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【連載小説】 ともだち Chapter1

 何か書きたいと思ってもなかなか手がつけられない時…
 やっぱり、カードに頼ります。

「いつ、どこで、何を、どうした」
というカードが12枚ずつありまして、それぞれをランダムに引きます。
そのまま続けても文章になります。

 大抵の場合、あまり自分では思いつかなかった設定が提示されます。

今回は、

「クラクションで起こされた日に、308号室で、陶器の人形を、素知らぬ顔でポケットにしまいました。」

結構、攻めた匂いを感じさせる内容です。

それを踏まえつつ…
でも、これも短編というわけにはいかず…
(一章で約11,500文字です。長編になりそうです。お時間ある時によろしければ…是非…)

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ともだち


 けたたましく鳴り続けるクラクションで起こされた。それよりも前の記憶がないということはそういうことだろう。

 クラクションの音は一つだが、押し続けられているようで途切れることなく鳴り響いていた。

 最初は遠くに聞こえていたそれが次第に明確になるにつれ、誰かの話し声が聞こえてくる。しかし何が話されているのか、耳から入る音の羅列に意味が聴こえるようになるまでには更に時間を要した。

「おい、こっちの人は息があるぞ!」

 言葉の意味が理解できたと同時に、体験したことがないほどの全身の激痛で、男は今まで漏らしたことがないほどのうめき声をあげた。そして、激しい痛みに耐えられず、再び意識が遠のいていくのだった。



 どれだけ時がたったのだろうか。次に聞こえたのは、静かな電子音だった。規則正しく打つそれにしばらく耳を傾けるうち、自分の呼吸音らしきものが聞こえることに気づいた。静寂では無い。機械的な静かな動作音が空気を細かく揺らしていた。人の気配は近くにないようだ。

 何が起きたのか、記憶が定かでは無い。最後の記憶はクラクションと激痛だった。クラクションの音は別として、自分にあんなに痛覚があるなど想像したことも無いほどの、全身の痛みだった。激痛という意味を初めて知ったといってもいい。

 物心ついた時から、右足と右腕を自由自在に動かすことは難しく、筋肉の萎縮と関節の硬直で手や足が変形していた。

 右半身は触覚も鈍かった。母親が焼いていたクッキーの乗っていた焼けた鉄板に麻痺した右腕が触れていた時にだって、皮膚が焼けただれるまで気づけなかったほど、痛覚が遠いはずの体だ。それなのに…

 その時、不意に右手の中指と薬指がピクッと動く感覚があった。いつもは言うことを聞かない指だ。男は、試しに右手で握り拳をそっと作ってみた。

『握れる!?』

 そんなことあるだろうか。今まで感じたことのない感触が右手にあった。少し強く握りしめてみる。手のひらに刺さる爪の先がくすぐったい。

『いや、そんなことはないはずだ。』

 信じることができず、今度はゆっくりと全ての指を広げてみるように意識を集中した。すると、意識したよりもずっと簡単に右掌みぎてのひらが開いた。その時、寝具のサラッとする感触が指先を這うように伝ってくるのを感じた。

 このなんでもない握って開く動作ができるようになるために、どれぐらいの時間を費やしたことか。両親の喜ぶ笑顔を見たくて何ヶ月も努力した。

 それでも、物を軽く握ることができる程度に開閉できるようにしかならなかった。しかし、その時の達成感は15年経った今でも鮮明な記憶として脳裏に焼き付いていた。

 だが、どういうわけか、何度か目を閉じて目が覚めたらいとも簡単に、嘘のようにできるようになっている。しかも、力が入るのだ。

 少しスピードを上げて開閉を繰り返してみたが、難なく動いた。

『嘘だろ?』

 動くのは手のひらだけだろうか。今度は、肘から下を動かしてみようと、力を入れた。しかし、少し腕を上げたところで、右腕全体にビリビリとした痛みが走った。予想外の慣れない痛みに顔を歪め、ゆっくりと元の場所に戻した。だが、動くことは確認ができた。

『聞こえる?』

 突然誰かの声がした。しかし、耳から音が入ったのではなく、頭の中で響くような感覚だった。何が起きているのか、理解が追いつかず、すぐに言葉を返すことができないでいると、『気のせいじゃないよ。』とその声が続いた。

