努力が報われないことが苦手なのだと気がついた
ライターとして参加した新書『思い出せない脳』が発売から2週間で増刷となった。編集者さんがせっせとプロモーションをしてくれたことと、武田砂鉄さんのラジオでとりあげてもらったことが大きかったと思う。
本が売れるという経験が皆無のナカトバ作家なので(鳴かず飛ばずを、鮭とばみたいに言ってみた)、本ってこんなふうに増刷されるんだなあとしみじみ噛みしめた。いつか、自分が作者の本でも増刷されてみたい。中身のクオリティは一緒なんだけどなあ。そして『思い出せない脳』も、もっと売れてもいいと思うんだけどなあ。絶対読んだら面白いのに。
ライターになる前、小説家だけをしていたとき、作品を出すたびにランキングを追いかけて疲弊していた。仲のいい人や、ずっと見守ってくれていつも感想をくれる人が、どれだけ「読んだよ」と言ってくれても、ランキングや他の「売れている」作家の方ばかりみていると、「読まれていない」という想いが膨らんで、強迫的な絶望となって、それが常にわたしの首を絞めていて、息をするのがだんだん苦しくなった。
でも、理系ライターを始めてからは、楽に息をすることができるようになった。理系ライターの記事ももちろんたくさんの人に読まれたほうがいいのだけど、読まれることが収入と直結しないし、バズったりベストセラーにならなければならないというプレッシャーは他のジャンルより少ない。4000字前後の記事は本を1冊書き上げるよりは労力が少なく、本を出版した時ほど、読まれないことに絶望を感じなくて済んだ。
ライター仕事とはいえ、自分が携わった本が増刷されたら、売れることへのこだわりから解脱できるのかと思ったら、そうでもなかった。すごく売れるかどうかは、書評とかインフルエンサーとかに取り上げられるかどうかで決まることがよくわかったからだ。いったん火がつけば、どんどん燃える。そうでなければ、忘れられて、本屋から去ってしまう。自分ではどうしようもないことなのだとよくわかった。もちろん広報活動の努力はするけれど、それが実るとは限らない。そんなところで、やきもきしている状態がとてもなかなかしんどい。
わたしは、競争することが苦手なのかもしれないと思った。負けず嫌いという言葉ともあまり縁がないし。でも受験勉強とかがんばったり、京大に行きたくて目指したりもしたし、小説家になるには他の作家志望者と競争する必要があったわけだし…。それらは嫌いではなかった。
そこまで考えて、わたしが嫌いなのは、努力が報われないことだとわかった。
働けば働くほどお金は増えるから働くことは嫌いじゃないけど、自分のせいではない原因でごっそり減ることもある投資は怖い。記事を書く仕事は努力して良いものを書きあげれば依頼主に喜んでもらえる。でも、本が売れるか売れないかは、努力以外の要素が大きい。もちろん努力していない本は売れないけれど、努力しても売れるとは限らない。
「努力が報われないことが嫌い」というわたしを解放するためには、「努力が報われなくてもいい」というメンタルを手に入れるしかないんだろうか。いやいや、意味わからないし。報われないなら努力したくないし。今のわたしには無理だ。
じゃあ、報われないと思うことを変えるしかない。すごい努力してがんばっていい本を作った。その努力は、本が売れたら報われる、と、考えることをやめる。売れるか売れないかは、時の運もあるから、確実に言えることを「報われる」に設定する。
努力してがんばっていい本を作った結果、わたしの実力は確実にレベルアップした。経験値は増えた。体系的な知識を手に入れた。筆力もアップした。がんばった分だけ、わたしは成長している。つまり報われた。
これなら誰にも邪魔されずに奪われずに、「わたしの努力は報われた」と宣言することができる。
そもそも、ブックライティングの仕事は大変すぎて時間がかかりすぎて、単発の記事仕事に比べて割に合わないとわかっているのに、それでも引き受けたのは、自分をレベルアップさせたいからだった。本をすらすら1冊書ける体力を手に入れたい。プロの編集者さんとお手合わせして、読者に届かせる技を磨きたい。自分の狭い世界をもっと耕して、教養と呼ばれるものを身につけたい。
そうして、深く届く小説を書けるようになりたい。
文芸の「芸」を極めたい。
などなど、そんなことを裏紙にいろいろ書きながら自分会議をしていて、「文学賞を獲ろう」という結論にたどりついた。
いやいや、あなた、前に、賞にはこだわらず、自分の道を切り開いてくとか言うてたやん!
