阿呆列車 ひだ13号
いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
稼ぐことは大切です。しかし、稼ぎがあつてもイーロン・マスクのやうなバカではいけません。まはりの人をふりまはす、まはりの人を困らせるのは賢い人のやることではありませんから。
一
さて、久し振りの「阿呆列車」シリーズです。改めてこのシリーズの概要を紹介しますと、偉大なる鉄ヲタ・内田百閒(彼の正仮名遣ひの改悪に反対した点はものすごく偉大です)に倣ひ、目的もなく特急列車に乗つて、始発から終点まで行くといふものです。
青春18きつぷの季節になりましたね。あのきつぷを使はなくなつて、もう九年くらゐ経ちます。かつては、北へ南へ、東へ西へと青春18きつぷ片手に旅をしたものでした。
時に、「遠くに行きたい」と思ふのは何故でせう。日常の喧騒から一旦、自分を切り離し、落ち着くためでせうか。答へは人それぞれでせうが、私の場合、ただ行きたいから行きたいのです。
思ひ立つたのは、旅の前日の朝。仕事の後に、新宿駅の混雑するみどりの窓口できつぷを購入しました。
東京都区内発、東京都区内行の面倒臭い乗車券を窓口の方は淡々と作つてくれました。感謝。
二
当日、六時に起き、上野駅に向かひました。山手線で東京駅に行き、新幹線ホームへ。私の乗るのぞみ9号の発着する18番線ホームは、人も少なく、ひつそりとしてゐました。朝の新幹線ホームは中々風情のあるものです。
七時十二分、空席の目立つのぞみ9号は博多駅に向けて出発しました。
次の品川駅でパラパラと人を乗せ、雲の多い東京の空の下を、のぞみは西へ向けて駆けて行きます。座席は進行方向に向かつて右側です。私の隣には、誰もゐません。
車内メロディーの「いい日旅立ち」が鳴り、放送が入ると間もなく新横浜駅到着。JR西日本の車両ですね。
私は百恵ちやんの歌、好きです。「いい日旅立ち」の作詞はちんぺーさん。彼は、本当に天才です。
新横浜駅の次は名古屋駅ですが、のぞみで東京駅から名古屋駅まで行く時間と、東北本線の普通列車で上野駅から宇都宮駅まで行く時間では、前者の方が速いといふ…。
静岡県に着くまではトンネルが多く、やつと富士山が見え、平野に入つたと思つたらまたトンネル…。「新幹線の車窓も楽しめる」といふやうなことを言つてゐる人もゐましたが、私には理解できません。トンネルは旅の天敵です。
八時六分頃、静岡駅を通過。山の向かうに大きな雲が見えます。梅ヶ島温泉のあたりでせうか。五分後には、大井川を渡りました。日頃の疲れた目、そして心には、鉄道の車窓は大きな癒しになります。
富士山や掛川城、浜名湖などの車窓を眺めてゐる間に名古屋駅に到着。
久し振りの名古屋です。名古屋については、以下の記事もご参照ください。
三
名駅はすごい人の量でした。
そして、外ではクマゼミが「畜生と」ではなく、シヤアシヤアと鳴いてゐます。
ぴよりんの前には、ラーメン二郎並の行列ができてゐました。
名古屋では六時間の滞在時間があります。その間に、地下鉄の乗り潰しと、名古屋飯を堪能します。
日本のどこか(名古屋)で私を待つてゐるのは、人ではなく飯(あんかけスパゲティ、台湾ラーメン、小倉トーストなどなど)でした。
前回も来たCOFFEE AVANTIで、ハニー・オアハカと小倉トーストをいただきます。
「うーん、美味しい」
コーヒーはいふまでもなく、カフェ・バッハの方が美味しいです。
しかし、小倉トーストの味はチートです。カリつとしたトーストに、生クリームと小倉あんを乗せた人は、天才です。文化勲章は、中西進のやうな変な万葉学者ではなく、小倉トーストを開発した人にこそ与へた方が良いでせう。なほ、中西のやうな烏滸が授与された年に私の大先輩である高倉健さんがゐました。かういふ人こそ相応しいですね。
