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人生を救う物語もあるし、苦しめる物語もあるのだ、ということ。

今日は朝から、ライター仕事のゴースト本を書くためのインプット。さっさと書き出さなくてはいけないんだけども、導入の文章を思いついたら一気に行けそうな気がするんだけどな。

本を1冊書くのは、難しくて、しんどくて、本を書く仕事を引き受けなければもっと小説を書く時間も増えるのではないか、と思う。でも難しくてしんどいなら、やり終えたときに力がついてるのかもしれない、とも思う。ゴーストライターというのは、たいてい著者の方と印税を分ける契約なので、増刷になればよいけど、そうじゃなければ、普通のライター業よりも割の悪い仕事になる。

でも本を1冊書くというのは、フルマラソンを走るみたいな、大冒険でもあって、あと本を作る過程に携わるのも出版社のプロの編集者や校正者と一緒に仕事ができるから勉強になるし、書き終えてしんどさを忘れたら、また引き受けようかなという気になるくらい、面白い。困ったね。もっとどんどん書けたらいいのに。

今日はこのインプットだけで1日が終わりそうだ。昨日の日記が、どこが執筆日記だよという具合でひどかったので、読みかけていた『物語は人生を救うのか』千野帽子・著(ちくまプリマ―新書)を読み終えた。

このタイトルに「イエス!」って思いながら読み始めたのだけど、どうやらそう単純な話ではない。ストーリーを作ることで本当は大切だった詳細が消滅していくことがある。間違ったストーリーに苦しめられることもある。

人間は物語る動物ですが、その「物語る」という行為で自分を苦しめることもあるのです。人に罪悪感や疚しさを抱かせるストーリーやシステムからは、一刻も早く遠ざかることをおすすめします。

物語は人生を救うのか』千野帽子(ちくまプリマ―新書)

わたしたちを苦しめるストーリー。たとえば「女は子どもを産み育てるべきだ」とか。「親の愛は偉大だ」とか。「稼ぐ人が偉い」とか。いろいろ。

人生は無数の経験や感情でできていて、言葉にしないとそれらは泡のように消えてしまうけど、でも、言葉にしたとたん、言葉にできなかったことが忘れ去られてしまう。小説講座の中で「感情を言葉にする」という練習をするのだけど、みんな最初はとても戸惑う。自分の感情を100%ぴったり表せる言葉はない。だから言葉にするのを怖がってしまう。

ぴったりは表せないから。必ず零れ落ちてしまうから。でも言葉に表さないと0のままだから。半分でもあたっている言葉をえいやっと当ててみて、足りなければ、また他の言葉も足してみて。

そんなふうに言うと、ようやく、恐る恐る、言葉を探し始める。わたしが乱暴に「それって不安ってこと?」「楽しいってこと?」なんて聞くと、いやいやそうじゃない、と別の言葉を思いついてくれたりする。

小説を書き始めるのがとても億劫なのも、たぶん同じ理由だ。頭の中にある物語を100%表せる言葉なんて、存在しない。必ず、零れ落ちてしまう。だけど恐れずに書かないと、何も伝わらない。1つの作品で伝えられなければ、2つめ、3つめを書けばいい。

思いついた世界をすべて表すことはできないけれど、それでも、小説を書くということは、言葉にすると零れ落ちてしまうものをなるべく拾い上げていく試みなのかもしれない。「愛は素晴らしい」とか「生きるのは大変だ」とか、そんな一言で言ってしまえるようなことを、たくさんの言葉で物語っていくのだから。

簡単でわかりやすい言葉にすると、零れ落ちてしまうもの。世間が押し付けてくるストーリーを拒絶し、自分のストーリーを作り上げる力は、零れ落ちてしまうものの中にある。それをひとつひとつ拾い上げて抱きしめることでしか、自分だけのストーリーを作っていく力は身につかないのかもしれない。

〈本日の小説活動〉
①『物語は人生を救うのか』千野帽子・著(ちくまプリマ―新書)を読んで、ストーリーを紡ぐことについて考えた。

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