…って、まあ聞いて。
小説を書くのは本当に大変なので、書いたら、読まれたい。読まれたい。読まれたい。もうこれが一番大きい想いだった。まるで怨念のように読まれたい読まれたいと常に思っている。小説の場合は、ライター仕事のように、「自分の成長につながった☆」とか、言ってらんない。内臓までさらけだして死に物狂いで書いたものですから(みんなそうでしょう?)。
だけど、わたしの知り合いに宣伝するだけでは読まれない。というのも、知り合いはたくさんいるけれど、その中に、小説を読むことが好きな人や、小説を読む時間がある人が、ほんの少ししかいないから。これは小説に限らず、みんなそうだと思う。演劇をやっている人、音楽をやっている人、セミナーをやっている人、写真をやっている人、いろいろいるけれど、それを求めている人は知り合いの中に限ると、ほんの少ししかいない。
知り合いだからという理由で、もともと小説を読む習慣がなかったけれど、寝返って読んでくれる人もいる。義理で読んでくれる人もいる。だが、それでは足りぬのです。わたしの怨念は鎮められぬのです。
知り合いの中には少ししかいなくても、世の中には小説を読むのが好きな人たちクラスターが確実に存在する。小説がないと生きられない人たちがいる。どこにいるのかわからないけれど、その人たちの中心に放り込むことができる唯一の手段が文学賞なんじゃないの? と思ったのです。少なくとも、わたしがツイッターで宣伝したり、小説をアップしたり、HPを整えたりするよりは、ずっと、小説好きな人と出会いやすいはずだ。
そして、小説の新人賞の公募は、比較的、努力は報われる系だと思う。発行された本がベストセラーになるかどうかよりもずっと構造はシンプルで、自分以外の力の影響は入りにくい。必ず誰かに読まれて誰かにジャッジされるわけだもの。手に取られることもなく本屋から消えていく既刊本とは違う。
ようし、そうしよう。公募賞に出すぞー! と、わたしはすっきりしたのですが、みなさんついてこれましたかね?
まとめておきましょう。
すっきり①
大変な思いをして本書いたのに、売れないと報われない
↓
良い小説を書くための実力がアップして、すでに報われてる
すっきり②
一生懸命宣伝しても読まれなくて疲弊
↓
小説好きがたくさんいるところに、賞獲って飛び込もう
寄り道ばっかりしているように見えるけど、てか、実際そうなのだけど、寄り道したことで、ひとつひとつ、寄り道先がなくなって、前に進むしかなくなっていく。
今回、講談社現代新書というかなりメジャーなレーベルから、著名な先生が著者で、編集部も全面的に応援してくれる状態で、絶対面白い自信がある本を出すことができて、もっともっと売れてもいいはずなのに、それでもまだこんなものかと思って、わたしがひとりで、つまり無名の小説家が小説を発表したとしても、それが読まれることがどれだけ大変なことかがよくわかった。
ツイッターやnoteでバズって売れっ子になる漫画家さんやエッセイストさんもいるけれど、量と質と才能が半端ないし、やはりバズるためには自分ではコントロールできない要素もあるし、そういうことを考えたら、公募の賞に応募して結果を出すことを目指す方が、努力が報われないことが苦手なわたしにとって、心地よいのではないか。
努力が報われないことは目指さずスルーして、努力したら報われそうなことだけを見つけて、目標にして励みにしていったら、これからも楽しく生きられそうな気がするなあというのが今日の結論です。
ああ、壮大な逃避した。締切怖い。
(各位。忘れていません。必死でやっています)
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