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黒猫とリン 第1章

※挿入画像は全て、マイクロソフトのAI画像ジェネレーターで生成しています。
※一人あそびから派生し、思いつきで書き始めたので今後文章の表現などのマイナーチェンジがあります。


出会い

 リンは一ヶ月前、父親の仕事の関係で引っ越してきた。母親はいない。二年前に両親が離婚して以来、母親との連絡は途絶え、一度も会っていなかった。最初は寂しさもあった。しかし、元々いなかったと考えるようになってからは、いくらか心が安定したようだった。

 内向的な性格には年齢を重ねるたびに拍車がかかり、人見知りの性質が強くなっていた。新しい学校に通い始めて20日ほどが経過していたが、新しい学校にもクラスメイトにも馴染めずにいた。

 12歳にもなればクラス内の友達関係はほぼ固まっている。彼らにしてみれば、同級生が一人増えたというだけで、年一桁の時のように、『友達』などと呼べるような関係性ではない。

 もちろん、リンは注目されたいとは思わない。色々気にかけてもらうのも、緊張感が増して落ち着かない気はする。

 しかし、いてもいなくても全く影響がないという状況を目にすることは、彼女の孤独感を一層大きなものにしていた。

 彼女はその日も、ここに引っ越してきてからの日課通り一人で帰路についた。放課後遊ぶ予定を入れているクラスメイトたちの楽しそうな声を背中に聴きながら、校門にただ一人向かう。最初は寂しさで押しつぶされそうだった心も、孤独という環境に少しは慣れたようで、校門を出るまでの気持ちはいくらかマシになったように感じていた。

 しかし、校門を後にするといつも心によぎるのは、義務教育が終わるまであと数年あるということだった。気が遠くなる気持ちを抱えながら、家路を行く足は重かった。

 あの角を曲がって少し行くと住みなれない家だ。誰もいない大きな家で一人で過ごさなくてはならない。父親は出張に行っていて、帰ってくるのは三日後だ。シッターが来ることにはなっていたが、彼女は来ない。

「私、行ったほうがいいかしら?」

 今朝彼女から電話がきた。その声色は無表情で冷たく、形式的にこちらの意向を聞いているだけだった。来る意思など全くない。もちろん、リンは期待通り、断った。

 この地域では十二歳の子供を一人で留守番させていることは違法だ。だが、電話をかけてきたところをリンが断ったことで、違法行為がバレた時には、

「リンが私を強く拒絶したので断念せざるを得なかった。」

 とでも言うつもりなのだろう。彼女はシッターだけではなく、家政婦の役割もある。父親がいる時には、必ずやって来るが、不在の時には毎回このような電話をかけてきて、リンの家に来ることはなかった。父親もそれを気付いていながら、二人の間には何らかの暗黙の了解があるようだった。

 大人はあてにならない。必要な時に助けてくれない。助けるふりして見過ごしたり、「お前のためだ」と言いながら自分の都合で行動する。そんな大人たちの姿をリンは見飽きていたし、考えることにも疲れていた。

「何も感じない、何も考えない」

 最近の彼女はこんな風に、まるで呪文みたいに唱えるようになっていた。

 角を曲がると、リンの足取りはさらに重くなった。だが突然彼女は、何かに引き留められるように足を止めた。背後に気配がしたのだ。

 それは何かに凝視されているような感覚だった。振り返ろうか迷ったが、好奇心には抗えず、彼女は恐る恐る後ろを振り返った。

 リンと同じ目線の高さには誰も見当たらなかった。『気のせいだったのだろうか。』彼女は徐々に視線を下に降ろしていった。すると、地面から20センチぐらいのところでリンの目は止まった。そこには、若草色でキラキラとよく光を反射する瞳が二つ、静かにリンを見上げていた。

『黒猫だ。しかも、何か咥えてる…ネズミ?』リンはもう少しよくみようと目を見開いて、少しだけ子猫に近づき、屈んで、顔を寄せた。子猫の瞳に自分の姿が映るのが見えるくらいまで近づいた。すると猫は、リンを見つめたまま、尻尾だけを一度ハタリと動かした。

「大丈夫だよ。何もしないよ。」

 そう言って、リンは口に咥えられたものを確認するためにもう少しだけ近づいた。そして、彼女は胸を撫で下ろした。幸い、子猫の口の中にいるのは生きたネズミではなかった。ネズミの形をしたぬいぐるみだった。お気に入りでずっと咥えているのか、そのぬいぐるみは『参った』といわんばかりにペシャンコだった。

 黒猫の様子が微笑ましくて、リンは優しく目元に笑みを浮かべた。心からこんなに自然に笑みがこぼれたのは何年振りかというぐらい、久しぶりだった。

「じゃあね。」

 一言そう言うと、リンは立ち上がり向きを変えると、再び家の方向に歩き出した。しかし、数メートル歩いた所で、ふと気付いた。先ほどの気配が後ろにあるのだ。『もしかして、ついてきてる?』リンが振り返ると、例の子猫がリンの真後ろに座って、尻尾をまた一回ハタリと動かしてみせた。

「ついてきちゃダメだよ。家に帰りな。」

 そういって、子猫の首元を見て、彼女は首輪がついていないことに気づいた。『家無しかな?』そう考えた時、100メートルほど先で、保健所の車が道を曲がってこちらに向かってくるのが見えた。このままだと、連れて行かれてしまうかもしれない。リンは子猫に視線を落とし、しゃがむと微笑んでみせた。

「とりあえず、私の家に行こう。保健所の車に捕まったら危ないから。ね?」

 そう一言声をかけると、リンは子猫に静かに手を伸ばした。すると子猫は言葉がわかったかのように、リンの両手に体をよせ、抱きやすいように両前足をリンの両手にかけた。リンは両手の中に丸く柔らかい温もりを感じた。こんな温かさを感じたのは、最後に母親と買い物に行った時に手を繋いで以来だった。

