心を動かし生きること感じること、それを意識することが小説活動なのかもしれない
冬は寒くて着る服の選択肢が狭まってしまう。あったかくて気に入っているセーターは何度も着るので、毛玉だらけになっている。見てみぬふりをしてきていたのだけど、突然思い立って、毛玉クリーナーを購入した。百均でも買えるらしいが、奮発して、電池式ではなく、電源につなぐやつで、日本製のものを買った。あとセーターの手入れの仕方をネットで調べて、無印良品の豚毛の洋服ブラシが良いと書いてあったのでそれも買った。
あんなにうんざりしていた毛玉がみるみるなくなって、ブラシで毛の流れをそろえてやると、なんだかまあまあ、それなりに、セーターが蘇った。普段、前にしか進めない香車みたいな(※将棋)生き方をしているので、お手入れとか手直しとか、そういうものとは縁がなかった。縁がない分、憧れが強い。
わたし「修復」過程を見ることが好きなのかもしれないと思った。ゴミ屋敷をプロがきれいな部屋に戻す動画を見るのが好きなのも、捨てる様子ではなく、きれいに修復されていく過程を見るのが心地よいのかも。
「修復」がテーマの小説を書いてみたいなと思った。何を修復するのか、まだわからないけれど。
こんなふうに書いてみたいことが思い浮かぶためには、ちゃんと自分の生活をして心を動かし、動いた心を感じ取らないといけないのだ、と思った。仕事も人生の重要な時間だけど、仕事をしているとき、わたしはわたしの一部分しか使っていない。そこだけを使う生活だけを続けていると、小説は生まれてこない。
今日は午前はオンラインで研究者の取材をし、午後は以前した取材の原稿を書いた。商業小説家としての経験はライターの強みになっていると思う。この文章はどんなパッケージで届けて、誰が話しているのか、どんな人に届けるのか、読み手をどんな気持ちにしたいのかを、常に意識して書いていることと、たぶん、構成力があると思う。
ライターの経験は小説に生きるのだろうか。よく聞く、小説家がライターをすると筆が荒れるみたいなことは、わたしは感じてはいない。別の競技だから。ただ基礎体力とか足の速さとか共通する部分もあって、そういうところが鍛えられるので、毎日ライターとしての文章を書いていることは小説にもプラスになっているかもしれない。
一番の弊害は、ライターの仕事だけやっていると、自分の一部だけを使って生きてしまえるので、小説が痩せていくのだと思った。ライターに限らず、他の仕事でも同じだけど。自分の一部を活用し、それと引き換えに対価を得るのはとても健全な行為だ。全部を差し出したら奴隷になってしまう。
でも、小説を書くには、自分がまるごと必要だから、仕事だけの時間を過ごしていてはだめだ。自分の生活をもっともっと豊かにしていかなくてはいけないんだと思った。セーターの毛玉を取りながら。
この日記を書いていると、何が小説活動で何が小説活動でないのか、おぼろげに自分の中に基準ができてくる。少なくとも、自分の作品を見て見てとアピールしまくったり、エゴサーチをして自分のなけなしの評判を確かめたり、ランキングを見て落ち込んだり、自分なんかどうせ駄目だとグチグチ落ち込んだりすることは、小説活動ではないなあと思った。そんなことばっかりしてたよ、わたしは。
〈本日の小説活動〉
①セーターのお手入れをした。
②自転車に乗ってショッピングモールに出かけてインド料理を食べて無印良品をぶらぶらした。
③週末に友達とカラオケに行くので慌ててYouTubeで歌を聞いた。文章を書いたり読んだりしているときは音楽を聴かないので、普段はほとんど聴かない。テレビも見ない。カラオケのレパートリーは高校生のときのまま止まっている。しかしみんな本当に歌が上手いし、新しい歌もどんどん増えるし、いったいいつどこで聞いて練習しているのか。練習しなくても歌えるのか。謎だ。歌がうまくなりたいなあー。…ってどこが小説活動なのかというと、歌の歌詞を聞いていたら恋愛の話を書きたくなった。あと、わたしはいつも頭の中に文章と理屈が渦巻いているけれど、歌に身を任せて耽溺するような時間が必要なんじゃないかなと思った。感情を無条件にさらっていく音楽に、わたしはいつもいつも嫉妬する。
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