場所と執筆の関係
脳の海馬には場所に反応する細胞がある、と最初知ったときは、なんじゃそりゃと思ったけど、でも野生の動物にとって場所を覚えられるかどうかって死活問題だよね。食べられる実の生えている場所とか、獲物を狩ったあとに持ち帰るための巣の場所とか。場所を覚えるために脳が発達していても納得だ。
わたしは方向音痴すぎて場所のことを何も考えずに生きているので、たぶんその分のリソースを他に使っているのかもしれない。とはいえ、長年動物をやってきた脳が、現代人の生活に合わせてすぐに変わるわけでもなく。やはりわたしの脳細胞はきっと今でも場所に反応して活性化していると思う。
というのも、わたしは場所によって書ける文章が変わるのだけど、それって脳に何か刺激が入ってるせいかもしれないと、ふと思ったからだ。推敲はどこでもできるけど。ゼロからイチを書くときは、場所を変えながら書く。一箇所にとどまっていると3000文字以上書けない。
ライターの本の仕事をようやく書き始めた。2800字書いたあとに、続きをジムで自転車を漕ぎながらスマホで書こうと思い、着替えてジムに行く用意をばっちりして、パソコンの方の原稿を保存しなきゃと思って見直したら、なぜかまた書き始めてしまい、ジムの時間に間に合わないところだった。
いざ出発するぞ、という気持ちのときに書くと書けるのなら、これは新たな技になるかもしれない。あの手この手でどうやったら書けるのかを模索している。しかし遅刻してしまうけど。
ジムでは推敲はできたけど、新しく書くことはできなかった。
温泉旅館に何日も缶詰で執筆、なんて憧れるけど、そんなふうに一箇所に留め置かれたら、わたし、全然書けないんだろうな。
今は自分の部屋のパソコン、寝室でスマホで寝ながら、友達の家、乗り物で移動中、という執筆場所を使い分けている。わざわざカフェに行って執筆というのはしなくなった。ぴったりのとこがないのと、飛び込みで入って執筆に向いてない雰囲気だったら出にくいし。
あ、あとバーチャルな場所だけど、ツイッターのスペース。スピーカーとしてスペースを立ち上げて、何も喋らずミュートのまま執筆をする。誰かが立ち寄ってくれたらアイコンが表示される。バーチャルだけど同じ部屋にいる感じがする。この場所は、まったくのゼロから書き始めるときにちょうどいい。
場所細胞を刺激しながら、あの手この手よ。どんな手を使ってでも書かなくては。
〈本日の小説活動〉
『愛と髑髏と』皆川博子・著を読み終えた。すごい小説だった。ため息。すごい小説家だよ。
今日は朝からライター本の執筆と、取材申し込み1件と、取材準備2件と、メールの返信と…って感じで1日が終わってしまったので、またしてもこの日記を書くために、何かしなきゃと思って、小説を読んだ。まあでも、この日記を書かなければ、何も小説活動をせずに1日が終わってしまうのだから、これでいいか。ゼロよりはイチ。イチなら積み重ねれば少しずつ前へ進められる。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?