『身銭を切れ』 | 人はリスクなしに何も得ることなどできない
こんにちは!かなヲです。
今日は、「身銭を切れ」という本の自分の解釈を書いていこうと思います。
一度読もうと思いつつ、途中で諦めてしまっていたので、今回は自分の言葉として咀嚼しながら理解を少しずつ進めていこうと思います。
僕が、個人的に尊敬している人が好きな本なので、その良さを自分も理解したいというモチベで読みます。
今回は「身銭を切れ」の全8部からなる本文の、プロローグとなる第1部の要約です。
⚠️注意
この本は以下のレビューからも読み取れるように、とても読みづらいです。
ただ、内容としては機知に富んだとても興味深い内容です。
この本の内容を過度に要約・簡素化して、この本の内容を毀損したくないという思いから、今回の記事は第一部のみの要約ですが少し長めとなっております。
結論
最初にこの本の自分の解釈としての結論を伝えます。
身銭を切れというのは、何かを得たいなら、それ相応のリスクを取る必要があるということです。
僕は、この本を読みながら、鋼の錬金術師を思い出しました。
鋼の錬金術師で描かれる「等価交換」のテーマは、「何かを得るには、それ相応の代価が必要である」という普遍的な原則を示しています。「身銭を切れ」という概念も同様に、何かを得たいなら自分自身でリスクを負う必要があると説いています。
身銭を切るとは?
まず、身銭を切るとは何なのか、またその概念の変遷を辿っていこうと思います。
何かを得たいならそれ相応のリスクをとること
「身銭を切る」とは、何かを得ようと思うなら、自分自身でそれ相応のリスクを負うことを指します。
ギリシャ神話のアンタイオスの巨人は地に足をつけることで、地母神ガイアの力を得ており、屈強そうな旅人に戦いを挑んでは、相手を殺していた。
しかし、ヘレクレスに地面から持ち上げられると、大地に足をつけていない間に息絶えました。
この教訓は、知識や力が実体験に根ざしてこそ価値を持つということを示しています。
他者依存の知識は、参照先がなくなると価値を失いますが、実際の経験から学んだ知識がその人を本当に強くするように、身銭を切って得た知識は、簡単に揺らぐものではないということです。
「身銭を切る」概念の変遷
身銭を切るとは、今に始まった概念ではなく、常に組織化された社会の基本原理でした。
この概念が歴史上で初めて登場したのは、3800年前に作成されたハンムラビ法典です。
ハンムラビ法典では、「目には目を」の原則で、責任の所在を明確にする仕組みが古代から存在しました。
また、多くの宗教の中でも黄金律として知られる「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」という言葉も身銭を切るという概念です。
他にも、類似した概念として、哲学者のカントの定言命法では「君は君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよ。」という記述があります。
つまり、「自分の行動が普遍的なルールとして適用可能であるかを考える」ということです。
このカントの理論は一見すると倫理的で正しい考え方ですが、懸念点があります。
「普遍的なルール」ということを信じて行動することは、時に、現実の複雑さや具体的文脈を無視することで、抽象的な正義により、現実に悪影響を与える結果を生みだす可能性があることです。
こちらについては、干渉屋の例として後述します。
身銭を切らないとどうなる?
