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【連載小説】 ともだち Chapter3

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 花束がいくつも置かれているところに一人の女性がしゃがんだ。そして、手に持っていた花束をそっとそこに添え、目を瞑り手を合わせた。彼女の姿を目にした加賀は目を見開いた。そして、ゆっくりとその人物に近づき、横までいくと同じようにしゃがんだ。

「先生?」

 加賀は静かに声をかけた。女性は彼が小学六年生の時の担任教師だった。彼女は顔を上げ、少し驚いた表情をして彼を見た。彼女の瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。

「すみません…どちら様ですか?…あ、ごめんなさい、涙が…」

 彼女はポケットからハンカチを出すと、静かに左右の目を交互に押さえた…

「教え子がここで亡くなったもので…」

無理もない。今、加賀は綾人の姿をしているのだ。懐かしさからうっかり声をかけてしまったことを加賀は後悔した。

「あ、すみません。突然、声をかけて…えと…僕は暁人の友達で…狭山綾人といいます。」

 すると、その女性は驚いたような表情をしながら、目を輝かせて彼を見た。

「暁人くんのお友達…作業所の方ですか?」
「いえ、僕は、高一で…仕事はまだしたことが…」
「じゃ、ボランティアの方ですか?」
「いえ…違います…」
「ご親戚とか?」
「…いえ…」

 すると、みるみるうちに彼女の目にはまた涙が滲み出た。彼女は慌ててハンカチで目を押さえた。

「すみません、涙腺決壊しちゃって。」
「いえ…」
「すごい!暁人くん、すごいです!あなたもすごいです…ありがとう。あ、申し遅れました。私、山口彩といいます。」

 『彩?』頭の中で綾人の声がした。「そう」と小さな声で囁いて、加賀は微笑んだ。加賀は綾人の存在がありがたかった。もしも彼がいなかったら、とっくに加賀も涙腺が崩壊していたことだろう。

 何年も会っていなかったが、山口先生は昔と全然変わらない雰囲気だった。加賀のクラスの担任だった時には、エネルギッシュで感受性が豊かで子供の成長を毎日明るく温かく見守ってくれていた。卒業する時にも保護者よりも涙で顔を濡らして「みんな頑張りました。」と言ってくれた姿が今でも鮮明に加賀の脳裏に焼き付いていた。

「暁人くんの望みは…叶っていたんですね…」と言いながら彼女は再び涙を拭いた。加賀は逆に何の話かわからなかった。何か望みなどあったろうか。加賀は怪訝な表情で彼女を見た。

「望み?」
「そうなんです。もちろん、障害に理解を示して支援してくださる方々に、あの子はとても感謝をしていました。皆さんと一緒に活動することに精力的に取り組んで、楽しんでいました。仲間内ではたくさんの人に愛されていました…けど、彼は新しい友人や、より多くの人たちと交流することを望んでいました。彼は前向きなお子さんでしたけど、こればかりは一人ではどうにもなりません。あなたの歩み寄りに感謝です。本当にありがとう。」

 加賀の頬を涙が伝った。自分でも忘れていたような望みを覚えていてくれた先生の言葉に、綾人の存在を意識しても涙を抑えることができなかった。いや、綾人の存在を意識したから余計に涙が出たのかもしない。

「あ、どうぞ。」

 山口先生はそういうと、ポケットティッシュを出して、一枚取り出し、加賀に差し出した。礼を言って彼はティッシュを受け取った。このやりとりは昔と何も変わらない。しかし、彼女の目に映っている人物は加賀ではなく、狭山綾人の姿なのだ。加賀は目頭をティッシュで覆った。

 その時、聞き慣れた声が背後から聞こえた。

「暁人いたー!」

 加賀は反射的に振り返った。そこに立っていたのは、同級生の康太だった。彼は比較的近所に住んでいて、同じ作業所で就業していた。「山口先生もいるー」そう言いながら彼は嬉しそうに小走りで二人の元に駆け寄ってきた。康太は加賀の目の前に立った。