 突然、目頭が熱くなるのを感じ、リンは涙がこぼれないようにすぐに上を向き、子猫を両手で抱き上げながら立ち上がった。平常心を取り戻すために彼女は一度ゆっくりと瞬きしてから子猫を腕の中に抱き、歩き始めた。

 あの家に帰るのに、こんなに足が軽やかなのは初めてだった。先ほどまで冷たく感じていた晩秋の風は、突然澄んで清らかな風に変わった。リンは鼻歌を歌いながら足元はスキップしたいくらいに軽いのを感じていた。

 その足取りはいつの間にか早足になり、やがて小走りになった。しかし、彼女の気持ちの高まりと共に、小走りでは足りなくなり、いつしか彼女は家を目指して駆け出していた。



 家の重たいドアを開けると、リンは無言のまま家に入りドアを閉めて鍵をかけた。暗い廊下に灯りをつけるとリビングに向かった。

 静かにカーペットの上に子猫を置くと、すぐにキッチンに向かい、冷蔵庫を開けて、ミルクをボウルに注ぎ、後ろをついてきた子猫の目の前にそれを置いた。

 黒猫は行儀良く彼女の目の前に座ると、口に咥えていたペシャンコのぬいぐるみを床に置き、小さな舌を出して、ミルクを舐め始めた。

「しっかり飲んでね…猫って、何食べるのかな…キャットフード買わないとね。とりあえず、ミルク飲んだら、後で一緒に買い物行こうか?」

 子猫は返事をしなかったが、家の中に話し相手ができたようで、リンは止まった何かが動き始めたような感覚を覚えていた。

 お行儀良くミルクを飲んでいる子猫を横目に、リンはボウルの横に置かれている潰れたぬいぐるみを手に取った。可哀想なくらいペシャンコでゴワゴワとした手触りで、すぐにでも洗ったほうが良さそうだ。

「汚れていて可哀想だから、この子洗ってもいいかな?」

 そう声をかけると、子猫はミルクを舐めるのをやめて、若草色の瞳をリンに向けると、『いいよ』とでも言うように、ハタリとまた尻尾を一回動かしてみせた。

「ミルク飲んで待っていてね。すぐ洗ってくるからね。」

 そう言ってリンは立ち上がると、向かいにある洗面所に駆け込んだ。

 すぐにお湯を出し、洗剤を入れ、泡立てると、その中にペシャンコネズミを投げ入れた。湯の中で揉むごとに、水は鼠色が増していった。濯ぎまで終えると、リンはネズミを絞って水気を切った。

 そしてすぐ隣にある、引っ越してきて初めてもらった、なかなか馴染めない自分の部屋に入った。干すために窓際に置く前に、仕上げとして逆さまにしてぬいぐるみを振った。すると、ネズミの口から何かがこぼれ落ち、カタンという音を立てて窓枠の上で跳ねた。

「これは…カギ?」

 揉み洗いをしていた時には、固形物が入っているような感触はなかった。どこにこんなものが入っていたんだろう。リンの手のひらぐらいの大きさがある鍵をよく見てみると、四葉のクローバーのモチーフがついたアンティーク風のカギだった。しかし、いわゆる鍵によくある金属製ではなかった。

 素材は天然の水晶だろうか。昔母親が大切に持っていた水晶の腕輪のひんやりとした手触りが突然思い出された。無色透明で冷たくて、光にかざすと氷のような輝きを蓄え、時折七色に光を反射した。

「綺麗。」

 リンはその鍵を光にかざし、見上げて言葉を漏らした。すると、足元でズボンの裾が引っ張られた。リンが下に目を向けると、黒猫が前足の爪にリンのズボンの裾を引っ掛けて引っ張っていた。

 リンは優しく微笑んだ。そして、静かにしゃがむと子猫の前に鍵を出した。

「これはあなたの?」

 そうすると、猫はそれを咥え、さっと走り出した。

「あ、待って!」リンは子猫の後に続いた。子猫はドアの前に立つと、開けろとでも言っているかのように、ドアを前足で掻いて見せた。

「出たいの?家に帰るの?」

 リンは胸の奥がキュッと痛んだ。しかし、ここで開けなかったら、子猫を誘拐したようになってしまう。リンは少し躊躇いながら、ドアを開けた。すると、子猫は夕焼けの秋風の中に飛び出した。

『行っちゃった…』心の中で一人寂しく呟いて、その後ろ姿をリンがドア口で見送っていると、黒猫は家の門の手前で振り返り、リンの様子を確かめると、彼女の元に駆け寄ってきた。彼女の顔に笑顔が戻った。

「どうしたの?」

 リンがそう声をかけると、また背を向けてトボトボと歩き出した。そして、数歩歩いたところで後ろを振り返った。それはまるで、「ついて来て」と言っているかのようだった。

 彼女は試しに少しだけ、子猫の方に向かって歩き出すと、それを確認した猫は先ほどよりも少し足早にまた数歩先に歩いて行って、振り返った。やはり、「ついて来て」と言っているようにリンには思えた。

「ちょっと待ってね。家、鍵閉めなくちゃ。あと、かばん、持ってくるね。」

 リンは家に駆け込んだ。そして、必要なものを鞄に詰めて、再びドアのところまで戻った。子猫は家の前の歩道からドアの方に向いて鍵を咥えたまま座って待っていた。リンは悟った。

『やっぱり、ついて来てって言ってる。』

 そうでなければ、こんなふうに子猫が待っていることはないだろう。

 家に鍵をかけて、彼女は子猫に近づいて行った。すると子猫は背を向けてちょこちょこと歩き始めた。

 しばらく歩いているうちに、夕日がますます赤くなり、影が長く伸び始めた。しかし、リンは気にすることなくそのまま子猫の後をついて歩き続けた。

 街のはずれにある大きな森林公園に到達する頃には、すでにすっかり日が沈み、空からは日の光が失われていた。その代わり、大きな月が東の空から登り始めていた。

 日が落ちてから公園にやってくることが初めてだったリンは足がすくんだ。危ないから夜は近づかないように言われているエリアだ。しかもぼんやりとした光の街灯が入り口の広場にしか設置されておらず、その先は静かで深い闇を蓄えた林が広がっているようだった。