ここからは、身銭を切らない人々がいることでどのような弊害が生じるのかを二つのエピソードから見ていきます。
干渉屋による強制的な政権交代
リビアには、奴隷市場が存在する。駐車場に設けられた即席の奴隷市場では、捕えられたサハラ以南のアフリカ人たちが入札者へと売り渡されています。
このような現状は、「干渉屋」と呼ばれる連中による、「独裁者を排除する」という名目で強制的な政権交代を支持してたことが影響しています。
彼らは、2008年に「反体制派」を活発化させ、強制的な政権交代をもたらしました。やがてその「反体制派」の一部が、アルカイダへと姿を変えたり、イスラム過激派の勢力を高めるきっかけになりました。
また、独裁政権の強制交代による、権力の空白化により、今まで押さえられていた部族対立や宗教対立が息を吹き返してしまい、治安の悪化がいわゆるイスラーム過激派の暴力の横行を許してしまうと言う傾向が出てきました。
これらは、短期的には独裁者を排除する「成功」のように見えても、長期的にはさらなる混乱や人道的な危機を引き起こす要因となっていたと言えます。
このエピソードから読み取れる、干渉屋の欠陥は以下です。
ある事象によって引き起こされる、n次的な影響を考えられないこと。
複雑系に対して、一次元で物事を考えてしまうこと。
干渉屋はなんのリスクも背負っていないこと
独裁政府という一次元の問題を解消することを考えて、それによって引き起こされる副次的な影響を理解できていないことである。
複雑系というのは、数多くの要素で構成され、それぞれの要素が相互かつ複雑に絡み合った系またはシステムのことです。
これらは、一次元的な相互作用ではなく、複数の変数が複雑に絡み合って出力を出します。したがって、一次元の変数の調整ではどのような影響が生じるかを測定することが不可能と言っても過言ではないです。
また、一番の問題なのは、それを行なっている干渉屋はなんのリスクも背負っていないことです。
リスクは負わない状況で干渉だけを続けて、そのツケを何の罪のない人間が払わされています。
したがって、彼らは学びを得ずに、この世の中に害を生み出し続けるという悪循環が生じています。
ロバート・ルービン取引
シティグループは2008年の金融危機で巨額の損失を出し、政府による救済(ベイルアウト)を受けましたが、シティグループの取締役のルービン自身は莫大な報酬を受け取っていたとされています。
彼のツケは、様々な人が損切りとしてその責任を分散して受けました。
また自由市場が、一番の犠牲を受けました。その理由は、自由市場の基本理念である公正性と自己責任の原則が破壊され、それが一般大衆の信頼を失わせるからです。自由市場が本来持つ効率性や活力が損なわれ、規制強化や市場経済への反発といった負の連鎖が引き起こされます。
ただし、実際には自由主義は何も悪くなく、救済(ベイルアウト)という仕組みによって、不公正を可能にしているのは、市場ではなく政府でした。
政府の介入そのものが、身銭を切らなくて良いシステムを生み出していました。
ここから学べることは以下です。
リスク転換のメカニズムは学習を妨げる。言い換えると、身銭を切らない限りは進化は起こり得ない。
システムは失敗から学ぶ。もう少し詳しくいうと、特定の種類の失敗を犯しにくい人々を選択し、そうでない人々を排除することで学習していく。
また、時間は脆いものを排除して、頑健なものを生きながらえさせる。
複雑系(システム)への理解
これは、身銭を切らなかったことによるエピソードから学べる、複雑系の持つ性質です。
複雑系には余計なちょっかいを出さない
複雑系には、一次元の因果関係のメカニズムはないので、余計なちょっかいを出さない方が良い。
一人でに起こる分権化
中央集権的な制度では、不均衡が蓄積すると自然と分権化が進みます。このプロセスは、リスクを負わない意思決定者を排除する形で進行します。
リスク転換のメカニズムは学習を妨げる
リスクを他者に転嫁する仕組みは、意思決定者が自ら学ぶ機会を奪います。このため、進化や改善が停滞します。
システムは失敗から学ぶ
システムは、失敗を通じて脆弱な要素を淘汰し、頑健なものを残すことで進化します。これにより、特定の失敗を犯しにくい形へと適応していきます。
規制 vs 法制度
市民を巨大な略奪者から守るために複雑系に対して行える対処法は二つあります。