「誰?」
『…狭山…はやて

 知らない名前だった。なぜそんな知らない人間の声が頭の中に響いているのか。

 だが、それ以上に驚いたのは、声が自分の声ではないということだった。今までは口も半分麻痺していたせいで、はっきりと発音できていなかった。それができるようになったのも驚きだったが、それ以上に声自体が違った。自分の声よりも高く、よく響く声だ。

 事態を理解できずにいると、頭の中の声は『…やっぱり』と呟いた。

「どういうこと?」

 混乱しながらもようやく一言発すると、ふと男は気づいた。この声は頭の中の声と同じだ。

『オレも何が起きているのか全くわからないんだ。でも、多分ここは病院。』
「病院?」
『うん…で、多分、ICU…』
「重症ってこと?」
『今は、多分そう…でも、さっきまでは意識不明の重体ってやつかな…』
「なるほど…」
『頭を強く打ってるけど、脳波には問題ないってさ。今朝ここに見回りに来た医者と看護師が話してた。』

 ここまで聞いたところで、男の中にある考えが浮かんだ。ドラマや映画でありそうな設定しか頭に浮かばなかったが、それしか説明がつかない気がした。

「この体…君の…か?」
『話が早いな…オレもそう思うんだ…あんたの声、オレだもんな?』
「…だね…」
『でも、オレには体が動かせないみたいでね。ちょっと、目を開けてみて。』

 言われるままに男は瞼に集中して、ゆっくりと開けてみた。淡いベージュの天井が目に映った。首を左に向けてみる。そこには、よくテレビドラマで見るようなバイタルを示す医療機器が稼働しているのが見えた。モニター上には規則正しい波形が流れるように表示され、同時に静かに電子音を発している。右側に顔を向けると大きなウィンドウ越しに隣の部屋が見えた。おそらくそこは面会の人が訪れる場所で、部屋の作りは男が寝ている部屋とは様子が異なり、ベッドも機器も見えない。

『なるほど、あんたが目を開けるとオレも周囲を見ることができるな…つまり、オレも体の中にいるんだな…』

 その時、突然病室のドアが開き、別の人間の声が今度は耳から飛び込んできた。

「あっ!意識が戻ってる!先生に連絡してください!!」

 指示を出されて一人がすぐに踵を返して、入りかけた部屋を出ていった。残った一人は足早に男の左側に来ると、何やらモニターを確認してから、男に顔を向けた。

「私が見えますか?」

 男は無言で小さく頷いて見せた。それを見ると彼女は顔を輝かせた。

「よかった、意識はしっかりしていそうですね。今先生が来ますから、少し待っていてくださいね。…よくがんばりましたね。」

 男はどう言葉を返していいか分からず考えていると、女性はその様子を察したのか、男の方に優しく手を置いた。

「大丈夫ですよ。私が勝手に話しかけているだけですから。じゃ、普通病棟のお部屋の準備も必要だと思いますから、少し席を外しますね。先生が来るまでもう少しお待ちくださいね。」

 そういうと看護師の女性は足取り軽く病室から出ていった。



 県警の香夜雅かやみやびは邪魔にならないよう、ナースステーションのカウンターから少し離れた位置で、顔馴染みのナースを探すように視線を走らせた

「あ、香夜さん、こんにちは。」

 後ろからかけられた聞きなれた声に、すぐに香夜は笑顔で振り向き、挨拶をした。

「どうです?ICUの男性、意識は戻りましたか?」

 ナースの真部紗枝まなべさえは目元に笑みを浮かべた。今朝意識が戻ったことを伝えると、彼女は手に持っていた書類をナースステーションのカウンターに置いて、代わりに処理をすることを同僚に依頼すると、香夜を308号室へ案内をした。

 308号室は入院を必要とする事件の参考人が入院する際に使われる。状況によってはその場で事情聴取が行われる場合もあることが考慮され、部屋は他の病室からは少し離れた、廊下の一番端に位置していた。