 子猫は後ろを一度振り返って、目をキラリと光らせてから、すぐに前に向き直ると、ピョンと闇の中に飛び込んでいった。暗闇の中でこちらを振り返ったのだろう。数メートル先で、黄緑色の光が二つリンの方に向いた。

 ここまでついてきたのだ。しかも、どうしてもリンを連れて行きたいのだろう。彼女は意を決して、闇に足を踏み入れた。

 しかし、数歩先に進むと、思っていたほど暗くはないことにリンはすぐに気がついた。大きな満月に照らされ、目の前に広がる木立の先には開けた草原があるのが見て取れた。

 しばらく歩みを進めると、暗闇に慣れた彼女の瞳には闇に浮かぶ白い世界が映し出された。一度足を止め、辺りを見まわす。そして、その光景のあまりの美しさに、ため息を漏らした。

 秋の深まりと共に葉の色を変え始めた木立と乾き始めた草原の草は、満月の白い光に縁取られ、時折吹く風に揺れていた。ありきたりの表現しか頭に浮かばず、どれもこの光景を表現するには物足りなかったが、昼には見ることができない、まさに別世界がそこにあるようだった。

「すごい…」

 思わずリンの口から言葉が漏れた。その声が聞こえたのか、子猫も立ち止まって、リンの方に振り返った。そして足元まで近寄ると座ってリンを見上げ、前足でズボンを掻いた。リンが子猫に視線を落とすと、その見上げる瞳はまるで『見とれてないでちゃんとついて来てね。』と注意を促しているかのようだった。

「ごめん、ごめん。ちゃんとついて行くよ。」

 リンが声をかけるとまた猫は背を向けて歩き始めた。そこから先は、数メートル進むごとに「こっちだよ」と言うように後ろを振り返り、リンがついてきているかを確認しながら、闇に浮かぶ白い世界を進んで行った。

 しばらく子猫に見守られながら後をついていくうちに、リンの心から不安は無くなっていった。むしろこれから何が始まるのか、期待に胸が弾むと言う感覚を初めて感じていた。

 林を抜けて草原に差し掛かるところで、リンは異変を感じて辺りを見回した。草原の中に金色や緑色の光があちこちに散らばり、こちらに向いていることに彼女は気づいた。どうやら猫がたくさんいるらしい。しかし、姿はなかなか見えない。月明かりを反射する瞳だけが浮かび上がる様子から、皆、黒猫なのだとリンは気づいた。

「あなたの仲間がいるの?」

 数メートル先をいく子猫に声をかけると、彼は振り返った。そして、再びスタスタとリンの方に近づいてきたかと思うと、足元に座って彼女を見上げた。その瞳が今度は「抱き上げて」と言っているように彼女には思えた。

「抱っこする?」

 そう聞くと、それに応えるように、子猫は二本足で立ち上がり、リンの足に両前足をついた。

 リンが子猫を抱き上げると、集まった猫たちの真ん中に何か白い炎のようなものがぼんやりと立ち上った。一度夜風がざざっと草原を吹きすさび、木々の葉を揺らしてザワザワと音を立てると、その光は次第に形が変わって人型になり、やがて一人の男が姿を現した。

 それを見届けると、子猫はぴょんとリンの腕の中から飛び降り、男のとこに駆け寄った。そして、口に咥えた鍵を見せるように男の方に向けた。

「お前の契約主が見つかったんだね。」

 静かにそよぐ月夜の夜風のように、穏やかで優しい声だった。男はリンの方に向き直り、彼女を安心させるように微笑んで「ようこそ。」と一言口にした。


幼体

 突然姿を現した男に挨拶され、リンはつられて簡単に挨拶を返した。しかし、すぐに聞きたいことが次々と頭の中に溢れだし、質問したいことが整理できないまま、彼女は口を開いた。

「契約?」
「そう。彼が君を選んだんだ。」

 『子猫が私を選んだ?』急な話の展開に、リンは頭の中が一瞬真っ白になった気がした。何が起きているのか分からず、男と子猫を見比べた。

「どういうことか…全然、私…」

 突然、選ばれたと言われても、特別思い当たる節もない。理由もわからず「そうですか」と言うわけにはいかない。そもそも、この場合の選ばれるとは何を意味するのか、全く見当もつかなかった。

「この地方の黒猫の言い伝えは知っている?」
「いえ…引っ越してきたばかりで…」
「なるほど…」

 『これは少し厄介だな』といった表情を浮かべながら男は顎に手を当てて少し天を仰ぐように顔を上に向けた。そして、少し考えてから、リンに再び顔を向けた。

「馴染みのない話を信じるのは難しいかもしれないが…単刀直入に言うと、この子は聖魔獣の幼体なんだ。」
「!?」

 新たな聞きなれない情報に、リンの表情は固まり、彼女はじっと男の顔を無言で見つめた。リンの様子に男は『やはり無理か』と言ったように遣る瀬無い笑みを浮かべた。

「…と言われても、困るか…幼体って聞いたことないかな?」

 問いかけにリンは無言のまま小さく首を横に振ってみせた。男の言葉に頭が追いつかなかった。『単語の意味がわからない。』彼が自分と同じ言葉を彼が話しているとは思えないほどリンの頭は混乱していた。

 更には、大人を信用できなくなって久しい彼女は、怪しげなことを口にする男に対して不信感を覚え身構えた。相手は新興宗教の何かだろうかとすら考えた。よくない想像ばかりが頭の中に広がり、リンの目つきは険しくなっていった。

 彼女の変化に男はすぐに気づくと安心させるように穏やかな笑みを目元に浮かべた。

「まぁ、見た目は子猫だし、信じられなくても仕方ない。」

 男は一人で納得したように何度か小さく頷いた。その様子をリンはいぶかしげな瞳で見つめていた。全く表情を変えることない厳しいリンの視線に、少し諦めたように男は小さくため息をついた。