授与された後のインタビュー、「日本人に生まれて本当によかつた」、この一言に胸が震えました。そして、富山刑務所での講演、何度見ても目が潤みます。これこそ、ぬくぬくの究極でせう。
入り口あたりに、列ができてきたので、早々に店を後にしました。
小倉トーストの朝食の後は、地下鉄に乗ります。
今回は、桜通線と名城線との全線、鶴舞線(八事駅から赤池駅)と東山線(栄駅から高畑駅)の一部に乗りました。
名古屋一帯は名鉄など乗つてゐない路線が多いので、今後しばらく通ふことになるでせう(あと大阪あたりも)。
それにしても、地下鉄の乗り潰しほど面白くないものはありません。景色は何もないし、無機質きはまりない。しかも、今回の名古屋市営地下鉄のやうに接続が悪く、列車本数が東京メトロに比べて少ないと、苦痛です。マア、けふ少しでも乗ることができたからヨシとしませう(名鉄を含め、まだまだたくさん未乗路線が残つてゐます…)。
四
再び名駅に帰つて来ました。ところで、私、名古屋駅は嫌ひです。ゴチヤゴチヤしてゐるし、人も多い。
お腹も空いてきたので、チャオであんかけスパゲティをいただきました。
時間がないので、五分で平らげました。失敗だつたのは、大盛りにしなかつたことです。
さて11番線ホームへと急ぐと、ゐました、ゐました。特急ひだ13号、富山駅行きです。
車両は、令和四年七月から投入された新型車両であるHC85系です。ハイブリッド車で、以前の気動車だつたキハ85系も良い車両ですが、それとはまた違つた良さがあります。
なほ、私は列車の性能まで詳しくなく、その点にはまつたく興味がありません。詳しく知りたい方はWikipediaあたりをご参照ください。
写真を撮つた後、車内に入り、指定された席に座り、発車を待ちます。
車内は外国人観光客が目立ちます。私は、一族総出で来日したと思はれるあだし国の人々に囲まれました。前の席に座る異国の少年がリクライニングを下ろして、隙間から私のことをチラチラ見てゐます。
この人らは、高山にでも行くのでせう。
我々日本人が外国に行くと、すぐ帰りたくなりますが、外国人がわが皇国に来ると、帰りたくなくなるさうです。だからといつて、どこかの半島人みたいに居なくて良いのに居座つたり、不法移民化されるのは困ります。たまに来て、桜花咲きにほふしきしまのやまとの国を堪能してください。
「この列車は特急列車です。青春18きつぷではご利用できません」
といふ間抜けな人、または確信犯向けの車内アナウンスが流れてゐます。
五
そして十四時四十八分、進行方向に背を向けて、名駅を出発しました。
車内に「アルプス牧場」の曲が流れます。
「すごい!」
YouTubeで何度か聴いてゐましたが、実際に聴くと鳥肌が立ちます。自然と、涙が溢れました。本当に素敵です。
かつてのやうにオルゴールでの「アルプス牧場」も良いのですが、令和には令和の車内メロディーがある、さう感じさせてくれます。
また、JR東海の特急といへばワイドビューチャイムですが、YouTubeに心ある人が編曲したものが上げられてゐます。これがまた感涙ものです。
学生時代から仲の良かつた友達。九州から北海道まで、予定が合へば一緒に旅行をし、たくさん喧嘩もした友達がゐました。その子は、子宮の病気になり、一時は出産もできなくなるといはれてゐましたが、克服しました。今では結婚もし、子宝にも恵まれてゐるさうです。
ワイドビューチャイムはその子との思ひ出が詰まつてゐる曲でもあります。かつて、二人で下呂温泉に行つた帰りに、ワイドビューひだに乗りました。その時、車内で流れてゐたワイドビューチャイム、そして飛騨牛弁当の味は忘れられません。
もし、JR東海の職員の方で私のnoteを見てをられたら、ワイドビューチャイムの復活を節に願つてゐることをこの場を借りてお伝へさせていただきます。