 真部は部屋のドアをノックしてから「すみません、入ります。」と一声かけ、ドアを開けた。

 病室内は、いわゆる個室という特別感は全くなく、4人部屋の一人分にユニットバスがついた程度の小じんまりとした作りだ。

 診察や処置をするのに必要最低限のスペースが確保され、見舞いは想定されていない。背もたれのないパイプ椅子が二つ畳んで置かれていた。

 窓は上部の方だけがほんの少し、換気のために開けられる作りだが、角部屋だけあり、窓は広く、室内は明るかった。

 部屋の真ん中に置かれたベッドの上に男は横たわり、顔を窓の方に向けていた。二人は室内に入ると静かにドアを閉めた。すると、彼はゆっくりと顔だけを二人の方に向け、無表情のまま会釈をするように少しだけ首を動かした。

「先ほど、検温の時にお話しした刑事さんです。気分はどうですか?話はできそうですか?」
「…はい。」

 真部は少し安心した表情をして、二人を交互に見ながら「何かあったら、いつでもお気軽にナースコールをしてください。」と笑顔で言うと速やかに病室から出ていった。

 香夜は自己紹介をしてから、部屋の壁に立てかけてあったパイプ椅子の一つを開くと、安心させるように微笑みながら腰掛けた。

「…大変でしたね。でも、無事に意識が戻って、本当に良かったです。少し真部さんから話を聞いているかもしれませんが、6日前に事故に遭われて、ここに運び込まれました。頭を強く打っているとのことでしたが、幸い大事に至らず、安心しました。」
「…ありがとうございます。」

 すると、香夜は今回の事故について簡潔に説明した。酒気帯び運転でコントロールを失った車が法定スピード三倍の速度で歩道に突っ込み、男ともう一人の男性を跳ねたとのことだった。

 早朝のため目撃者はわずかだったが、通行人の目撃情報や、近隣の防犯カメラ、ドライブレコーダーの映像から、事故の詳細についてはすぐに判明した。事故を起こした車の運転手は、車を乗り捨てて逃げたが、2日後には逮捕されたとのことだった。

 事故に巻き込まれたもう一人の男は即死だった。目撃者の証言によると、亡くなった男性には障害がありカートを押して歩いていたが、その事故が起きる少し前に転倒したという。そこを通りかかった男性が手伝うために駆け寄り、助け起こしたところを車が突っ込んだとのことだった。しかし、車が二人に迫った瞬間、障害を持った男性がもう一方の男性を壁側に向かって突き飛ばし、その男性は一命を取り留めたということだった。

「以上が経緯です。」

 香夜は一瞬目を伏せ、静かに言葉を選びながら続けた。

「そしてですね、犯人も逮捕され、事件としては解決していますが、調書作成のためにお話が聞きたくて、意識の回復を待っていました。」

 亡くなった障害を持った男性とは自分のことだろう。その男性はすぐに身元がわかり、葬儀は2日前に執り行われたという。この話が事実ならば、自分の体はもうこの世にはないということなのだろう。

 男は言葉なく天井を見つめたまま、相槌を打つことも忘れて香夜の話を頭の中で整理しようと必死だった。夢と現実の間を彷徨うというのはこういうことを言うのだろうか。どこまでが現実で、どこからが幻なのだろう。この目に映る光景は幻なのだろうか。いや、仮にこの病院にいること自体が幻ならば、この刑事の話も幻と言えるのかもしれない。

 考えれば考えるほど深みに入るようだった。それはまるで、合わせ鏡の間に立った時に見える無限回廊の中に放り込まれたようで、男の頭の中は混迷を極めた。

 だが、自分はベッドに横たわっているこの見ず知らずの男性の体を動かすことができる。とにかく、死んでいる実感は全くと言っていいほどなかった。ショックもなく、涙も出なかった。

 何が起こったのか頭の中で整理ができず、目の前に提示されたものの実態もつかめず、男は宙に浮いてしまっているような感覚を覚えた。全身の感覚が遠のくようにも感じられた。

 だが、一つだけ輪郭がぼやけながらもはっきりしてきたのは、あの日の出来事だ。事故の経緯を聞いたことで、何が起きたのか朧げであるが記憶が蘇った。立ち上がるために手を貸してくれた男性に感謝を述べたとき、猛スピードで近づく車に気付いた。手を差し伸べてくれた男性に何かあってはいけないと、必死に壁側に、全身の力を込めて突き飛ばした。

