平泉澄先生『先哲を仰ぐ』覚書 その五(終)
六月の 地さへ裂けて 照る日にも わが袖干めや 君に会はずして (『万葉集』巻九・一九九五)
暑い日が続きますね。熱中症にはくれぐれも気をつけたいものです。武漢熱よりも恐ろしいのは、熱中症です。
どうでも良いことですが、私はいはゆる武漢熱のワクチンを受けてをりません。
前置きが長くなりました。いつも見ていただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
スキが付くと嬉しいものです(付かないけど)。一人でも見ていただけたらと思ひ筆を執つてをります。
機会があれば、『先哲を仰ぐ』の読書会を開催したいと考へてをります。賛同してくださる方、ゐますかね…?
さて、表題は『先哲を仰ぐ』ですが、ところで「先哲」とは何でせうか。試みに『日本国語大辞典』を見ると「前代の哲人。昔の賢人。昔のすぐれた思想家。前哲」とあります。さうなると、江戸時代の荻生徂徠も先哲と定義されませう。しかし、平泉澄先生は荻生徂徠を先哲と見てをられません。ただの博学では「先哲」にはなれないといふことです。
平泉先生の「先哲」の定義ですが、『先哲を仰ぐ』の「革命論」の中から、おほよそ次のやうに理解することが可能です。
とあります。つまり、先哲とは革命に対して絶対に反対する立場にゐることが前提になりませう(さらに加へると、歴史に対する態度=国体を将来無給に維持するといふこと、そして同じやうに生きてきた先賢に対する「一の精神」もまた先哲の条件といへませう)。
革命とは、「一つの王朝が亡びて新しい王朝が興り、一つの国がなくなつて別の国が始まる事を意味するのである(革命論)」とありますやうに、国が滅亡すること、さらに別の王朝または権力者にとつて変はられることを意味します。
また「革命論」は主に、言葉を慎むこと、家を復興させること、そして我が国の歴史の本質について論じてゐます。私は、特に言葉について考へさせられます。それは北畠親房公の『神皇正統記』からの一節を平泉澄先生はたびたび引用されてゐることからわかります。
「乱臣賊子と云ふものは、其のはじめ心ことばをつつしまざるより出で来るなり」
つまり、革命を起こすやうな乱臣賊子といふものは、言葉が乱れてゐるところから生まれるといふことです。
言葉については、「武教小学講話」の「言語応対」にも詳しく述べられてをり、私どもの襟を糺さざるを得ないところです。江戸時代、儒学者の多くが支那に憧れを抱いてゐたといひます。それは、現代でもさほど変はらないやうに思ひます。外国に媚びる、とまでは言はなくとも、自国に対する認識のお粗末さは目に余るものがあります。
また、近年の学者が書いた学術論文や話題になつた書籍を見てゐると、天皇及び皇室に対して失礼な表現をする学者や執筆者があまりにも多いことに気付かされます。皇室敬語を用ひてゐないのはもちろん、天皇の崩御に対して「没」の字を平気で用ひてゐます。かういふことをいふと、時代錯誤とか皇国史観、さらには右翼などとレッテル貼りされさうですが、彼らはそれ以前に我が国がいかなる国かわかつてゐないやうに感じます。
「武教小学講話」に、
とあります。「武教小学講話」の初出は、昭和十五年の『伝統』にあります。昭和十五年の時点でこのやうな有様であつたことを思ふと、現代はもつと絶望的でありませう。GHQのWGIPは確かに深い爪痕を我が国に残しました。もういい加減、神道司令やプレスコードの縛りから脱しませう。
明治憲法(帝国憲法)、天皇家(皇室)、太平洋戦争(大東亜戦争)、日中戦争(支那事変)、中国(支那)、満州(満洲)
など『論語』の「名を正す」ことと共通しますが、正しい言葉遣ひに戻りませう。それが私どもにできる「言語応対」の第一歩ではないでせうか。なほ、( )に正しいと思ふものを入れてみました。
たびたび引いてゐる福井の橘曙覧先生も革命に対して明確に反対する立場をとつてゐます。次の歌からその事実がわかります。
君と臣 しな定りて 動かざる 神国といふ ことをまづ知れ
(天皇と臣下の身分が定まつて動かない神の国であることをまづ知りなさい)
反革命の立場は、わが国の知識人・教養人にとつて当然のことであり、学問の出発点でもありますが、江戸時代はもとより、現代もこのことがわかつてゐない人が多いことに驚かされます。
『先哲を仰ぐ』はとても難しい書物でありますが、同時にとても大切な書です。五回の覚書でそれを全て伝へきることはできませんが、『先哲を仰ぐ』を読む参考になれば、平泉澄先生、先哲の学問を学ぶきつかけになればと願つてます。
五回にわたり、お読みいただきありがたうございました。(了)