「暁人、はい、これ…フクロウの…落ちてた」

 康太はキーホルダーの金具部分を加賀に差し出した。加賀は驚いて目を丸くして、「ありがとう」と言いながらそれを受け取った。確かに、その金具は加賀が大切にしていた陶器のフクロウについていた金具だった。この金具が落ちているかもしれないと、今日この場所に来たのだ。

 そのすぐ後ろから母親が息を切らしながら近づいてきた。

「もー、こうちゃん速いから…すみません、突然話しかけて…暁人くんは仲が良かったお友達で、先週ここで突然亡くなってしまって…康太はちょっと気が動転してしまっているようで…」

 彼の母親とも知り合いだったが、彼女の方は加賀に気づかない様子だった。

 もしかしたら、康太が気づいたように見えただけで、気のせいだったのかもしれない。加賀がそう思っていると「暁人だよ…ね、暁人?」と言って、加賀の顔を康太が覗き込んだ。

 一瞬迷った。肯定したところで、他の二人には信じてもらえる可能性は低いだろうし、場合によっては頭がおかしいと思われるかもしれない。しかし、気づいてくれた康太にはありがたかったし、嬉しかった。『間違っていない』と彼に伝えたい気持ちの方が加賀の中では勝っていた。

「うん、そうだよ。」
「ほら!やっぱりそうだ!おかえり、暁人!」

 そう言って、康太は満面の笑顔でぴょんぴょんと跳ねて嬉しさを表現した。山口先生と康太の母親は驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。

「康太は知的障害がある自閉症なんです…突然、現実から離れたことを言うことがあるんです…事故で亡くなった人と間違われて驚いたでしょう?」
「あ、いえ…」
「この子の気持ちを大切にしてくれてありがとう…」
「本当、若いのにすごいよ!私からもお礼を言います。ありがとう。」

 山口先生も満面の優しい笑みを加賀に向けた。「とんでもない。」と言いながら、加賀は居心地の悪さを感じた。

 康太に対する加賀の言動については、何も特別なことはない。姿が変わっていても、自分に康太が気づいてくれたことが嬉しかった。ただそれだけのことであって、彼の見立てに間違いがないことを伝えたくてそうしたに過ぎない。しかし、他の人の目には違うように見えているのだろう。少し状況は違うが、竜宮城から帰った浦島太郎の寂しさは、こんな感じだったのかも知れない。

 加賀は立ち上がった。そして、三人に顔を向けると、簡単に挨拶をしてその場を離れた。行くあてはなかった。これからどうしたら良いのかもわからなかった。ただ、自分はいるのに、もういない。それだけははっきりしていた。

『康太くんだけはわかったね。不思議』
「ああ、こうちゃんは、昔から『見える』って噂はあったんだ…」
「?」
「突然、誰もいない部屋の隅の方を見て、誰かと話をするように頷いたり、外を散歩している時に、突然、何もない空間を見て怯え出したり…墓地には一歩も踏み入れないとか…そう言うエピソードが多くて…」
『へぇー、じゃあ、本当に見えてたってことか…』
「多分ね…」

 加賀の元気がないのが綾人は気がかりだった。綾人の問いかけには答えるが、綾人の名前を決めた時のような生き生きした感じはなくなっていた。

 その時、タイミングよく、“グゥゥ”とお腹が鳴る音がした。病院で出された昼ごはんは少し早めだった上に量も少なかった。育ち盛りの十六歳の体には全然足りなかったのだろう。とにかく、話題を切り替えるきっかけができて、綾人は嬉しくなった。

『お腹鳴ったよね?お腹空いてる?』
「あ、ああ、うん…」
『オレの金、使っていいよ。』
「え?でも、悪いよ。」
『気にすんなよ!オレの体だし。まぁ、今のオレには空腹感ないけど…とにかく、オレの体のためにも食べてやってよ。なんでもいいから暁人の好きなもの食べな!』

