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犬養孝『万葉の人びと』(新潮社)を読んで

 この記事に目をとどめていただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
 今回は『万葉集』に関するブックレビュー、といふより読んで思ひ付いたことの羅列です。どうか、最後までお付き合ひいただければ幸甚です。

 『万葉集』に関する本は、数多くあります。専門的な研究書はもちろん、入門書、奇を衒つたもの、そして何度読んでも飽きない本…。その探求の歴史も古く、はじまりは梨壺の五人による研究から、鎌倉時代の仙覚。そして、江戸時代になり契沖や賀茂真淵。さらに鹿持雅澄に至るまでの成果が積み重ねられました。近代に入つてからも佐佐木信綱や沢瀉久孝らの偉大なる業績があります。そして、現在でもさらなる研究の成果が期待されてゐるところです。

 さうした、偉大な過去の研究成果が数あるといふことは、どのやうな本を読めば良いのか、またどこから学べば良いのか、初学の人や興味を抱いてゐる人にとつては迷ひの種となりませう。似たり寄つたりな作品も当然、多いです。もし、私の書いた本(『万葉日本学』と題し出版する予定です)が世に出てゐれば、それを読むようにお伝へしますが、現時点では、斎藤茂吉の『万葉秀歌』(岩波新書)と、この犬養孝先生の『万葉の人びと』(新潮社)です。

 先生には他にも『万葉の旅』(講談社ライブラリー)など、優れた書があります。『万葉の旅』は各地にある万葉故地を訪ね、当時撮られた現地の写真と共に万葉の歌と風土をわかりやすく紹介した本です。万葉故地を訪ねるのに、これ以上に役立つ本はありません。この本も『万葉の人びと』と同じやうに、とてもとても素敵な本です。

 本書は磐姫皇后から大伴家持までの人物を中心に説かれてゐるので、わかりやすいです。東歌など東国の名も無き民の歌も収め、おほよそこの一冊で『万葉集』の全体像を抑へることができるでせう。

 職業柄、多くの方を「●●先生」と呼ぶ機会がありますが、私が現代の『万葉集』の研究家で先生との敬称を付けるのは、犬養先生のみです。吉田松陰先生は「いたづらに人の師となつてはならないし、人を師としてはならない」と述べられ、師弟関係を厳密にされてゐますが、それに倣つてゐます。ゆゑに、私も基本的に弟子を取りません(数人の弟子はゐますが。弟子を取るといふことはその人に自分と同じ思想、思考を求めるといふことだから、私は人の師になることを厳に戒めてゐます)。

 先生は主に風土といふ観点から万葉を研究されました。学位論文は「萬葉集の心情表現とその風土的関聯につきての研究」(東大)であり、風土に関する著作(『万葉の風土』など)も多くあります。それに、東大や京大の派閥に加はらず、独自の道を歩まれたと先生からお教へを受けた方から伺ひました。
 本書の冒頭にもありますやうに、大阪大学にをられた際には、学生たちを連れて百十二回、約二万名を万葉故地にいざなはれました。それは『万葉集』の魅力のみならず、先生御自身の人徳によるものでありませう。もう叶ふことはありませんが、私も先生と共に、万葉故地を訪ねてみたかつた。
 先生のさうした人徳のみならず、私が他の多くの学者と異なり、先生を先生と讃へるのは、先生が万葉を愛してゐるからです。それは、『万葉集』をただ研究対象として眺めてゐる研究者とも異なり、さらに古典を商売道具または売名の道具としてゐる者とも異なるからです。

 また本書では、額田王の歌、

 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (巻一・二〇)

を現代では通説になつてゐる宴会での座興説ではなく、従来の説に従つてゐます。これは先生が固陋といふよりも、先学の説を重視してゐるものと見られませう。現代の学者は、先学の説をいかに否定し、乗り越えるかに研究の主眼を置いてゐるやうに見えます。さうした意欲も大切ですが、それが必ずしも良いわけではないことも事実です。先生が絶対に正しいとも思ひませんが、少なくとも先生には古人に対する尊敬と愛情を他の学者よりも感じることができます。

 「古い時代の事を今の感覚で考えていては、万葉の歌は理解できません」

本書の「プロローグ」で書かれたこの一節は、至言といふべきものです。万葉の歌をどう読むのか、どう解釈するのか、現代でも侃侃諤諤の意見が交はされてをり、学者の方々の労苦は想像にあまりありますが、やはり歌を味はふには現地に行き、現地に生きた人の心になつて、何かを感じる。これは、和歌(やまとうた)を作る際に最も大切なことの一つになります。もちろん、歴史を理解する上でもこのことはとても大切なことなのはいふまでもありません。

 本書を読むのは三度目ですが、毎回、思はぬ気付きや発見があり、とても楽しいです。先生の学恩を、心からありがたく思ひます。そして、明日香にある犬養万葉記念館に行けば、先生の高風を今なほ仰ぐことができます。素朴で小さな記念館ですが、気に入つてゐます(館長の方も、素敵な方です)。明日香を旅される際は、是非とも立ち寄つていただきたいところです。

犬養万葉記念館

 明日香には、先生の素敵な歌碑がたくさんあります。特に甘樫の丘にある

 采女の 袖吹き返す 明日香風 みやこを遠み いたづらに吹く (巻一・五一)

の碑は、心を打たれます。このことは本書にも触れられてゐます。

 「これはぼくの教え子の全国の方々と飛鳥の方々が建てて下さったものです。碑文を書いて下さい、といふので私は明日香村がいつまでも健やかにのこるように、そしてそこへ立った人々が、これから何千年後でも、明日香風を思い偲んで甦らせて下さるようにという祈りをこめて、万葉の字のままに書きました。」

 先生の万葉への愛、ひいては祖国愛に通じる何かを感得するのは私だけでせうか。

犬養孝先生歌碑



 今年の秋は、本書のプロローグに紹介された、

 わがゆゑに 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり (巻十五・三六一五)

が詠まれた風早の浦(広島県)、そして大伴旅人が亡き妻を思ひ悲しみの歌を詠んだ鞆の浦、さらに熱田津に行く予定です。犬養先生とともに、風早を訪ねた当時の学生を羨ましく思ひながら。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。どうか、犬養先生の『万葉の人びと』をお手に取つていただければ幸ひです。

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