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自分もモブではないのだと|思い出図書 vol.05

わたしは比較的体を動かすのが得意な方で、水泳、短距離走、バドミントン、テニス、器械体操などは得意だった。
しかしバスケットボールやサッカー、バレーボールなど、チームスポーツかつ球技は苦手であった。バスケに至っては、ドリブルしたボールが自分の足に当たってどこかへ行ってしまう、という、いかにも運動音痴な有様だった。

やるのが苦手なものは見ることにも消極的で、世の中がワールドカップやオリンピックで盛り上がっていてもさほど関心がなく、非国民呼ばわりされることもあった。
ただし例外として、バレーボール観戦は子どもの頃からなんとなく好きだった。

母がママさんバレーをやっていて、よくくっついて行ったためかもしれない。他のママさんたちの子どもと一緒に遊んだり、長じてからは子守担当で行くこともあった。
テレビで世界バレーやグラチャン、春高がやればそれも見たし、一度だけ、母たちが女子バレーの観戦で代々木体育館に行くのに連れて行ってもらったこともあった。

日本では女子バレーがずっと人気で、男子はどうも今一つ、という状況が続いていた。母もわたしも男女どちらのバレーも好んで見ており、男子にもぜひもっと結果を残してもらいたいと常々思っている。


石川選手や柳田選手が注目され始めたのと前後して、わたしはある漫画に出会った。古館 春一さんの「ハイキュー!!」だ。

最初は、主人公の日向と影山が無茶苦茶だなと思った。
しかし、日向の高い運動能力はギフトと呼べるかもしれないが、それでも彼はバレーボールをする上で圧倒的に高さ(身長)がなく、手放しで魅力的な選手とは言えなかった。
影山の天才的なボールコントロール力は幼少期からボールを触り、バレーに触れ続けて体得したもので、なんの理由もない、いかにも漫画的な「天才」では決してなかった。

主人公だからといって都合のいいことは起こらず、積み重ねた分だけの結果が現れるというシビアな(しかしリアルな)作品だ。

「ハイキュー!!」に限らず、スポーツ漫画では試合の合間に相手チームの回想が入る。
試合に勝つために重ねた努力だったり、かつて悔しい思いをしたことだったりが描かれるのだが、「ハイキュー!!」の場合、いわゆる「モブ」的なチームであったとしても、そういった回想が入る。

ストイックに努力したとは言えないとしても、一回戦目で負けてしまうモブのような存在だとしても、自分たちだってバレーをやってきたのだ、と。

何かに夢中になりきらず、もちろんキラキラした実績もなければ甘酸っぱい出来事もない、モブのようなわたしの青春も、この物語によって成仏できたような気がする。まるで現代の平家物語のようだ。青春への鎮魂に満ちている。

そして物語が進むにつれ、これまたモブのようだったチームメイトにも光があたり始める。
彼らは、自分だけベンチは嫌だと練習を重ねたり、でも出番が回ってくればビビって失敗したり、チームに引っ張られて自分もすごくなったように勘違いしたりする。
胸が痛くなるほど、容赦なく凡人だ。

そんな彼らが試合中に報われる描写は、多い人物で二度か三度、大半は一度きりだったと思う。
それでもその鮮烈な一度のシーンによって、彼らは前を向いて生きていけるに違いない。彼らはその「一度」のために努力を重ねたのだ、報われたのだと、万感の思いでガッツポーズをする。
彼らは確かに、自らの凡庸さに勝利したのだ。


もちろん、一度と言わず、何度でも報われたいものだと思う。だがそのためには努力し、かつ挑戦し続けなければならない。何もしなければ、何もないのだ。

昨日を守って明日何になれる?
何かひとつでいい。今日、挑戦しいや

作中のある監督の言葉だが、連載中よりも完結してから、じわじわと思い出されて心に残り続けている言葉である。


わたしは先月からnoteを始めたのだが、さて、今年は何に挑戦しようか。

ハイキュー!!(古舘 春一)
集英社


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