 加賀の落ち込んだ気持ちを一生懸命鼓舞しようとしている綾人の姿勢を感じて、加賀は口元に笑みを浮かべた。一緒にいるのが綾人で良かった。ふとそう思えた。

 綾人の気遣いに甘えることにして、暁人は一人で行ってみたかった店に向かって歩き始めた。


「えええーっ!もっと良いもん食えば?」

 綾人は驚きの声を上げた。手元にある現金を全て持ってきているのだ。とはいえ、夜行バスで使っていたので、残金は8,600円になってしまってはいたが、ファストフードでなくても良いはずだ。

『ファミレスでドリンクバーとアイスつけるくらいまでなら、大丈夫じゃね?』
「綾人がバイトで貯めたお金なんでしょ?空腹だけなんとかなったらそれでいいよ。」
『複雑…だって、オレの体だぜ…もうちょっと豪遊させてやっても…』
「ははは。じゃ、綾人が自分で体を動かせるようになったらそうしなよ。」
『オレは…ここのままでもいいや…』
「え?」
『いや、なんでもない。本当にここでいいなら早く入ろう!空腹はすぐ満たしたほうがいいよ。』

 加賀は綾人に言われるまま、少しワクワクしながら自動ドアの前にたった。言葉をうまく発することができず、体が不自由だったため、カウンターでスピーディーに注文することが難しかったこともあり、人目を気にして一人で店を訪れることを敬遠していた。食べることよりも、加賀は一人でカウンターで注文したかった。

 数分後、チーズバーガーのセットが入った紙袋を手にして加賀は店を後にした。

『せっかくだから席で食べたら良かったのに。』
「店内じゃ、綾人と話しながら食事できないだろ。店内でぶつぶつ言っていたら不審者だと思われるし…」

 頭いっぱいに綾人の明るい笑い声が響いた。

『確かに!店内じゃ無理だね。オレも暁人に話しかけないとか、無理だし。でも、どこで食べるの?』
「この近くに大きな公園があるからそこで食べようか。」
『おう!そうしよう!』

 すぐに大きな芝生がある公園に到着した。遊具がいくつかあったが、子供の姿はなく、ランチタイムが終わってしばらく経った、午後の就業真っ只中といった時間帯ということもあり、他の人は誰一人見えなかった。周囲は静けさに包まれ、時折吹く優しい風が、秋の深まりを見せる木々の葉を揺らし、乾いた音を奏でた。

 加賀は設置された椅子とテーブルに腰を下ろして、早速食事を始めた。綾人が自分の体を動かせない状態だから仕方のないことではあるのだが、加賀は少し申し訳ない気持ちでチーズバーガーを頬張った。

 味はいつも通りなのに、誰かに買ってきてもらった時とは味が違うように感じて、加賀は目を丸くしてバーガーを見た。

「うまい!」
『ほんと?ファストフードだよ?』
「でも、すっごくうまい。あ、きっと、綾人が働いて稼いだお金だから余計うまいのかな。」
『ははは』

 嬉しそうな笑い声で頭の中が満たされた。加賀が食べても綾人は味を感じられないのだが、何故か綾人自身も美味しいものを食べているような感覚になっていた。少しの間二人の会話が途切れ、咀嚼音だけがしていた。

『あのさ、オレ…このままでもいいかも…』

 突然の思いがけない綾人の言葉に驚いた加賀は、飲み込む場所を間違えて、むせ返った。ひとしきり咳き込んだ後、飲み物で喉を整えてようやく口を開いた。

「何を言い出すかと思えば…驚かすなよ…」
『楽しいから…』
「まぁ、僕も楽しいけど、流石にこのままだと色々問題あるだろう…」
『うん…』

 この会話ですっかり二人の会話は途切れた。綾人の様子が明らかにおかしくなったのが心配になり、加賀は残りのポテトとバンズの端きれを全て同時に口に詰め込み、飲み物で流し込んだ。