規制を設ける
法制度を設ける
規制を設ける場合は、規制から利益を得ようとする寄生虫が生まれる。規制の本来の目的を無効にしてしまうことから「規制の虜」と呼ばれています。また、規制は一度制定すると、それから恩恵を受けている人々からの圧力で解除することが難しくなる。
規制は、人々から自由を奪うことにもなり、さらには不要にシステムの複雑化を加速させる。
したがって、規制はあまり不用意に設けるべきなものではないが、例えば、発覚した時には手遅れなリスクに対する処置としては適している。
一方、法制度とは、法的責任のリスクを負うという形で、商取引の当事者に身銭を強制的に切らせるということであり、筆者はこの仕組みに対しては肯定的である。
応用編
商取引における非対称性
身銭を切るという原理は、つまり二つのある関係において対称性を持たせるということであり、以下の学びが得られます。
アドバイスが間違っていた場合の罰則が存在しない限り、そのアドバイスは真に受けないこと
商取引では、情報に非対称性があり隠されている情報が存在する場合は、一方が不利益を被るため、考慮しておく。
予測するな、現象を捉えろ。
人間は、理解するよりも、体験・実行を通して真に地に足ついた学びを得ることがわかる。
そのため、理解のために考えることはあまり重要ではなく実際に行動することが大切。言い換えると、予測ではなく現象を捉えることであると言える。
どれだけ馬鹿げたように思える習慣でも、それがずっと有効に機能してきたという実績がある場合は、それを非合理と判断することができない。
つまり、生存こそがものをいう。
身銭を切るべき人
特に、身銭を切るべき人は、その職業の構造そのものからして、自分で責任を負うことなく、他者に危害を及ぼしかねない人々。
そういう人は、過去にも現在にも非常に稀であるがそのような人たちこそ(現在身銭を切れていない人が一定数存在しており)身銭を切るべきである。
身銭を切るとハイパフォーマンスになる
身銭を切らない人々は、実際にリスクを背負っていないため、実際にリスクを負う人たちほど、俯瞰的に物事を判断できない。
物事を自分ごと化して考えられず真に当事者意識を持てないから。
一方、人はリスクを背負った途端、物事は退屈ではなくなるし、最高のパフォーマンスを発揮できるようになる。
例えば、航空機の安全点検が、乗員として航空機に乗ることになると、退屈でなくなる。
また、薬物中毒者は、知性に乏しいが、ドラッグの調達となると、最高の知恵を絞り出す。
そして、リスクを負うという極限の状態や集中から得た知識は、ずっと後まで手元に残り続ける。
他者のために身銭を切れる人(職人)について
人間は以下の3つに分類できます。身銭を切るか切らないかではなく、この世には他者や社会のためにリスクを取ってくれるような人間がいます。
身銭を切らない人
自分のために身銭を切れる人
他者のために身銭を切れる人
このような人間は他者や社会のためにリスクを取る存在で本書では、職人と呼ばれています。
特徴として、利益よりも名誉や影響を重視し、自らの責任感に基づいて行動します。彼らは、お金や営利ではなく、尊厳と名誉、他者に与える影響のために仕事を行う。
エセ起業家について
起業家は、社会の英雄であり、社会の進歩のためにリスクをとってくれるものである。
ただ、資金調達やVCの仕組みのせいで、本当の意味で身銭を切っていないエセ起業家が溢れている。
彼らの目的は、4歳で売り捌くために、高い値のつく可愛い子供を産むようなものであり、そのようなエセ起業家は、説得力のあるビジネスプランを書く能力があるかどうかで見分けられる。
企業は、起業家の手元を離れた途端に腐り始める。期限付きの職務という構造により、一旦職務が変われば、根深いリスクが顕在してきても「もう私には関係のない問題だ」と言えるようになる。
まとめ
ここまでが、大まかな第1部の内容の解釈になります。
筆者の意図を汲み取りきれてはいないと思うので、この内容をみて気になった方は是非ご自身で「身銭を切れ」を読んでみてください。
僕も、まだ第2部以降の内容を読めてはいないので、時間をかけて、少しずつ咀嚼していけたらなと思います!
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!