「一般的に見たらおかしなことを言っている実感が私にもあるよ…まぁ、でも…それを伝えたところで、君を安心させることはできないか…。」

 男はしばらく何かいい考えはないか思いを巡らせている様子だったが、いいアイデアが浮かばなかったのか、仕切り直すように、何度か頭を横に振ってため息をついた。それから、足元の子猫に視線を落とすと、しゃがんでその口が咥えていた鍵を受け取った。

 男はその鍵をゆっくりと頭上に掲げて月光にかざすと、尊いものを見るように目を細め、称賛するように小さく一回口笛を吹いた。

「近年稀に見る美しい鍵ができたね…君と契約してもらえるように、私からも彼女にお願いしてみることにしよう。」

 彼は子猫に向かってそう話しかけるとウィンクをしてみせた。すると子猫はスルスルと男の体をよじ登り、右肩の上まで登ると「ぜひ頼む」といったような目つきで男の顔を見つめてから、リンの方に目を向けた。

 リンは目の前のやりとりに頭がついていかず、すっかりただの傍観者となっていた。一つだけわかったことと言えば『この鍵は珍しいようだ』ということだけだった。

「さて…まずは何から話そうかな…」

 男は難題に取り掛かるかのように静かに腕を組み、にこやかな瞳をリンに向けた。

 気を許すまでとはいかない。しかし、男の様子を観察していたリンは、彼の態度が今まで彼女の周りにいた大人たちとは少し違うようだと感じていた。無理に価値観を押し付けたり、理解を強いる様子がなかった。そんな姿勢がリンの態度を尊重しているように、彼女の瞳には映った。そして、彼の困っている様子が少し気の毒に思えた。

「じゃあ…『契約』って何かから…」

 期待していなかった言葉がリンの口から飛び出したことで男の顔は一瞬驚きで止まった。しかし、すぐに先ほどとは比べ物にならないほど明るい表情が満面に広がった。リンには彼が少し安堵しているようにも見えた。

「なるほど!それでは契約から…いや…」

 男は説明を始めようとしたが、ふと踏みとどまり、顎に手を置き少し俯いた。質問の通りに答えることは必ずしも効率がいいとは限らない。彼女の中の興味の芽を無駄にすることがないよう、できるだけ無理なく理解できるように説明しなくては。男は慎重になり、頭の中を整理してから丁寧さを心がけて話し始めた。

「それじゃ、契約の説明の前に、この聖魔獣の幼体について説明した方がいいと思うんだ。いいかな?」

 リンはすぐに小さく頷いた。彼女のことを尊重して話を進める姿勢が見えた。そんな大人と会話するのが彼女にとっては新鮮だった。そして彼女はそれが、素直に嬉しかった。

「この子は、姿は子猫だけど、成長すると、聖獣か魔獣になる。」
「聖獣って?」
「フェニックスやユニコーンって聞いたことはある?」
「あ、空想上の動物?」
「まぁ、そうだな。人間の世界ではそういうことになってるね。」

 リンは驚いて目を丸くした。こんな真面目に、空想上の話をする大人を見たことがなかった。リンは昔、そういう動物に興味があって、母親と一緒に選んで、買ってもらった本がたくさんあった。しかし、引っ越しを機に「もう子供じゃないんだから」と父親に勧められて全て処分していた。そんな経験から、大人はこういう話を好まないという印象が強かった。

「じゃ、魔獣は…キメラとか、ドラゴンとか?」

 男はリンの言葉に目を輝かせた。そして満足そうな笑みを浮かべて、数回感心したよう頷いた。

「その通り。ただ、少し難しいことを言うと、聖獣も魔獣も人間の都合による区分なんだ。」
「どういうこと?」
「人間に有益なものを聖獣、不利益となるのを魔獣と区別していて、この区分は人間が決めたものなんだ。」
「人間だけ?」
「そう。私を含めて人間以外の存在にとっては、その区別は無意味だ。人間に説明する時に理解してもらいやすくするために、この区分を使うことはあるけどね。」
「ふーん。」

 リンは頭の中を整理しながら男の話を集中して聞いていた。しかもこんな空想上の生き物の話を真面目に話す日が来るなど、今まで想像したこともなかった。

 リンの理解が話の内容に追いついているかを彼女の表情から読み解きながら、男は注意深く話を進めた。

「ここまでは理解できたかな?」
「なんとなくは…どっちにしても大きくなったらこの子猫は、猫の姿じゃなくなるってことね。」
「その通り!」

 男は嬉しそうにリンに笑顔を向けた。彼の素直な反応に、リンは少し心臓がキュッと摘まれたような感覚を覚え、頬が暖かくなった。

「もっと簡単に言うと、私にとってはこの子がフェニックスになろうがドラゴンになろうが、全く構わないんだ。個性の範囲。でも、人にとってはそうはいかないというのは想像できる?」

 リンは無言でしばらくの間空想を巡らせてから「…わかる気がする…」と一言答えた。男はリンの反応からここまでの話をしっかりと理解できていることを確信すると、「じゃあ、ここからが君の質問に対しての答えだ。」と告げ、契約についての説明を始めた。

「この子猫が聖獣になるにせよ魔獣になるにせよ、しっかりと成長するためには契約者が必要なんだ。ただ、契約者は誰でもいいわけじゃなくて、魔法使いの素質が必要なんだ。」
「なぜ?」
「この子自身の力や、外からこの子に入り込んでくる色々な力をコントロールする必要がある。それができるのは、魔法使いの素質がある人間なんだ。」

 リンにとっては、魔法の話も魔法使いの話も、子供向けの本の中だけでの話だ。当然のことながら、この男のように真面目に語る習慣がない。そのため、単語の意味はわかっても、実際の魔法使いが何ができるのかも、魔法がどのようなものなのかも、イメージが全くできなかった。全てが漠然とした話に思え、つかみどころがないように思えた。