 麻痺して感覚が鈍く、硬直している右腕を持ち上げて右手を相手の胸元にあてがって、踏ん張りのきく左足で思い切り踏ん張って、勢いをつけ全身の体重をかけて彼を押し飛ばしたのだ。自分にあんな力があったなんて想像したこともないほど、相手の体がラガーマンにタックルされたかのように飛ばされていった。人を突き飛ばしたのはあれが初めてだった。

 ただその後、彼が壁に激突したと目撃者は言ったようだが、その様子を目にした記憶はなかった。なぜ、その記憶が欠けているのだろうか。香夜の話が急に現実味を帯びた気がした。

『…まさか、あの瞬間に…僕は…死んだのか?』

 急に背筋に寒さを感じた。

「あの、大丈夫ですか?」

 男の表情のわずかな変化に気づき、香夜は心配そうに彼の顔を覗き込んだ。彼女の仕草に彼は我に返って、ゆっくりと彼女の方に顔を向けた。彼の表情が大きく変わったことはなかったが、男が香夜の方に顔を向けたのは、彼女が話し始めてから初めてだった。

「…すみません…突然…事故の時のことを思い出してしまって…。」

 ゆっくりとだが、はっきりとした彼の言葉を耳にして香夜は安堵し、微笑んだ。初めて会話が成立したことも嬉しかった。

「いえ、すみません。私も機械みたいに一方的にたくさん話をしてしまって。お伝えすることが多いと、とにかく伝え切らなくちゃみたいになってしまってよく相棒に怒られます。要点だけ言えって言われるんですが、どうしても長々となってしまうこともあって、わかりづらいことを言っていたらいつでも話を止めてもらって構わないので、お気軽に…」
「…」
「…って、あれ…なんかすみません。またどうでもいい余計なことを言ってしまっているかも…」
「…いえ、そんな…」

 香夜は申し訳なさそうに笑うと、話を本題に戻して続けた。

「えーとですね。あなたは荷物を持っていなかったようなのです。防犯カメラの映像を追いましたが、あなたが荷物を持っていた様子は見えなくて。間違いないですか?」
「…えと…」

 男は困った。この体の持ち主、狭山の所持品にまで注意を払っていなかった。彼が何を持っていたかなど、全くわからなかった。すると、頭の中に声が響いた。

『覚えていないって言って。』

 彼がどうしてそんなことを言うのかわからなかったが、とりあえず、言われた通り、男は香夜に返答した。

「…そうですか。頭を強打しているので、無理もないかもしれません。形式上、必要な質問をしているだけなので、気にしないでください。無理に思い出そうとせず、ゆっくりでいいですよ…」

 そこまで話したところで、香夜は突然何かを思い出したように「あっ」と言って少し目を見開いた。

「そういえば、あなたの名前をまだ聞いていませんでした。何も身元を確認できるものをお持ちでなかったので…お名前教えてもらえますか?」

 名前だけならわかる。意識が戻った時に会話した際、この体の持ち主と思われる頭の中の人物は「狭山颯さやまはやて」と名乗っていた。おそらくそれを伝えれば、顔に一致する名前のはずだ。

 男はそれを伝えようと「さ…」と言いかけると、すかさず頭の中の狭山は『言わないで!』と男を止めた。なぜそんな事を言うのだろう。しかも相手の香夜刑事はとても人が良さそうな人間だ。そんな人に嘘をつくのは考えただけでも良心が痛んだ。だが、名前を言わないでほしいという狭山には何かそれ相応の理由があるのだろう。それに、狭山も悪い人間ではなさそうだ。

 男は自分自身を納得させるため、香夜よりも狭山との付き合いの方が数時間長いと、自らに言い聞かせた。更には、体を貸してくれている狭山の方が親しいとも言えるだろう。『嘘をつくのが得意』とはお世辞にも言えない性格だが、男は意を決して口を開いた。