「よし!綾人の体を満喫するぞ!」

 食べ終わった紙袋をゴミ箱に投げ入れると、大きく伸びをしながら公園に設置されている遊具に歩み寄った。鉄棒に雲梯、ジャングルジムなど、よく公園で見かけるような遊具のほかに、ターザンロープや少し長めのローラー滑り台があった。

「全部やろう!」
『…え?全部?オレ十六だよ。』
「僕は一個もやったことないから、できるうちにやらなきゃ損…」
『…できるうちって…ずっとやっていいよ…』

 綾人の発言に対して何も言葉を返すことなく、加賀は突然雲梯にぶら下がった。

「やり方教えて!」
『しょうがないな…ええとね、体を振って…』

 それからしばらくの間『ったく、とんでもねぇ十六歳だな』と文句を言いながらもなんだかんだ綾人は懇切丁寧に加賀に遊具の遊び方を教えた。

 最後に加賀はジャングルジムに登った。どの遊具も初めての経験だったが、ジャングルジムは一足登るごとに高さが変わる。彼は一段登るごとに心が弾む感覚を覚えた。

 最後、自分の頭よりも高い位置まで到達すると、気持ちよさそうに二本足で立ち上がり、両手の拳を空に掲げた。

『マジかよ…恥ずかしくないの?』
「全然…だって、初めて自分の力で登ったんだよ?達成感しかない。綾人は恥ずかしいの?」

 そう言うともう一度,高らかと腕を掲げてみせた。

『だ、だからぁ…やめろよ…自分の体がやってると思うと…めっちゃ恥ずかしい…』
「わかったわかった。ごめんごめん…」

 そういうと、一番上の棒に腰を下ろし、気持ちよさそうに上を向いて目を閉じ、風を感じた。はしゃいで遊具で遊んだ後の火照った頬に、ひんやりとした秋の風が心地いい。

「気持ちいいな…」

 体温の上がった体から吐き出される息が少しだけ白くなって口から紡ぎだされては空に溶けた。経験したことがない多くの刺激を受け、心が満たされているのを加賀は感じていた。体を動かすことがこんなに気持ちのいいことだと今まで知らなかった。

 汗ばんできたため、少し涼を取ろうと加賀はパーカーの袖を肘まで捲り上げた。そして、今までの癖で左手で右腕の小指の付け根から肘までの間を摩った。

「?」

 意外なことに気づいた。今までここを摩ると、必ず凸凹とした手触りがあった。それは、ひどい火傷の痕だったり、転倒してバラ線に引っかかり,深く切ってしまったのを縫い合わせた時の傷痕だった。

 綾人の体に入っている今、体が変わっていることを考えれば,当然のことながらその手触りはないはずだ。しかし、指にポコポコとした傷痕を思わせる感触が伝わった。もう一度加賀は腕をゆっくりと摩って確かめた。やはり、傷痕のようなものが指に触れる。

「綾人にも傷があるの?」
『え?』
「僕にも右腕のここに傷があるんだ。」
『…そうなの?』
「お母さんがクッキー焼いていた時に、焼けた鉄板に腕が触れてるの気づかなくて、大火傷したんだ…麻痺してる方は感覚鈍くて、痛み感じにくかったから…で、ケロイド状になっちゃって、皮膚を移植する手術も受けたんだ…それでも怪我する前みたいには戻らなくて、傷跡が残っていたんだけど…体が変わっても傷があったから、びっくりした。」
『…』

 綾人の様子がまたおかしくなった。再び二人の間には静寂が訪れた。

 この傷跡に何か彼の秘密が隠されているのかもしれない。加賀はよく確認をするために、腕の外側に目を落とした。途端に加賀は凍りついた。すると、頭の中に『あっ!』と綾人の声が一瞬だけ響いた。そのあとは、声も気配もすっかり消え失せ、重い沈黙が二人の間に立ちこめた。