 質問したいことはたくさんあったが、何からどのように聞いたらいいのかもわからないほど、彼女の中は散らかりを見せ始めていた。しかし、とりあえず、少しでも頭の中を整理するために、頭に浮かんだものから質問をしてみることにした。

「コントロールができないとどうなるの?」
「説明が複雑になるから結果だけ言うと、かなりの確率で人間にとっては不利益となる魔獣になる。」
「?」
「人間にとって有益とされる聖獣の種類が圧倒的に少ないからね。」
「なるほど…」
「森の中にいれば、基本的には成長しないんだが、…」
「…だが?」
「森に縛りつけて置くわけにはいかないからね。」
「自由なのね。」
「ああ。それに、この子もそうだが、幼体は好奇心が強い子ばかりだ。」

 そういうと男は自分の肩に乗っている子猫の頭を指で撫でた。子猫は気持ちよさそうに男の指に頭を擦り付け、喉を鳴らした。

「こちらが止めようとしても、どうしても人の住む街に興味を示してしまってね。街に足を踏み入れる。」
「そうするとどうなるの?」
「人間と契約を交わしていなければ成獣にはなれないけれど、十年もすれば大抵は悪戯いたずら好きで人心を惑わすような妖精に成長する。」
「結構トラブルメーカーなのね。」
「人間にとっては…ね。」
「…なるほど。」
「だから人間が平和に暮らすためには、魔法使いの素質がある人間と幼体が契約を交わして、一緒に成長して、幼体を立派な聖獣に…いや、立派とまではいかなくても、人にとって不利益をもたらす魔獣や妖精にならないように育てることが有効とされるんだ。」

 ここまで聞いた時、リンはふと我に返った。男との会話の発端は、彼女と子猫の契約だったことを思い出した。そして、ここまでの男の話をもう一度頭の中でおさらいすることにした。


契約

 リンは自分が契約をした時のことを想定して、今の彼の話に自分の姿を当てはめて想像してみた。しかし、どう考えても自分には無理な役割だと判断した。

 責任が重すぎる。第一、彼女は魔法使いの家系でない。そればかりか、『魔法』などという言葉が日常会話に出てくることさえない環境で育ってきた。そんな人間が魔法使いになどなれるわけがない。それに、たとえ魔法使いだったとしても、あまりにも責任重大な話だ。今まで誰にも頼りにされたことがない自分には、到底そんな大役を果たせる素質はないだろう。

 リンは相手の機嫌を損ねることなくこの場を後にする方法に考えを巡らせ始めた。不幸中の幸いと言えるだろうか。目の前の男に悪意のようなものは感じなかった。この雰囲気ならば本当のことを言って、少し脅せばすんなりこの場から解放されるかもしれない。リンは相手にしっかりと彼女の気持ちを伝えるために、まっすぐに男の目を正面から見上げた。

「ここまで丁寧に話をしてくれてありがとう。でも…」
「でも?」
「ごめんなさい…私には、契約は無理です。」

 突然の彼女の発言と、先ほどまでの前向きだった態度が一変したことに、男は真顔になり言葉を飲み込んだ。驚きを隠せなかった。何かまずいことを言って彼女の機嫌を損なわせてしまったのだろうか。原因が全くわからなかった。

「どうして?」
「私は、魔法使いの家系じゃないから…」
「最初から魔法使いの人なんていない。」
「で、でも、私は魔法とは全く無縁のところで育ってきたの…」
「過去にはそういう人もいた。」

 男はリンの不安げな様子払拭するために必死になった。その声色は今日話し始めてから、初めて余裕がなく、焦っているように見えた。しかし、彼の様子を見ても動揺しないほど、リンの決意は堅かった。

「でも、その人はその人。私は私です…」
「…」
「ごめんなさい。魔法使いになるつもりはありません。」

 男は言葉なく、少し悲しそうにリンの瞳を見つめた。彼の表情を目の前に、リンは胸をチクリと何かに刺されたような感覚を覚えた。リンは横を向いて彼から視線逸らせた。気持ちが揺らぐ気がしてずっと見ていることができなかった。

「私は、この子に行く場所があるならそれでいいんです。あなたが飼い主ならそれで…」
「でも、彼は私とは…」

『聞いてはダメだ。聞いたら心が揺らぎそう。』リンは、男の言葉を遮るようにして続けた。

「森にいれば安心な訳だし…それに…もう時間も遅いです。帰らなきゃ。」
「遅くなったら送るから…」
「いえ、今の時間なら一人で大丈夫。とにかく、こんな時間に私みたいな子供がここにいるのはおかしいでしょ?こんなところ見られたら、あなたも警察に捕まりますよ。だから…」 

 その時、ふと、男の右肩に乗っていた子猫の視線を感じて、つい目を向けてしまった。彼女が言っている複雑な内容が子猫にわかるわけないと思うものの、子猫の瞳が悲しそうに見えて、リンは言葉を呑んだ。このまま話を続けるべきか、迷いと同時に罪悪感のようなものが一瞬頭をよぎった。

 彼女の表情の変化から、まだ声が届きそうだ判断した男は、彼女が再び口を開く前に話し始めた。

「さっき、言いかけたけど、彼は私と契約できない。彼が選んだのは君で、君の心に彼の心が共鳴して作り出されたこの鍵は、君と彼のものだ。」
「鍵?」

 鍵の存在を彼女すっかり忘れていた。契約と同じぐらい気になっていたのはこの鍵の存在だった。しかし、この鍵について知ったところで彼女に魔法使いの素質が出てくるものでもないだろう。

「彼を育てることができるのは、心が共鳴した相手、つまり君だけなんだ。」
「でも、私…無理…この子が私を選んだとか、私がこの子を育てるとか、私は魔法使いになるとか…色々頭がこんがらがって…第一、魔法使いになる素質なんてないと…」
「最初から魔法使いの人間はいない。それに、素質があるかどうかは君には判断できないよ。そして私にもできない。」
「?」
「それを判断できるのは、幼体だけなんだ。それに、彼を育てようなんて考えなくていい。君が魔法使いとして成長すれば、一緒に彼も成長するから。」
「でも、その魔法使いに…どうやってなったらいいのかがわかない…」