「…さぁ…名前も…」

 男の発言に、香夜は申し訳なさそうに眉を寄せた。

「…そうですか。すみません、無理させるようなことをさせてしまって。」
「いえ、僕こそすみません。何も言えなくて…」

 申し訳なさそうにしている男に対して、安心させるように香夜は優しく微笑みながら頷いて見せた。

「気にしないでください。大丈夫です。記憶が戻ったら教えてくださいね。じゃ、今日はこれで帰ります。」
「…はい」
「あなたの身元を確認するために、失踪者データベースをあたってみているので、もしも何かわかったらすぐにお伝えしますね。」
「ありがとう…」
「あと、もしも、何か思い出せたら、真部さんに言ってもらえれば、私のところに連絡が入ると思うので、よろしくお願いします。」
「はい…」

 香夜は少しの間天井に目を向け、伝えなくてはならないことを一通り伝え切ったことを自分の頭の中で確認すると、満足げに頷いた。そして、立ち上がり椅子を折りたたんで元の位置に戻すと、ドアを開けた。

「では、またきます。今度はもう少しゆっくりお話しできる時間を作ってきますね。」

 香夜はにこやかにそう言うと、病室を後にした。ドアが閉まり切るまで、男は視線で香夜を見送った。


 香夜の足音が去っていくことを確認すると、男は体の中の人物に語りかけた。

「ねぇ、なんで名前を言いたくないの?」
『安全のため。』
「…」

 何かとんでもないことに巻き込まれたのではないか。大きな犯罪を狭山が犯していたらどうしよう。男は急に不安になった。

 今、中身は別人だが表面上は狭山なのだ。病院を出たあと、何かあったらどう対処したらいいのだろうか。狭山が実は裏社会の人間だったということだってあり得るだろう。

『ねぇ…』

 そうなったら、この先、ビクビクしながら残りの人生を送らなくてはならなくなり、安寧の地はなくなるのではないか。

『…ちょっと!…オレの話聞いて!』

 男は、香夜に狭山の名前を教えなかったことを後悔した。教えていたら、警察がなんとかしてくれたかもしれない。

『だから!』

 しかし、中身は別人ですと言っても信じてもらえる可能性の方が低いだろう。この先どうしたらいいのだろうか。男は混乱し始めた。

『だから…聞けよ!』

 少し前から心拍数や呼吸から男が良からぬ想像をしていることを察した狭山は必死に男に話しかけていたが、どうやらパニック真っ最中の男に狭山の声は届かない様子だった。

 今の狭山の立場では、肩を叩くこともできなければ、目の前に飛び出して手を振って意識をこちらに向けさせることもできない。彼は男が気づくまで思い切り大きな声で語りかけた。

 男は忌々しげな表情をしながら、ベッドの横に置いてあった鏡を見た。そこには自分ではない別人の男の顔が映し出されていた。確かに男の顔には見覚えがある。あの時、路上で手を差し伸べてくれた男だった。しかし親切だった男は、実はとんでもないことをしている人間なのだ。男は大きなため息をついた。

「あれ?」

 男は奇妙なことに気づいた。鏡の中に写っている男の表情が動かないのだ。ため息をついたのに、表情が微動だにせず、こちらを真剣に真面目な表情で見ている。

 男は顔を顰めて見た。だが、鏡の中の顔は顰めっ面にはならず、ただ真剣な眼差しを男に向けていた。不思議に思っていると、急に鏡の中の表情が明るくなった。

『あれ?もしかして、オレとあんた今、顔を見合わせてる?』

 頭の中の声に男は我に返った。確かにそうだ。つい今し方、不可解な表情をしていたはずなのに、鏡の中の顔の表情にも動きはあったものの、むしろ明るい表情になっていた。あくまで表情だけが違うという感じで、横たわっている姿も、顔の向きも変わることはないようだ。

「確かに、君のいうとおり、僕ら顔を合わせている…よね…?」
『よかったぁ。これだと少しはコミュニケーション取れてるっぽいやりとりになる。』

 ほっとした表情をしたのも束の間。狭山は突如真面目な顔をして男を見つめた。

『あんたをこんなことに巻き込んじゃってごめん。』

 深刻な狭山の表情に、男は絶望を含んだ愕然とした表情で狭山を見た。今まで、裏の社会とは全く関係のない世界で生きてきた。体は不自由な部分もあったが、温かい両親に見守られ、支援学校生活も優しく明るい先生たちに囲まれて、希望と刺激に溢れた楽しい毎日を過ごしてきた。成人してからは作業所での仕事を紹介され、慎ましくではあるが、毎日充実した生活に恵まれ、穏やかな日常を過ごしていた。それなのに、その生活はいともあっさりと簡単に終わりを告げ、自由に動ける体が手に入ったと思ったら、面倒に巻き込まれるとは。男は自分の運命を呪った。