 加賀は呼吸を整えることを意識しなければ声が震えるほどの衝撃を受けていた。一つ大きく息をついて心を落ち着ける必要があった。

「綾人…これ…何?」
『…』

 言葉が返ってこないことから、おそらく知られたくないことなのだろうと加賀は察した。だが、加賀の瞳に映った凸凹は明らかに不自然すぎた。綾人に何があったのか確認しなければならない気がした。

 その時、病院から外出するために着替えをした時の違和感が頭に蘇った。

 あの時は、とにかく早く病院を出ようとしていたから、あまり意識しなかったのだが、着替えるときに体のあちこちで触れる凸凹が少し気になったのだ。丸い形や細長いものまでいくつかが手に触れた。姿を映す鏡がなかったから確認することなく、そのまま着替えを終わらせて病院を後にし、それっきり忘れていた。しかし、これは絶対におかしい。

 加賀は体の別の場所も確認しようと、もう一方の腕に目を落とし、さらに背筋が寒くなった。右腕の外側のように、左腕にもいくつか刃物でつけられたと思われる痕がついていた。どの傷も切った後適切な外科の処置がされなかったようで、縫ったような様子はなく、傷口が隆起した形で塞がったことが見てとれた。

 パーカーの中に手を入れ、着替えるときに気になっていた、腹や胸を確認するように触れてみた。すると、いくつか丸く隆起している箇所があった。これは、腕にも、こめかみのあたり、首にも数箇所確認できた。

「この丸いのは…火傷のあと?」
『…知ってるの…?』

 綾人はポツリとつぶやいた。その声は小さかったが、加賀は頭の中に彼の受けた苦しみや悲しみが広がっていくのを感じた。これは、タバコの火の痕だと加賀は思った。昔クラスにいた子が、タバコの火で火傷をして学校に来たことがあり、しばらくした後、こんな形の跡になっていたのを記憶していた。

「みたことがある…自分でやったの?」
『…まさか』
「…誰にやられたの?」
『…両親…』

 二人は重たい沈黙に支配された。

 加賀の体にもたくさんの傷跡があった。しかし、加賀の傷のほとんどは、麻痺した右半身を抱えながら挑戦した結果だった。自立した歩行をしたくて、必死にリハビリを自宅でも続けた結果、転倒して額や顎を切ってしまったり、外でも歩く練習をして、転倒して、腕や脛がバラ線に引っかかってしまって皮膚が破れてしまったり。大怪我も何度もしたが、治療を終えた後に残る傷跡は、どれも努力の証のようで、それなりに愛着のある傷だった。

 しかし、同じ傷跡に見えても、綾人の負っている傷は全く意味が異なっているはずだ。しかし、加賀にその本当の重さを理解することは難しかった。どんな言葉もこの傷を表現することはできない気がした。ただ、これがこの後の彼の人生においても、負の烙印のような残り方だけはしていけないと加賀は漠然とそう思った。

『恥ずかしい…こんなもん見られて…穴があったら…入りてぇ…』

 綾人の声はまるで別人だった。腹の底から出ているような声だった。心の奥底に秘めていた本当の彼の声なのかもしれなかった。加賀は静かに優しく、右腕の傷に左手を当てた。本当は、もっと色々聞きたいことがあった。まだ両親の元にいるのか。頼れる大人はいるのか。学校には通っているのか。しかし、どの質問も今すべきものではない。それだけははっきりと加賀にはわかっていた。

 そこからはあまり考えることはなかった。気づくと加賀の体は自然に動いていた。おそらく、今まで自分が精神的に打ちのめされた時、近くにいてくれた人が自分にしてくれたように体が自然に動いた。そう言うことなんだと、加賀は理解した。

 加賀は静かに、自らの体を抱くように両腕を体の前でクロスし、俯いた。

『大丈夫?』

 元気はないが、綾人の声が優しく頭の中に響いた。加賀の様子を見て、体調に異変が起きたのではと心配になったのだ。

「綾人が目の前にいたら、抱きしめたいなぁって。」
『オレは真面目な話をしてるのに…なんだよ急に…不気味なこと言うなよ…』
「恥ずかしがるなよ。今ここにいたらこうやってギュウッって。」

