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【私のプロフィール】神田裕子ってどんな人?
プロフィールに興味を持ってくださってありがとうございます♪
短大の学生相談室で話を聴いていた20代の頃をカウントすると、心理カウンセラーの活動は35年を超えました。人生も半世紀を過ぎ、心理学やカウンセリング、講師という職業との付き合いも長くなりました。なぜ心理カウンセラーになったのですか?とよく尋ねられます。
今日はそれを振り返ろうと思います。
幼少期は推理小説が好きな子どもでした。今もそれは変わらず、人間のこころも同じようだと感じます。いまだに深い謎です。それを探求して紐解いていくことが好きなのだと思います。
以前、うちのスタッフで地質学を学んできた人がいました。その方も同じことをおっしゃいました。
「地層や化石の調査とカウンセリングは、私にとって同じ感覚なのです。どの年代に、どんな生活があったのだろう?と推測することが楽しい」と。
「神田さんは、人間が好きなのですね」と言われる所以は、そういうことかもしれません。
1 心理カウンセラーになったきっかけ
私が所属していた心理学の研究所では、産業・組織心理学がメインでしたので、カウンセリングには距離がありました。そして研究所からの紹介で、専門学校や短大において教鞭を取るようになりました。教えたのは心理学のほか「コミュニケーション論」や「人間学」「社会福祉」「キャリアカウンセリング」「精神保健」などでした。
教えるために必死で学び、知識が広がることで、カウンセリングにも興味を持ち始めました。その頃に(当時の)労働省認定産業カウンセラーの資格を取得しました。精神対話士や心理相談員の資格も取りました。医学博士であった恩師の協力もあり、30代で起業、開業カウンセラーとなりました。
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2 起業してからの悲喜こもごも
当時(1996年)は、カウンセラーといっても北海道ではわずかに2,3人の臨床心理士が開業しているくらいで、占い師と何が違うの?という時代でした。名刺を差し出すと
「今、私の考えることがわかりますか?」
と言われました(笑)
「冝保愛子(その頃有名だった霊能者‥とんねるずの石橋さんがよく真似をしていました)ではないのだから、わかりません」
とジョークで返していたのを覚えています。
珍しかったから、メディアが取り上げてくださって一躍有名になりました。そこから女性のクライエントが来るようになりました。
あれっ?男性は来ないの?と不思議に思いました。男性はプライドが高いから(?)同僚などに悩みを言いません。
じゃあ、どこですっきりしていたかというと‥スナックのママがその役割をしていたのです。さらに風俗でもそんなことがあるという噂を聞きつけました。
「えっ?そういう場所には守秘義務がないのに?」と驚きました。でも・・エッチなことをするはずの風俗で、エッチなことをせずに帰るお客様がいるのですって。それもかなりの数!それで実際にはどうなのだろう?と取材に向かいました。ファッションヘルスという風俗4件に取材協力を依頼し、うかがってきました。
なんと取材した8名のうち、4名(35歳、28歳、24歳、20歳)はそういう人がいると答えてくれました。指名すらあるのですって。風俗嬢さんの腕の中で「妻がね~」「会社の上司がさあ~」と愚痴をつぶやいて帰る「だけ」の人がいるのだとわかった時、愕然としました。
それだけ、男性はストレスを抱えていても、悩みを吐き出す場所がないのだ
・・ガ~ン!
ショックを受けました。
それからです。うちのような相談室へ来ないのなら、こちらから行っちゃえ!と考えて、産業カウンセラーとしての活動を始めたのです。企業の保健室のようなところへ、月に数回おじゃまをして、待つ仕事です。
最初は、ひとりぽつーんと何もせずに終わっていましたが、告知をするにつれ、ひとり・・ふたり・・と話をしに来てくれました。
健康診断として心理検査を実施し、ストレスフルな人を見つけては、”保健室”へ呼び出し、半ば強制的に話を聞くようになりました。
出るわ出るわ・・会社のこと、家庭のこと、子どものこと、しまいには経営者から愛人(!?)との別れ話まで(笑)!
