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ストーリーを見つけるまでが書き手の仕事

(下書きのまま寝てしまった。昨日(17日)の日記。)

今日は午前は研究者取材。オンラインで。何だかアニメ化したくなるような研究内容だった。細胞を擬人化して。『はたらく細胞』みたいな感じではなく『攻殻機動隊』みたいな雰囲気で。

いくらわかりやすく研究記事を書いても、なかなか読んでもらえないので、最初のハードルを超えてもらうために、日本一ゆるくてざっくり研究解説する博士YouTuberしたいなあと思って、理系ライターでサブチャンネルを開設したのはいいけど、全然アップできなくて、ただただ微生物が泳いでるページになっている。

とはいえ、記事も全然読まれてないわけではない。わたしの知人友人たちは感想くれるし、記事をきっかけにテレビ取材とか、ほかの取材につながったという話も聞いたりする。嬉しい。博士まで行ったのに研究者にならなかったことに負い目があるけれど、別の道から研究に貢献できている感じがする。

午後はひたすらライター仕事の単行本。初稿は9万字書こうと思っているので大変だけど、少しずつ埋まっていって全体が見えてくるのは、なかなか楽しい。大きなジグソーパズルに似ている。最初に端っこのピースを埋めて、あと似たような絵で繋がるものを集めて小さい塊をいくつも作って、どこにはまるかを探していく。

四隅のピースは原稿で言えば構成で、端のピースは小見出しだ。中身を書きながら小見出しの順番や文言を調整する。そうすると、より中身が見えてくる。

書くときに資料として専門的な内容を一般の人の届ける系の本をいろいろ読むけれど、本として面白いものは少ない。学問の説明を正確にするには用語から定義から順番に積み上げていく必要があるので教科書みたいな内容になりがちだ。資料としては十分役に立つけど、非専門家に興味をもってもらうという目的はたぶんかなえられない。だからといって、わかりやすく、とっつきやすくを目指した本は、個別のトピックをばらばらと載せた寄せ集めになっていて本1冊を読み終わったときの特有の感動がない。

つまり、どちらもストーリーがないのだな、と、この日記を書きながら思った。ストーリーは作るものではない。見えてくるものだ。見えるまで材料と格闘していくのが本や記事を書くことなのではないかと思う。石の中にいる仏を削りだすような。学術的な内容でも、取材記事でも、小説でも一緒。見えないまま、聞いたこと・思いついたことをただ並べて書くだけでは駄目だし、自分勝手にストーリーを捏造しても駄目だ。

自分という輪郭を外して溶け込んで、でもしっかりとコントロールする必要もある不思議な感じ。演劇や朗読劇の演者をやったときも似たような感じがした。自分じゃない誰かになるためにゆだねつつ、しっかりとコントロールする自分もいないと伝わる表現にならない。

〈本日の小説活動〉
文学2022』という本を見つけて読み始めた。2021年に文芸誌などに発表された全部の短編のなかから12篇を厳選した短編集。いろいろな作家の今が読めていいなと思って。文学って何なのかわかるかもしれないし。


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