 加賀は更に力を入れて抱きしめてみせた。その様子に『って言うか、もうそれオレの体だし…』と言いかけ、ふと我に帰った綾人は焦ったような声を出した。

『おい、暁人!オレの体でやめろよ!変な人に見えるだろ!恥ずかしくないのかよ!』
「全然、ちっとも!これで綾人が元気になるなら僕はいくらでもやるよ。いや、元気になるまでやる。いくらでも。」
『やばい…この人…』

 そう言って、ほんの少し間があいてから『クククク』と言う声が頭の中に広がった。それは、綾人が諦めたのか、それとも元気になったのか、はっきりしたことはわからなかったが、先ほどまでの悲壮感は薄れた気がして、加賀は少しホッとした。

 しかしその直後、ふと周りに視線を移し、加賀は息を呑み、動きが固まった。少し離れたところにいる数名の大人と子供がこちらを見てヒソヒソと話をしたり、スマホで写真を撮ろうとしているところだった。幸い、フードをかぶって逆光だったから顔までを撮ることは難しいだろう。だが、もうこの公園からは出たほうが良さそうだ。不審者として通報されるのも時間の問題だろう。

 加賀は二段ほどジャングルジムを降りてから飛び降りると、観衆とは反対方向に向かって、足早にその場を後にした。


 香夜は一口残っていたお茶を口に含み、ナプキンで口を拭いた。少し遅めのランチはデザート付きの牛タン定食を堪能して満足だった。

「土井さん、ごちそうさまでした。すっごくおいしかったです。」
「おう、明日も頼んだぞ。じゃ、そろそろ行くか。」
「はい!」

 土井が支払いを済ませるためにレジの列に並んでいると、香夜のスマホが鳴った。香夜はジェスチャーで店の外で電話するので一足先に出ることを告げると、通話ボタンを押して店を後にした。

「香夜さん!大変です。308号室の患者さんが消えました!」

 真部からだった。午後の検温に行ったところ、すっかり姿は消えており、洋服を着替え、所持品を持って出ていったようであることを香夜に伝えた。

「本当にすみません。出ていってしまったことに気づけませんでした。」
「いえ、そんな、こちらこそすみません。ご迷惑をおかけして。これからもう一度そちらに行ってもよろしいですか?」

 香夜が真部との会話を終える頃、会計を済ませが土井が店から出てきた。血相が変わっている彼女を見ると、土井の顔からも先ほどまでのリラックスした表情は消え失せた。

「真部さんからの電話でした。例の男が失踪したようです。でも、ベッドの上に、トイレットペーパーをちぎって『外出』って書いてあったみたいで、病室に戻るつもりがあるんだと思うんですが…」
「妙に律儀なやつだな…」
「そう、ほんと、真面目な感じなんです。筆記用具がなかったので、伝える方法を考えた結果なんでしょうけど…」
「お前が言った通り、言えない何かがあるっていうのは信ぴょう性あるな…よし、じゃ、行こう。」
「はい。」

 二人は駐車場の車に駆け寄り乗り込んだ。すると、今度は土井のスマホが鳴った。土井の話ぶりからどうやら上司からのようだ。数語口にしただけで、彼はすぐに電話を切った。

「今の電話って…」
「主任から。不審者情報がこの辺りから複数上がってるみたいだから,監視強化だと。不審者の服装は黒のパーカーにジーンズらしい…」
「それって,308号室の男かもしれません!」
「やっぱりな…」
「ところで、どう不審なんですか?」
「ぶつぶつ一人で話しながら歩いているようだ。大通りや公園で目撃されている。まぁ,とりあえず,病院だな。」
「はい!」

 車は病院へ急行した。

Chapter4 はこちらです↓


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