信号も青信号になり、緑色したイモムシも青虫となる。

 色の区別は、時代によっても違うし、地域によっても違う。
 地域についてよくいわれるのは、虹の色。虹は七色で、外側から、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の順になる。これが日本人の知っている虹の色だが、アメリカでは、赤・橙・黄・緑・青・紫の六色となり、ドイツでは、赤・橙・黄・緑・青の五色となる。さらに、台湾のブヌン族は、赤・黄・紫の三色、南アジアのバイガ族は赤・黒の二色に見えるそうだ。見えるというか、同じものを見ているけど、それを表現するときの言葉が七色になったり三色になったりする。

 同じ犬の鳴き声を聞いても、日本人はワンワンと表現するが、米英の人はバウワウbowwowと表現する。そう表現するから、逆にそう聞こえてくる。テッペンカケタカやトッキョキョカキョク、あるいはホーホケキョやツクツクボーシも、そういうものだと日本人は知っているから、そう聞こえてくる。その言葉を知らない人には、また違って聞こえる。

 日本も昔は、色は四色しかなかったと思われる。それは、色を表す形容詞は、白い、黒い、赤い、青いしかないからだ。白黒は明るさを表すが、赤も明るさを表し、その他の色は黄色も含め青と言っていたようだ。この四色で生活に困ることはなかった。黄色、茶色は、「い」をつけて黄色い、茶色いと形容詞になるけれども、これは後からできた言葉だ。
 生活が複雑になるに従い、いろいろな色の名前ができてくる。

 青には、若いという意味もある。青い春と書いて青春になる。
 青二才や尻の青いガキだ。という言い方もある。これは、我々モンゴロイドの日本人には赤ちゃんの時、お尻に蒙古斑(もうこはん)といわれる青いあざがあるからだ。なんのために青あざがあるのかはわからないが、とにかく成長とともに青あざはなくなっていき、そんなものがあったことも忘れて我々は大人ぶって生きている。

 色は言葉によって伝えられてきた。言葉が違うと見え方も違ってくる。


 青い葉の葉、「は」といえば、
昔の母は父だった。
という話は知っているだろうか。
 室町時代のなぞなぞに、「母には二度会うけど、父には一度も会わないものな〜に?」というのがあり、答えは「唇」なのだ。

母には二度逢ひたれど、父には一度も逢はず。何ぞ。唇と解く。(『後奈良院御撰何曽』)

 なぜ唇なのか。

 母の「は」という言葉がある。「はは」を唇を二回つけながら読むと「ファファ」となる。実際にやってみるとすぐわかる。
 やってみよう。頭で考える前に実行してみることが大切だ。ほら、「ファファ」となる。
 昔は「は」の音は「ファ」と発音していた。さらにもっと昔には、「ファ」ではなく「パ」と発音していたこともわかっている。だから、「はは」は昔は「ファファ」と言い、さらに昔には「パパ」と言っていた。
 昔の母は父(パパ)だったのだ。

 言葉は不思議なものである。その言葉を使って我々人類は進化してきた。言葉を大切にしたい。
 言葉を大切にしない人間たちには、どんな未来が待っているのだろう。

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