今思うと、これってすごいことだと思います。いくら守秘義務があるとはいえ、私にすべてをお話しくださるのです。私もそんな信頼に応えようと勉強を続けました。
そのうち忙しくなりましたので、業務を分担してくださる方を育てることにしました。養成スクールをあちらこちらに出して、たくさんのカウンセラーを育ててきました。
でも・・プロフェッショナルな意識で仕事にしていく腹のすわった人は少なくて、ほとんどが自己発見の場として学び、さらには現在の仕事やプライベートに活かす目的で資格を取る受講生が多かったように思います。育成の難しさを感じました。
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3 突っ走った30代を過ぎて
起業してからの30代は、カルチャースクールの講師や専門学校、短大での非常勤講師をしながら、少しずつ大人向けの講演会へシフトしていきました。同時に北海道庁のメンタルヘルスや経営者対象の講演会、企業研修に加えて、養成スクールを北海道4拠点と東京、熊本(母の実家がある)に開校しました。正社員も6名抱えて業務拡大をした時期でした。
北海道女性起業家ネットワークを立ち上げ、経済産業局や各地方自治体と組んで、女性が働く場の可能性を広げることに尽力しました。広報さっぽろの委員や北海道政策委員など多数の公務も経験しました。私自身、視野が広がった”吸収”の時代でもありました。
40歳を迎える頃、私はバーンアウトしました。企業として成長しているというのに、何もやりたいことが見つからないのです。それまでの目標をすべて達成してしまったから。だからといって・・経営者は、やる気のない態度をスタッフの前で出すわけにいきません。精神的にきつかった(-_-;)
だって、夢を実現することで生きてきたのに、その時の私には夢がないのですから。
でも、気づいたのです。もしかすると私をここまで駆り立ててきたのは、母を見返す気持ちからであったかもしれない、と。優秀な姉と常に比較されて育てられたせいか、私はいつも「私にしかできないこと」を探し求めてきました(このこと自体は悪いことではありませんが)。高校時代に演劇を始めて、大学を中退してまで東京の劇団に所属したのも「裕子は演技がうまいね」と珍しく褒めてくれた母への何かしらの意地だったのでしょう。
40歳の誕生日を迎えようとしていたある日、母が電話をしてきてこう言いました。
「すごいね、裕子はカウンセラーとしてこんなに頑張ったんだね」
何かの記事を見たのだと思います。テレビのコメンテーターとしても出演していたから、そちらかもしれません。
その言葉で、私はもう自分を赦そうと思いました。劣等感と闘ってきた私を、です。
母の後ろ姿や口癖から学習してしまった人生ではなく、私自身が心地よく生きるための道を選択し、したいことをしていこう!と決めたのでした。心理学ではこれを「再決断」と言います。親の書いた人生脚本を、自分らしい生き方に選び直すのです。そうして私は、そうとしか子どもに愛情を表現できなかった母のことを、人間として尊敬できるようになりました。
そして・・そんな時でした、奇跡的に娘を授かったのは。仕事の仕方は180度変わりました。スタッフも総入れ替えで、1からスタートしました。育児と仕事の両立という新たな課題を与えられましたが、楽しく、肩の力を抜きながらすべてに取り組みました。
それから、かねてから決めていた50歳定年制を実行し、スタッフに会社を譲渡。研究のために子連れで東京へ転居したのです♪(これは…単身赴任?と呼ぶのでしょうか(笑))
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4 新たなライフワークの発見へ
東京で仕事を続けながら、研究の道へ入りました。まず、グリーフケアを学び人間の人生や自分自身の死生観について考えました。
次に入った大学では、心理学科へ社会人編入をして、今まで心理カウンセラーの養成スクールで教えてきたことを確認しました。そして最新の心理学では、以前の内容がどう変化しているのかも学び直しました。その中で、スピリチュアリティや死生観とストレスコーピングの関係を専門としました。やはりそこでも「死」「精神性」から離れられません(笑)
その後、立教大学大学院に入ってからも継続し、『死刑確定囚に教誨を行う「教誨師」について』論文を書きました。小学生時代に戻ったかのように、犯罪について考えました。特に、私は犯罪加害者に興味があります。犯罪加害者の心にも悲しみを感じるからです。なぜそうした罪を犯すことになったのか、社会的背景をも考えながらこれからも研究し続けたいと思っています。発達障害を抱える人の犯罪もその一つです。しっかり調査・研究をしていきます!今は学ぶことがとても楽しいです。
私が心理カウンセラーとしてカウンセリングをしてきたこれまで、いつも感じていることがあります。
クライエントのさまざまな悩みの芽が、自分の中にもすべてあるということです。
たまたま身近な人が支えてくれたから
たまたまその本を手に取ったから
たまたま・・
そう!私は偶然のめぐり合わせによって精神を病んだり、犯罪に走らずに済んだだけのことです。同じように苦しみの中にいるクライエントにどのような悩みがあっても、心近くにいたいと願っています。第三者だからこそ、理解できること、助けとなることがあるのです。
それは、発達障害の家族・パートナーを抱える人たちがカサンドラ症候群に陥っている場合も同じです。カサンドラ・ラボを立ち上げたことで、カサンドラ症候群の原因や課題が少しだけ見えてきました。
現時点では・・・・・
①発達障害の知識が不足しているため戸惑っている
②自己の成育歴からくる家族関係をひきずっている
③支援者がそばにいないため孤独感を抱えている
この3点を中心とした原因によって、カサンドラさんたちが苦しんでいるように思います。この先、活動しながら深く調査をして、課題とともに解決方法を明らかにしていこうと考えています。
これからもカサンドラ症候群やこころの問題に取り組んでいきます。どうぞよろしくお願いいたします!
★個人カウンセリング、研修・講演も承ります^^
お気軽にご相談ください。↓ ↓ ↓ ↓ ↓
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さて、以上の内容を書いてから3年?かしら、しばらくが経ちました。
『パートナーが発達障害!?と思ったときに読む本』(すばる舎)が2023年4月に世に出ました。
そして1年後の2024年4月、戸籍上は籍を抜いていた夫と再入籍し、引き続き夫婦として過ごしております。
さらに夫の定年に伴い、9月に東京へ転居。学生寮の寮長寮母として赴任いたしました。なんと!所属する会社の副業認定第一号として、カウンセリングや講演会、著者としても継続させていただいております。
「使命」とは命をどのように使うことかを考えることととらえています。
私は、居場所となった現在の地で、家族とともに広い意味の「母」として生きていきます。
フードロスの問題を考えながら、地域に貢献してまいります。
あ、もちろん執筆もいたします。
2025年春には三笠書房さまよりあなたの周りの困ったちゃんをテーマに本が出ます。
そしてさらに、次へと向かうことになりました。詳しいことが決まり次第こちらでもお知らせしてまいります。
今後とも新生神田裕子をどうぞよろしくお願いいたします。
2024年11月30日
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