『ククククク』

 突然の狭山の笑い声が頭の中で響いた。それは悪魔の笑いにも聞こえた。

『冗談だよ!何考えているか知らないけど、多分、あんたが考えているようなことにはなってないから心配しなくても大丈夫だと思うよ。』

 男は少しムッとした表情をして見せて「なんだ、冗談か。驚かさないでよ。」と言ってから、真面目な顔に戻って鏡を見た。

「僕がビビってたってわかるの?」
『表情豊かだからね。わかりやすい。』

 表情豊か。それは今まで男が言われたことのない言葉だった。右半分が麻痺した顔では、相手が読み取りやすい表情をすることは難しかった。

『あ、今はオレが邪魔であんたの表情、自分で確認できないか…ごめん。』
「いや、そんなのいいよ…あんまり実感もないし…」

 狭山はよく気づく男だ。人の心情にもよく気づくし、男が麻痺した状況だったということもよく考慮している様子だった。気遣いがあり、洞察力もあって親切な男がなぜ。男が考え始めた様子が分かったようで、狭山の笑い声が再び頭の中に響いた。

『だからぁ。考えすぎだって。どれだけ想像してるかわかんないけど、とにかく、オレは法に触れるようなことはしてないからそれだけは心配ないよ。』
「…そうなの?」
『ああ。』
「命を狙われてたりは?」

 直後『はははは!』と明るく軽い笑い声が頭の中いっぱいに響いてから、狭山は優しい声で男を安心させるように『ないよ。』と答えた。

 心の中の緊張が一気にほぐれ、男は安堵の吐息を漏らしながら、考えすぎる悪い癖が出たと照れ笑いを浮かべた。

「じゃ、改めて。聞いていい?なんで、名前を言いたくないの…?」

 頭の中は先ほどの明るい笑い声が満たされていた時とは打って変わって、シンと静まり返った。突然、狭山が姿を消したのではないかとすら思えるほど、気配が感じられなくなった。

 鏡には、心配そうにしている表情が映っていた。今の自分の表情と連動しているように見え「あれ?」と言葉を漏らすと、鏡の中に映し出された像の口元が言葉通りに動いた。やはり、鏡に見えているのは、自分の表情だ。男は確信した。

「狭山君?」

 男の呼びかけに、「あ、ごめん。」と小さな声が頭の中で答えた。しかし、鏡に映し出されているのは男の表情のままで、先ほどのように狭山の存在を見ることはできなかった。明らかに狭山の様子がおかしかった。あまりこの話はしない方がいいのかもしれない。

「…わかった。じゃ、話せるようになったらでいいよ。命が狙われているんじゃないならね。」
『…クククク…それはないね…』

 先ほどよりもずっと弱々しくではあったが、笑い声と共に、男を安心させる言葉が頭に響いた。この言葉に男はとりあえず、安堵した。二人の間に沈黙が訪れた。

 男の頭にふとぼんやりとした不安が浮かび上がった。体の節々は痛い部分もあるのだが、体の状態はいたって順調というのは、素人から見ても明らかだった。この分であれば、一週間もすれば退院できるだろう。普通なら喜ばしいことだが、状況が状況だけに、手放しに喜ぶわけにもいかなかった。

 退院後、行く場所がないのだ。自分の体はとっくに火葬され、四十九日を迎えれば、先祖代々の墓の中に納められるのだろう。この体で実家に行ったところで、誰だと言われるだけだ。例え信じてもらえたとしても、体は別人だ。それに、どう見ても狭山は自分よりも若い。おそらく未成年だろう。自分の両親のもとで生前と同じように生活することはほぼ無理だ。

 それに、狭山を知っている人間がどこにいるのかもわからない。突然、道で話しかけられても、満足に対応できる自信は全くなかった。未成年ならば路上で補導されることもあるだろう。