 彼女の心の揺れが先ほどよりも大きくなってきた。彼女の表情や言葉の歯切れの悪さからそう判断した男は、一か八か、とどめの一言を彼女に投げかけることに決めた。

「まぁ、いい。どうしても無理だと言うなら仕方ない。彼は明日の朝日が登る頃、朝露と一緒に消えることになる。ただそれだけのことだ…」

 リンは目を見開いて男を見上げた。突然、予測もしなかったことが男の口から語られ、彼女の頭の中では何が起きているのか全く理解ができない状態に陥った。

「消える?死ぬっていうこと?でも、さっき、森にいれば問題ないって…」
「それは鍵ができる前の話だ。」
「そんな…」

 リンの声は震えていた。彼女の決断一つで子猫の運命が左右されるということに恐怖すら覚えた。彼女の動揺とは対照的に男は表情を変えることもなく淡々と言葉を続けた。

「しかし、気にすることはない。消えると言っても、彼らの場合は何もなかった無の状態に戻るだけだ。肉体がある存在の死とは訳が違う。」

 この世から消えるということは、死ぬことと同じことではないのだろうか。語っている内容は生死を語るような重いもののはずなのに、彼の声は感情がないかのように静かで落ち着いた印象だった。この状況にリンは背筋が寒くなるのを感じた。

「そんな…気にしないなんて…」
「雨が降って濡れた地面が乾くのとなんら変わらない。気に病むほどのことではない。」

 この話を子猫はどんな気持ちで聞いているのだろう。リンは子猫の様子が気になって、一瞬だけチラッと彼の方に乗っている子猫に視線を走らせた。子猫とは目が合わなかった。彼は少し俯き加減で立っていた。その表情には恐怖が滲んでいるようにリンの目に映った。

 こんなに深いところまで話しておきながら、今になっt『気にするな』と言うなんて、なんて無責任なのだろう。ここまで聞いて、平気な顔をしているなんて無理だ。

 恐らくこの男は、こうやって自分の心を揺さぶって操作して、子猫との契約を承諾する方向に持っていこうとしているのだろう。『大人って本当にずるい。』リンは俯きながら、唇を噛み締めた。

 その時ふと、今日子猫と出会ってからの出来事が、早送りされる映像のように温かい感触を伴って頭の中に蘇ってきた。

 子猫に初めて両手を差し出したとき、ふわっと丸い暖かさが両手いっぱいに広がって、生きている温もりに涙がでそうになった。

 家でミルクを出したときに、小さな舌をぺろっと出してミルクを舐めた姿が動くぬいぐるみのようで愛らしかった。

 鍵を咥えて走り出したとき、心に痛みを感じるほどの寂しさに襲われた。そして、戻ってきてくれたとき、心から嬉しかった。

 彼女をこの森まで連れてくる途中、何度も振り返って気遣ってくれた姿を見て、心強くて、その姿が愛おしかった。

 抱き上げたときの両腕に感じた温もりの幸福感は今までに感じたことのないものだった。

 彼女は両目を強く瞑った。精神的に追い詰められ、どう頭の中を整理すべきか分からなくなり、半分パニックに陥った。もう選択肢は一つしかないことだけは明確だった。

 しかし同時に、リンの中には怒りが込み上げてくる感覚があった。目の前にいる男だけが憎いわけではない。しかし、リンを頷かせるために、子猫の生死に関わるようなことを簡単に口にして揺さぶりをかけているように見える彼の姿に、今まで彼女が出会った大人たちの姿が重なって見える気がした。

「ほんとうに…勝手…」

 あまりの悔しさに心の声が漏れた。自分たちに都合のいいように人や物事を操作するために、平気で嘘をつき、ごまかし、心にもない大袈裟な賞賛を行い、簡単に欺く。そんな大人たちとの関わりの中で、今までの人生を振り回され過ぎた彼女は、これまで募らせてきた大人たちへの不信感をついに爆発させた。

「本当にずるい!卑怯よ!!こんな話を聞いたら、断れない!!」

 何をどう表現したらいいのかわからないまま、彼女は感情を露わにした。頭の中がぐちゃぐちゃだった。もう逃げ場がない追い詰められた気持ちと、子猫が消えてしまうかもしれない不安、大人への怒り。そして何よりも、子猫が消えるかどうかが自分の決断にかかっている恐怖は彼女の心凍り付かせた。

 怒りと恐怖で歪んだリンの表情に、男は少し驚いたようだったが、すぐに言葉を続けた。

「他の大人たちはどうか知らないが、私の言葉は君が後悔しないようにするためだ。」

 リンは、男の落ち着いて冷静な声で語られる言葉を耳にして我に返った。彼女は彼が何を言っているのかすぐに理解した。その瞬間、リンはその重さに圧倒され、呼吸することも忘れて固まった。

 もしも明日の朝、子猫が消えてしまうことを知らずに手放し、後でその事実を知ることになったなら、その罪悪感は永遠に消えることはなかっただろう。ほんの一瞬、後悔を免れたという安堵が心の中に生まれたが、その直後「もし知らなかったら…」と想像してしまい、彼女は背筋が凍るような恐怖と共に全身が震えた。

 だが同時に、彼の言葉に操られているという感覚は、拭い去るどころか、ますます確信に変わっていった。リンは腹立たしさを更に募らせた。彼女は無言のまま、険しい視線で男を睨みあげた。その様子を見て満足そうに目尻を下げて男は微笑んだ。

「君は賢いな。すぐに理解したね。彼が選んだだけのことはある。」

 感心したように頷きながら、男は鍵を持っていない方の手を差し出し、握手を促すように目配せをした。だが、男への警戒感を解いていない上、その手に触れることすら自分が負けたかのように思え、リンは手を差し出すことなく男の動きをじっと見つめた。