ちなみに、私が好きな車内メロディーは、
ワイドビューチャイム、
ハイケンスのセレナーデ、
はるかチャイム、
です。
六
車窓はよく晴れてゐます。庄内川を渡り、しばらく走ると清洲城が車窓に見えてきました。
そして、木曽川を渡ると間もなく、車窓に岐阜城が見えます。ただし、見るには体をねじる必要があります。
岐阜駅到着。ここで進行方向が変はります。数名の乗客がありました。
高山本線に入ります。しばらく列車は田んぼと住宅地のが見える田園地帯を走ります。水田には青々と稲が成長してゐる様子がうかがへます。
車窓を楽しむ中、外国人一族の中の赤ん坊が急に奇声を発します。迷惑きはまりない。ギヤアギヤアうるさいにも関はらず、スマホをいじり続ける家族。終はつてゐる人は外国にもゐるものですね。いつも書いてゐますが、私は子供が嫌ひです。それに、寛大でもありません。このやうな考へだから、私は結婚や子育てはもちろん、恋愛もできないのでせう。
そんなことよりも、岐阜と言つたら、アクア・トトぎふです。行つてみたい…。
車窓右手には犬山城も見えてきました。そして、木曽川の流れも見えます。
坂祝駅でしばらく列車交換。赤ん坊の奇声が止まりません。さすがに、まはりの家族もスマホの操作をやめて赤ん坊の相手をはじめました。それでも止まりません。仕舞ひには、動画を見始めました。
あまりにうるさいので、車内放送をあきらめて、倉木麻衣の曲を大きめの音で聴くことにしました。
十五時二十九分、美濃太田駅到着。ここから郡上八幡方面へ行く、長良川鉄道が走つてゐます。
未乗区間なので、いつか乗ることでせう。向かうのホームには、長良川鉄道の車両が発車を待つて停まつてゐました。SL時代のなごりである転車台も見えました。
列車は木曽川から飛騨川に沿つて走るやうになりました。下麻生駅の東にある上代田の棚田は、棚田百選の一つです。景色もこのあたりから鄙びてきます。
それにしても、いくら陽射しが強いとはいへ、皇国のこの美しい景色を前にしてカーテンを閉じてスマホ画面をずつと眺めてゐる人は如何なる感性をしてゐるのでせう。不思議です。
しばらく景色は崖しか見えませんでしたが、白川口駅を通過して間もなく飛騨川の車窓がこちら側に移りました。
下油井駅を通過した頃、ゴツゴツした磯が現れ、まるで小さな渓谷のやうな景色が見えるやうになりました。
ダムも見えます。そして、風情ある飛騨金山駅を、ゆつくりと通過して行きました。次の焼石駅までの景色は、高山本線のハイライトです。かつて、青春18きつぷのポスターになつたこともあります。
七
車窓右手に温泉街が見え、十六時二十八分、下呂駅に着きました。下呂といへば温泉、アルカリ性のぬるぬるした温泉で有名です。江戸時代の初め頃、林羅山は恐らく温泉に入つてゐないのに「天下の三名泉」と讃へた湯が有名です。
また大東亜戦争の時、人間魚雷・回天を開発し、自ら大津島沖にて訓練中に殉職された黒木博司少佐の故郷です。
あの時代、多くの軍人がゐる中で、少佐は楠木正成公に範を仰ぎ、平泉澄先生の学問によつて精神を鍛へられました。その胆力は、わが国軍人の鑑といふべきものです。
詳しくは、平泉澄先生の『先哲を仰ぐ』(錦正社)や『物語日本史 下』(講談社学術文庫)の末尾をお読みください。
飛騨川を下呂のあたりでは益田川と呼んでゐます。平泉澄先生は、昭和二十年五月に下呂を訪れて、
益田川 つつじの花の かげを行く 流れようつせ 友の面影
と詠まれました。
なほ、下呂のことはこちらにも少し書きましたので、併せてお読みいただけたら幸甚です。
念の為、私はアメリカがわが国に押し付けた「太平洋戦争」なる用語は死んでも使ひません(他にも、宮沢用語の「明治憲法」とか。そんな言葉をいつまでも使つてゐるから、わが国は「敗戦国」のままなんです。日本人なら、大東亜戦争、帝国憲法です)。