 命の危険や法に触れるようなことがないとはいえ、身元を明かしたくないということは、それなりに普通の状態にはないことが容易に想像できる。一番考えられるのは家出だが、家出だとすればそれなりの理由があるだろう。無闇に警察に駆け込むのも狭山が気の毒に思えた。

 ここは今後の方向性を決めて行動する必要がある。狭山の体である以上、二人でちゃんと話し合って今後について決めるべきだろう。

「ねえ、狭山君。」

 返事がなかった。気配も感じない気がしたが、おそらく聞いているだろうとみなし、男は続けた。

「あと数日もすれば退院することになるよね。でも、わかると思うけど、僕は自分の両親の元に戻ることが出来ない。姿形が違うし、こんな非科学的な現象、信じてくれる人なんてそんなにいないと思うんだ。」
「…」

 どうしたら彼が心を開いてくれるだろうか。このまま話をしていても埒があかない気がした。男はゆっくりと体を起こした。このままではいけない気がした。上半身を起こしただけでも、背中と頭に痛みが走った。しかし、動きが止まるほどの痛みではない。腕や膝の関節にも少しガクガクとした感覚があったが、これは、六日間寝たままだったせいだろうと男は解釈した。

『どうしたの?』

 突然の男の行動に驚いた様子で、頭の中に小さく声が響いた。しかし、その声に応えることなく、無言のまま男はゆっくりと体を滑らせて足をブランケットの外に出してベッドの横に下ろすと、足を床についた。

『大丈夫?トイレ?』

 やはり狭山は面倒見のいい性格らしい。知られたくない、話しづらいことがあって黙っていたのに、こちらが危なかしい行動を取ると気にかけている様子がうかがえる。

 看護師の真部の話では、着ていた洋服はクローゼットの中。貴重品はベッド横のチェストの引き出しの中に入っていると言っていた。身元が確認できなかったことから、長期戦も見越して、着ていた服をクリーニングしてあると言っていた。

 男はゆっくりと立ち上がり、少し足を引きずり気味にクローゼットまで歩いて行くと、入れられていた服を身につけた。痛みは多少あれど、自由に動く右半身のおかげで、以前とは比べ物にならないぐらい簡単に洋服を着ることができた。ジーンズのチャック、ボタンひとつかけるに至るまで、男にとってはほんの些細な動作全てが大きな驚きだった。

 その後、ベッドの方に戻ると、チェストの引き出しを開けた。そこには、香夜刑事の話の通り、身分証明書やカードなどが一切入っていない、現金のみの財布が一つと、フクロウの形をした陶器の人形が一つ入っていた。男はまず財布に手をかけて、それをジーンズの後ろポケットに入れると、フクロウの陶器の人形に手をかけた。

『あ、ねぇ、それはオレのじゃないよ。』

 しかし、男は狭山の言葉に答えることなく、素知らぬ顔をしてその陶器の人形をパーカーのポケットにしまい込んだ。そして、様子を伺うようにしながら、そーっとドアを開けた。廊下には誰も立っていなかった。

 事件も解決しているし、重要参考人ではない男を監視する人間はいなかった。斜め前に顔を向けると、非常階段の扉があった。病室の扉をさらに開けて体が通れるぐらいの幅まで開けると、男は静かに部屋から出て扉を閉めた。そして非常階段の扉に手をかけてみた。しかし、そこは電子錠で施錠されているようだった。だが、廊下の少し先の方を見ると、ナースステーション前のエレベーターよりも少し手前の壁側に内階段がある様子が見えた。男はパーカーを頭にかぶると両手をジーンズのポケットに入れて、痛さを感じさせないような余裕の歩き方をしながら足早に階段目指して歩いた。

 一分もせずに階段の入り口に到達すると、すぐに階段を駆け降りて行った。病室は三階だったことから、すぐに地上階に到着した。階段から出ると、そこは会計カウンター前の待合エリアだった。

 男は颯爽とした歩き方でその横を通り過ぎると、向かいに広がる光溢れる大きな自動ドアの方に歩いて行った。

 ドアが左右へ滑らかに開くと、男は躊躇うことなく外に一歩踏み出した。そして、陽の光の元、一つ大きく両手を上げて伸びをすると、ゆっくりと秋の日差しの中へ進んでいった。


Chapter2 はこちらです。


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