010 まえがき
「社会はどんどん悪くなっている」という見立てがある。
環境問題を含め、社会問題は世界に広がり、また深刻さを増すばかりである、と。
そんな社会に対してすこしでも貢献し、問題を軽減したいと願い行動する人がいる。
だんだん深刻に受け止め、だんだん深刻に努力するようになる。
しかし深刻に努力するほどに、社会問題は深刻になっていくようにも感じる。
「どんな技術開発や社会貢献してもとても解決されそうもない」と感じるようになる。
ついには「恐怖の大変動(カタストロフィ)がやってくる」と見立てるようになる。
表面では大変動を拒絶しているようでいても、裏面では願望するようになる。
確かに現実は小説より奇である。
しかし、現実は願望よりはマシなのである。
それは、現実は願望より理想に程近いものだからである。
残念ながらいつまで待っても大変動はこないのである。
「社会が悪くなる」という見立ては取り立てて新しい見立てではない。
時代に合った切り口をしているだけであり、ただ、ことばやデータが新しいだけである。
そういった見方は、末法思想や終末論など紀元前より世界各地にある。
一つの大切な伝統的な見立てである。
しかし、そういった見立てについてそろそろ解消されてしまうという憶測がある。
いつ、どこで読んだか、どの本であったかも忘れてしまった。
ただ、色々な本に少しずつ載っていた気がするし、自分勝手な解釈かもしれない。
その記憶の片隅に消えずに残っていることをここで羅列してみる。
①宗教の次にくるものであり、万物に霊が宿るとするアミニズム的見立てを備えている。
②東洋的な思想であり、おそらく日本から出る。
③意外な形式であり、独自の文体を備えている。
④アッといわせるような簡単なオチ。
⑤三段論法など簡単な論理構成で示されている。
である。
なにを隠そう、その憶測に対する解答が本書なのである。
初めから、これらを明確に意識して書いていたわけではない。
しかし何かを考えるほどに、徐々にこの問題が重くのし掛かってきたのである。
逃げるわけが作れず、結局それに応じる形になってしまったのである。
恥ずかしい話だが、執筆中、深刻に自分の死を考え直し、深刻に恐怖したことがあった。
その時そのまま「あっち側にいってしまうのでは」とかつてない恐怖を感じた。
それでも、どことなく客観的であり、残念だが自分と自身は一体になれなかった。
先の四項目に対する詳細の解答は本文に譲る。
ここではごく簡単に本文の内容を紹介する。
①人の生き方の根幹に関わる理として哲学も宗教も同質のものである。
個別の哲学や宗教の内容にはあまり関心がないし、このままでいいと考えている。
ただ、宗教の本質も、哲学の本質も、ことば以前にあると考えている。
そこに尊厳があり、万物に霊が宿るとするアミニズムと同様の見立てになる。
②東洋的といえば、禅問答などに近いし、逆転の発想、天の橋立の見方である。
しかし、哲学の歴史などは禅問答そのものであり、発想が特に東洋的ということはない。
ただ「あはれ・をかし」「わび・さび」「いき・いなせ」に通じる見方をしている。
それは、善と悪、良と否、好と嫌をほぼ平衡の構えで見立てているからである。
③意外な形式かどうか不明だが、あまり見た事はない文体である。
物語・エッセイ・詩・論文調と自分勝手なスタイルである。
④自分自身では一応アッといわされたことを綴ったものである。
⑤本文中には三段論法などを色々と活用している。
ここでは、三段論法を交えた表現で導入を紹介する。
表層の動機では「何かをやりたい、知りたい」と感じたり、思ったり、考えたりする。
そこで「何かをやったり、知ったりする」行動をする。
しばらくすると「何かをやったり、知ったりした自身」を知ることになる。
時間は過去から未来へ流れている。
何かをやったり、知ったりした自身は、過去の思い出の中に存在することになる。
現在から考えれば、何をやっても知っても、思い出の中の自身しか知れない。
結局「何をどうしても自身についてしか知れない」のである。
換言すれば「何をどうしても自身を知れる」のである。
充分自身を知っているはずなのになお「自分探し」をする人がいるのはなぜか。
自分探しの深層は、何も自分の好きなことを探しているのではない。
それに、ただ自分に向いていることを探しているのではない。
自分のしなければならないことを探しているのである。
そこで始めの「社会に貢献する」という考えが出てくるのである。
社会的である人間の住み処である社会が病気なのである。
それを微力でも直すことを、しなければならないことと見立てるのである。
社会問題とは自己の見立てである。
それで仕方ないこととすれば、すべての社会問題はなくなってしまうのである。
宇宙の存在ですら正当性がないのだから、それ以下のものは言うまでもない。
それなのに社会に問題があると見立てるのはなぜか。
それは、自分自身に問題があるからである。
なぜなら、自分自身とは最小の社会だからである。
自分自身がなぜ社会なのか。
社会とは人間交際のことだからある。
人間交際の最小は、考える自分と実際存在(実存)する自身との交際だからである。
社会に問題があると見立てられるのは、無自覚でも自身に問題があるからである。
自身の問題を無くせば、社会の問題も織り込み済みになり極少になるのである。
仮に外の社会の問題だけを解決しても自身の問題は一向に減らないのである。
自身の問題を社会の問題に投影していても永遠に解決しないのである。
しかけられている自身の問題を解くことで、社会の問題も解けるのである。
そんな恐怖の自覚こそに、リアルな(本当で現実的な)をかしさがあるのである。
社会問題の先にあるカタストロフィをいくら探しても外には見つからない。
カタストロフィは自分自身の内にあるからである。
カタストロフィを恐れつつ望んでいたのは他でもない自分自身なのである。
郷士が立ち向かう粉を挽く高くそびえる風車とは、社会のことである。
裸の王様が着ている服とは、社会的副産物(ことば)のことである。
そして小さな青い鳥とは、小さなカタストロフィのことなのである。
過分の機会を社会から頂いた。
過分の問題を社会から頂いた。
過分の時間を社会から頂いた。
応分は在り難く頂戴する。
過分は本書をもって社会にお返しする。
分相応に生きるために。