自分の森で小鳥を見つける――表現したいものがないと落ち込む前に、やるべきこと
異文化を運んでくるのは、いつも友人だ。ひとりでは興味を持てないことでも、友人が好きなものやはまっているものなら興味が湧く。友人の好きなものなら、わたしも好きになれそうな気もするし、とりあえず好きになれるかどうか一度は試してみようかという気にもなる。
本も、音楽も、カメラも、ライフスタイルも、考え方も、食べ物も、遊びも、ファッションも、わたしが気に入っているほとんどのものは、誰から影響を受けたのか、全部説明できる。誰からの影響も受けずに自らやりたくてやり始めたのは、小説を書くことくらいかもしれない。
ごく最近の黒船伝来は三浦大知さん。友人のいにみにがはまっているのは知っていたけれど、はるばる遠くから大阪にひとりでライブを見に来るというので、軽率に「一緒に行っちゃおうかな」と言ってみたら、本当に一緒に行くことになり、ライブに行くならちゃんと聞かなくては…と昨日から聞き始めた(一昨日にライブ当選がわかった)。
音楽の幅が広すぎる。言葉が溢れすぎている。なのに、作詞、作曲、振り付け、全部やっているのだそうだ。そのうえで、この歌、ダンス。ぶえー。どれだけ表現したいことがあるん?
全身全霊全人生で表現してる人に触れて、わたしの課題はこれだな…って痛切に思い知らされた。いくら文章の技法を磨いても読書をしてもダメだ。ライター原稿は書けるけど小説は書けないのは当たり前だ。表現したいことが湧いて出る人になりたい。 というか、あとはもう、それだけな気がする。
いやでも、そんなことを考えている時点で小説家に向いていないのではないか…。何も書きたいことがないなら書く必要がないし、読まされる方も迷惑じゃないか。溢れてくる人だけが書けばいい。表現したい人の代わりに書いてあげるライター業だけやっていればいいじゃないか…と、ぐるぐる考えて落ち込んでいく。
空っぽのくせに。そこそこ世の中とうまくやっていけているくせに。何で小説を書きたいと思うのだろう。小説を書く自分でありたいと思ってしまうんだろう。
昔は書きたい物語が溢れていたのに。あれも書きたい、これも書きたいって。妄想してワクワクして。早く形にしたくてたまらなくて。今は枯渇してしまったのだろうか。もうあんなふうにはなれないのだろうか。
表現したいことがないのは、人間性が薄っぺらいせいだ。勉強しなくては。安全圏から出ていろいろな経験をしなくては…と思いながら生きてきて、いまだにそう思っているんだけど、もう44歳でしてさ、それなりに経験も積んでるし勉強もしているし、嫌なことを上手いことやり過ごせる年の功スキルも身に着けて、もう、ここから人間は大きく変わらないし、もうわたし無理じゃないか。書きたいことが出てこない現実に向き合って、小説家である人生を諦めたほうがいいんじゃない?
…と、ここまで考えて絶望したのが昨夜。しかし、朝起きてみて、待てよ? 昨夜わたしなんか重要なこと言ってなかった? と引っかかった。思考を巻き戻す。
<妄想してワクワク> これだ。この感覚が最近、ない気がする。<妄想してワクワク>な状態になるのに、人間性とか関係なくない? この状態に自分を持っていく方が先じゃない?
子どものときを思い出してみる。妄想はたいてい暇なときに表れた。授業のときとか。ひとりで塾から帰っているときとか。書くことは遊びだった。世の中に何か訴えたいとか、文学とは何かとか、有名になりたいとか、小説のジャンルとか、売れ筋とか、そんなことはまったく考えていなかった。自分の考えた世界の完成を見たくて、そしてそれを誰かに読んでもらいたかった。
三浦大知さんの歌聞いたりPVを見たりして、ピシャッと雷に打たれたのは、彼がものすごく楽しそうに見えたからだ。キラキラしている。こんなふうに全方向に自分をめいっぱい表現して、生きていけたら本当に素敵だなって思ったからだ。技術がすごいってのはもちろんあるんだけど、そういう理屈抜きにまず衝撃が走った。たぶんそれは、全身全霊で<遊んでいる>という感じがしたからだ。歌と踊りで体を使って全身、音楽とダンスを作り上げるのに魂を使って全霊。かっこよく見せたいとか、そういうんじゃなくて、溢れてくるから表現したいという感じ。体と心の両方でやってるからこそ、その迫力と本質が本能的に迫ってきたのだと思った。
遊びは、誰のためでもなく自分の内に湧く衝動のためにやる行為だと思う。遊びを極めていくと芸術になるのではないか。誰かに認められたいとか、売れるか売れないかとか、意義があるかどうかとか、そういうものは遊びの中に入り込まない。入ったとたんに遊びではなくなってしまう。
全力で遊んでいる人を見るのは楽しい。人間という存在のかけがえのなさが見えてくる気がする。自分の可能性もまだまだあるような気がしてくる。
表現したいものがないと落ち込む前に、やるべきことがあった、と思った。もっと遊びたくなるように、もっと自分の精神を自由にすること。いろいろな物語を妄想して楽しんでいた子どものときのように。精神を暇にする。小説を書くことに、何も背負わせない。
今のわたしにできることは、物語が生まれてきたくなるような心を作ることだと思う。わたしという森に、物語という鳥が降りてくる。たぶんこの森は、もう改造することはできない。こんな森じゃ嫌だと木を切り倒して、別の木を植えても根付かない。森が死んでいく。できることは、健全に育つように、時間を注ぐことだ。そうして、わたしの森に合った鳥がやってくるのを待つだけだ。
あの人は湖があるから白鳥が来ていいなあ、とか。あの人の森は小動物がたくさんいるからフクロウが来ていいなあ、とか。どうしても「隣の森」がうらやましくなるけれど、わたしはわたしの森に降りてくる鳥と一緒にやっていくしかない。たぶん、平凡なわたしの森に降りてくるのは、派手さのない、希少性もあまりない、でも、小さな可愛い小鳥だと思う。
降りてきた鳥を見つけるためには、できるだけ森に足を運ぶ必要がある。森の中で過ごさないと鳥を見つけることはできない。ずっと放置しているくせに、たまに切羽詰まった怖い顔してやってきて、網を振り回してのしのし歩いていたら、姿を見せてくれるはずもない。
手ぶらで、ただ過ごしにいこうと思う。そのための時間をたくさん作ろうと思う。出ておいで。怖くないよ。安全だよ。もう、とっ捕まえてジャッジしたりしないから。
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