リゲル

『彼女の警戒心は鉄壁だ』一筋縄では到底対処できそうもないことを想像し、不思議と笑いが込み上げてきた。そして男は愉快そうに軽やかな笑い声をあげた。

「はは、君は慎重だね。」

 男は、握手をしようとしていた手をゆっくり引っ込めると、跪いてリンと同じ視線の高さにまで身を屈めた。彼はリンの目を見据え、まるで彼女の反応を楽しむかのように、優しい笑みを浮かべた。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。私の名前はリゲル。君の名前は?」
「…リン」

 自分の名前を教えるかどうか彼女は一瞬迷ったが、彼女の身長の高さに合わせるために跪き、彼女に視線を合わせてきたその様子から、今まで出会った大人たちとの違いをリンは感じていた。彼の態度は彼女を尊重しているように映った。そんな彼に対して最低限の敬意を返すべきだと考え、彼女は自分の名前だけ一言口にした。

 そして、リゲルの視線から逃げることなく、彼と目を合わせて口をつぐんだ。まだ完全に警戒をといていなかった彼女は、彼の出方を見るために、彼の言葉を待つことにした。

「リン、よろしく。」
「…」
「彼と契約をするという理解で間違いないかな?」

 リゲルは跪いたまま、意思を確認するようにリンの瞳を覗き込んだ。彼女の目は吸い込まれるように彼の目に釘付けになった。

 リゲルの瞳は静かで深い銀色で、リンが今まで見た大人の瞳の中で一番澄んで美しかった。その時一瞬にして、最初感じた不信感も、先ほどまで感じていた警戒感もすっかり収まりを見せ、不安が消えていくのを感じた。そして、彼女の心はすぐに静かな落ち着きを取り戻していった。

 リンは、まるでリゲルの魔術にでもかかったように小さく素直に頷いた。

「じゃ、握手だ。」

 リゲルが再度手を差し出すと、リンは彼の瞳をじっと見つめたまま、素直に手を出すと彼の手をしっかりと握った。彼は嬉しそうに優しく微笑んだ。

「良かった。君が彼を手放すようなことをしたらどうしようかとヒヤヒヤしていたんだ。」

 リゲルは本当にホッとしたと言うように、少し大袈裟に肩の力を抜いて見せた。その姿が、彼の神秘的な姿に少し不釣り合いな気がしたが、逆に親しみやすさを感じ、リンの表情は和らいだ。

 リゲルは肩に乗った子猫の方に顔を向けると、ウインクをして微笑んだ。

「良かったな、契約に応じてもらえて。」

 そう言うと猫は細く通る声で「にゃー」と一鳴きして、ぴょんとリンの肩に飛び移ると、まるで礼を言っているかのように彼女の頬に顔を擦り付けた。その光景を見てリゲルは微笑ましげに目尻を下げた。

「本当に良かった。彼は今私が知っている子の中でも一番有能な子でね、それなのになかなか契約する相手を選ばないから心配していたんだ。」

 リゲルは静かに立ち上がると、子猫の頭と耳を指で優しく撫でた。子猫は気持ちよさそうに彼の指に頭を擦り付けた。リンはそんな子猫の様子を見て微笑んだ。

「やっと相手を連れてきたと思ったのに、君が難色を示した時にはどうしようかと思ったよ。彼が朝露に溶けていく姿を想像しただけでも、心穏やかじゃなかった。」
「心配させてごめんなさい。」
「いや、信じてくれてありがとう。実を言うと、信じてもらえずに消える子の方がずっと多くてね…」

 リゲルは悲しそうに満月を見上げた。銀色の夜風が二人の間に静かに吹いた。しばらく辺りはさわさわとやさしく物悲しげな音に満たされた。風が鎮まるとリゲルはリンに視線を向けた。

「空想や魔法、夢とか希望とか…消えゆく過程にあるということなんだろう。まぁ、騙したり欺く人間が増えれば無理もない。身を守るには警戒心は大切だ。しかし、そんな流れの中で、希望の光は一つ一つ…当たり前のように消えていく。」
「リゲルは…見た目によらず、意外と悲観的なのね。」

 初めて普通の会話の受け答えになった。リゲルは嬉しそうにリンの方に顔を向けた。あからさまな表情にリンは少し照れ臭そうな笑みを浮かべた。自分の発言をしっかり聞いてもらえるのが今までにない経験で、彼女は少し恥ずかしかった。

「リン、君とはいい関係が築けそうだ。くれぐれも彼をよろしく。彼は私にとって希望の光だ。久しぶりに契約を結べる貴重な存在だからね。」
「期待に応えられるかわからないけど…よろしく。」

 リゲルは満足そうに頷くと、もう一度先ほどと同じように彼女の前に水晶の鍵を差し出し、「ここに手を乗せて」と一言添えた。リンは言われるままに鍵の上に手をのせた。

「リンを私のしもべの契約主とすることを認める。契約期限はリンが魔法使いとして独り立ちするまでとする。」

 すると、鍵はきらりと光を放ち、一本の魔法の杖に姿を変えた。少し捻れ、氷柱つららのように先端に向かって細くなった杖は、月明かりの中で煌めいていた。リンはその美しさに目を輝かせた。なかなか杖を取り上げようとしないリンに、リゲルは「君のだよ。手にとって。」と彼女を促した。

 リンは杖を手に取った。すると一瞬キラリと光を放ってからパッと姿を消した。『無くなっちゃった?』リンは焦って、足元の草むらを見回した。『どうしよう、手にしてすぐに無くしてしまった。魔法使いの素質がなかったのだろうか。』彼女は言葉にこそ出さなかったが、その表情は満面の不安という表現がぴったりだった。その様子を見てリゲルは安心させるように優しく微笑んで見せた。

