時間切れ!倫理 120 藤原惺窩
朱子学
江戸時代の思想を見ていきましょう。
まずは朱子学です。中国の儒学は、聖徳太子の十七条憲法にも「礼」という言葉が入っていたように、古い時代には日本に入ってきたと思われますが、多くの人が本格的に学んだり、政治・政策に利用されたりすることはありませんでした。ところが、江戸時代になって儒学は急速に広がります。特に儒学の中でも朱子学が重要視されました。朱子学は、当時の中国・朝鮮でも主流だった儒学の学派です。その最初の学者が藤原惺窩です。
藤原惺窩
日本で最初の本格的な朱子学者が藤原惺窩(1561~1619)です。一度禅宗のお坊さんになっていたのですが、朱子学を学んで還俗(げんぞく)します。一旦出家して僧侶になったものが僧籍から離れて一般人に戻ることを還俗といいます。
歴史的な話をすると、豊臣秀吉は天下統一後、朝鮮出兵をしました。秀吉の命令で、大名たちが朝鮮半島に攻め込んで行くのですが、その際に多くの捕虜を日本に連れて帰ります。有名なのは陶工です。陶磁器を作る朝鮮半島の職人さんたちが日本に連れてこられて、九州各地に伊万里焼などの焼き物の産地ができるのです。日本に拉致された多くの朝鮮人のなかには学者もいました。その一人が姜沆(きょうこう・カンハン)。この人が朱子学者でした。藤原惺窩はこの人から朱子学を学んだのでした。
やがて徳川家康が天下を取ります。もう戦国の世は終わりです。太平の世の中を作るために、秩序を維持するため都合の良い「教え」がないかと考えます。仏教は悟りを開くことが目標なのでちょっと無理。徳川幕府を支える思想、イデオロギーというのですが、何かないかなと探していたら、朱子学が丁度良いのではないかと思った。そこで徳川家康は藤原惺窩をリクルートします。「あなた、私に仕えませんか。幕府のために働いて、あなたの知恵を生かしてくれませんか」と誘うのですが、藤原惺窩はこれを断ります。藤原惺窩は例の藤原一族です。中臣鎌足から始まる藤原氏の子孫です。彼の11代前の先祖は『新古今和歌集』を編纂した藤原定家だったりする。名門中の名門貴族なわけです。だから武士は嫌い。「野蛮な連中」と思っている。家康に仕えるということは、武士の家来になることですね。絶対嫌なんです。そこで丁重にお断りして、「私はあなたにはお仕えしませんが、この人を紹介します」と、自分の弟子である林羅山を紹介しました。