ウィル・スミス事件とアメリカ文化

アカデミー賞授賞式における
ウィル・スミスの行為について物議が醸されています。

勝手ながら、一連の出来事から感じる
私の所見を述べさせてもらおうかと思います。


地元、アメリカではウィル・スミス氏の暴力行為に対して
批判的な声が多いと聞きます。

一方、日本ではそれ以外にも挑発したクリス・ロックへの批判や
ウィル氏に対する同情の意見も多いそうですね。


そんな中で、同じ日本人の中にも
いかにもアメリカ的な考え方が先進的で
文化的であるような論調で書かれたコメントを見ると
西欧人に対する日本人の潜在的なコンプレックスを見るようで、
多少辟易してしまいます。

私はこの場で、どちらが正しいとか間違っているとかを
言及するつもりはないのですが…

今回の反応は、文化人類学的観点から
いかにも米国人の価値観を反映しているようで
興味深く感じています。




ロシアのウクライナ侵攻は、勿論非難されて当然のことであり、
民間人への攻撃、虐殺は許されることではありません。

しかし、そこに至るNATOや米国の露国に対する対応は、
決して誉められたものではないことも事実です。



全ての物事はどちらか一方が善で、
一方が悪という単純なものではありません。

それを一刀両断で善悪をつけること自体が
ナンセンスなのかも知れません。

日本には古来から「喧嘩両成敗」という考え方がありました。

たとえ、一方的に悪者であるように見えたとしても、
喧嘩に至ったのは、もう一方にも責任がある
という考え方が根底にあります。

もしかしたら、西欧文化のように
全てが契約の上に成り立つ社会では、
こうした考え方や価値観は形成し難いのかもしれませんね。



アメリカが建国する以前、
新天地を求めて多くの英国人等が新大陸に移ってきました。

彼らは半分騙すようにして狡猾に原住民と契約書を交わし、
憤慨して攻撃した現地人たちを「正義」の名の下、
虐殺し、土地を奪い取っていきました。

彼らは「私たちは契約書を交わした。
だから、私たちの行為は正しい。」
きっと、そう言い放ったことでしょう。


ウィル・スミスの行為はロシア同様、
決して誉めらることではないのかもしれません。

しかし物事は裁判のように、どちらかが善(勝訴)で
どちらかが悪(敗訴)という単純なものではありません。

そう判断しようとすること自体が、
間違いなのではないでしょうか?


もっとも平和や幸せを導く考え方があるとしたら、
善悪(勝負)を決めることではなく、
当事者同士が、「自分にも間違いがあったのではないか」
と考えることが…

世界を平和にしていくことなのではないでしょうか?

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