「…心配ないよ。じゃ、どちらでもいいから、手を握って、その手の中に魔法の杖を握っているイメージしてみて。」

 言われた通り、リンは右手を握って杖をイメージしてみた。すると、手の周りが光に包まれ、一瞬にして杖が姿を現した。無色透明な杖は月の光を集め、神秘的な光を放った。「すごい!」リンは屈託のない子供らしい笑顔を満面に浮かべた。しばらく杖を眺めた後、おもむろにリンはリゲルに顔を向けた。

「そういえば、魔法使いとして成長するって、どういうことすればいいのかな。」
「先は長いけど、まずは君がやることは二つだけ。一つは、黒猫との信頼関係を築いて、二人の楽しくて落ち着いた時間を過ごすことだな。」

 リンは目を丸くしてリゲルを見た。魔法は特別な世界の特別な人間がすることだと思っていた。本当だろうか。リゲルに対して不信感はないが、疑問が一気に彼女の中で膨らんだ。

「え?そんなことでいいの?」
「そう、そんなこと。満たされた落ち着いた心を身につけないと、魔法は使えるようにならない。」
「?」
「そのうち、いろいろ経験すれば意味が分かると思うから、今説明はする必要ないと思うよ。」
「…わかった。」
「そして、もう一つは、二人のたくさんの思い出を作ること。いい思い出だけじゃなく、喧嘩するような思い出もね。」
「そうなの?」
「そう。魔法使いに人生経験は必要不可欠だからね。たくさんの人と関わって経験を積むことも必要だ。」

 それを聞くと、リンの表情は不安で曇り、自信なさげに地面に目を落とした。新しい学校の自分の姿が生々しく頭に浮かんだのだ。「人との関わりか…苦手…」先ほどまでとは打って変わって、か細く小さな声でリンはポツリとつぶやいた。

 新しい学校に馴染めず、20日以上経っているのに友達の一人もできない自分はたくさんの人と関わることなどできるようになるだろうか。そんなリンを励ますように、リゲルは少し体を屈めて、彼女の瞳を優しくのぞき込んだ。

「ゆっくりでいいよ。少しでも心が落ちつかないようなことがあれば、彼と一緒にここにおいで。話を聞くから。」
「ああ、もちろん。君にこの子をお願いするんだ。無責任なことはしない。」

 リゲルの言葉に彼女の表情は明るさを取り戻した。その様子を見てリゲルは安堵の表情を浮かべると「あ、そうだ」と言って体を起こすと、再び子猫の頭を指で撫でた。

「あと、ここに来るときには、絶対にこの子を連れてくるようにね。夜一人で外出するのは危ない。」

 リゲルの提案に、リンは少し愉快そうに笑った。こんな小さな子猫に、そんな力があるとは思えなかった。彼女の笑っている姿を見ると、子猫は不満そうに「フンッ」と鼻を鳴らした。

「あ、怒らせちゃった…ごめんね。」

 リンから顔を背けた子猫に彼女は謝ったが、気持ちが収まらないのか、彼はすっかり拗ねた様子で、そっぽを向いたまま目を閉じた。

「ふふふ。彼は、人の話を全部理解しているからね。それに、彼の代わりに言わせてもらうと、実は私が知っている幼体の中で、彼が一番強いんだよ。」
「え?こんなに小さいのに?」

『本心がでたな』とでも言いたげに子猫はもう一度「フンッ」と鼻を鳴らした。そんな彼をフォローするように、リゲルは機嫌を直すように促しながら、彼の頭を優しく撫でた。

「幼体は、小さいほど、魔力が強いんだ。力が強ければ強いほど、小さくなって力が抑えられているんだ。この力を解放するのが君の成長と魔法の力なんだよ。君がいい影響を彼にたくさん与えればその分良い力が解放されて、強い聖獣に育つだろう。」
「…なるほど。責任重大ね…」

 リンは笑顔でしっかりと頷いてみせた。リゲルの言葉が心強かった。リンの明るい表情に心を温かくなるのを感じながら「あまり気負わなくても大丈夫だよ。」と言ってリゲルは微笑んだ。直後、彼はふと何かを思い出したかのように表情が一瞬緩んだ。

「そうだ。私からのプレゼントがまだだったね。」

 そういうと、リンの肩にいた子猫を両手に抱き上げると、リゲルは子猫を一度ゆっくりと撫でてから、彼の頭に優しくキスをした。すると、子猫の周りに光が集まり、吸い込まれるように彼の体の中に吸収された。

「どうかな?話せるか?」

 子猫はじーっとリゲルの瞳を見つめてから、口を開いた。

「うん、多分。」

 リンは「すごい!」と言って目を輝かせた。そんな彼女に両手を出すよう、リゲルは促すと、彼女の手のひらに子猫を乗せた。

「まずは名前を付けてあげて。名付けが最初の二人の共同作業だよ。決まったら、次の機会に教えてくれたら嬉しい。さぁ、もう遅い。家に帰った方がいい。今日は特別に送るよ。深夜に近いからね。」

 リゲルの言葉にリンは驚いて、スマホを出して時間を確認すると、すでに23時を過ぎていた。

 そこからはあっという間だった。一度大きな風がザザーっという音を立てて草原を駆け抜けた。あまりの風の強さに両目を開けていることができず、リンは子猫をしっかり抱きしめたまま両目をしっかり瞑った。

 次に目を開けると、彼女は自分の家の庭に立っていた。リゲルが使った魔法に驚き、リンは辺りを確かめるように見回した。一瞬で移動したことが信じられなかった。その様子をみたリゲルは「大丈夫?」と声をかけて微笑んだ。

 リンが小さく頷くと、「おやすみ。信じてくれてありがとう…」そう言ってリゲルは静かにリンの額に口をつけた。それに合わせてリンは静かに目を閉じた。優しい風が彼女を包むようにそよいだ。

 風がおさまり、リンが静かに目を開くと、リゲルの姿は消えていた。リンと子猫はしばらくの間静かに満月を見上げながら、秋の夜風に身を委ねていた。


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