これに関連することを以下にも書きましたので、繰り返しになり恐縮ですが併せてよろしくお願ひいたします。
八
列車は再び益田川に沿つて走り出しました。西陽が強くなり、暑いくらゐですが清々しい。私は日光浴も好きです。
川には鮎を釣る人の姿も見えます。陽射しがあたたかくて、ウトウトしてゐたら、風情ある飛騨小坂駅を通過してゐました。
次は、渚駅です。面白い駅名で気になつてゐたのですが、山の中の小さな駅で、上りのひだ18号と交換して行きました。渚駅の西暦二〇一九年の一日の乗降客数の平均は三名で、その前の年はわづか一名でした。
なほ、渚駅は長野県のアルピコ交通にもあります。渚といつたら海を連想するのに、どちらの駅も山の中とはこれ如何。
渚駅の次の次である飛騨一ノ宮駅は、近くにの飛騨国の一ノ宮である水無神社が鎮座してゐます。島崎藤村の父、島崎正樹が宮司を務めてゐたことで知られてゐます。
外国人一族がそそくさと降りる準備を始めました。彼らがデッキに移動したのを見、イヤホンを外しました。
十七時十三分、高山駅に着きました。ここで五分間の停車時間があります。外国人一族が降り、やつと静かになつたと思つたら、また外国人の群れが大量に乗つてきました。ただ、赤ん坊がゐないので騒音はありません。とはいへ、心をかき乱され、ザワザワが治らず、嫌な気持ちでゐます。
後ろの車両を切り離し、列車は二両編成で富山駅へと向かつて北上します。高山駅を出ると、景色は川の美から山の美へと移つた気がしました。列車は田園風景の中を走り、飛騨古川駅に到着しました、ここで数名の客が降りて行きました。
九
さういへば、ここ最近のできごととして、職場の仲の良い方からお見合ひのお話しをいただきました。
「この話をした時に玉川さんが一番、反応が良かつたから、玉川さんを紹介するよ」
といふことで、骨を折つてくださいました。
後日…
「玉川さん、ごめん。例の人なんだけど…なんかもう付き合つてゐる人がゐるみたいで…本当にごめんね」
「大丈夫です、私は天涯孤独を覚悟してゐますから。それよりも、短い夢を見せていただいたこと、感謝してをります」
といふことで、私の恋はいつも巡り巡つて振り出しです。いつまで経つても恋の矢は誰かの胸には刺さらないものですね。
トンネルを出たり入つたりして、時折現れる渓谷美を見ながら、
「左様なら、左様なら、心通はぬ恋など左様なら」
などと考へてゐると、列車は打保駅で列車行き違ひのため、しばらく停車してゐました。
富山駅から来たひだ20号が駆け抜けて行くのを見届けて、ひだ13号は再び北へ向かひます。
十
十八時十七分、猪谷駅に着きました。富山県に入りました。ここはJR西日本と東海の境目で、ここより北はJR西日本になります。
かつて、猪谷駅から神岡鉄道が走つてゐましたが、すでに廃線となつてゐます。
車窓右手には、イタイイタイ病で有名になつた神通川が見えます。山の中をひた走り、空が少しずつ赤みを帯び始めた十八時二十六分頃、車窓に昭和天皇御手植ゑの杉の木と記された標識が見えました。
夕日に照らされた橋を渡り、何とも言へない美しい景色の中をしばらく走り、越中八尾駅に着きました。数名の乗客が下車して行きました。
一日の終はりにけふ最後の輝きを放つ太陽が照り、田には白鷺がひさかたの天翔けて行く車窓を見ながら、次の速星駅に停まりました。
終点まで後わづかです。速星駅で、前の席に四人の支那人の女性が乗り込んで来ました。
そして、ひだ13号は十八時五十四分、定刻に富山駅に着きました。四時間を超える草枕の長い旅、見所も多く、そして何よりも素敵な「アルプス牧場」に泣かされました。
十一
富山駅に着いて、令和二年三月二十一日に南北相通じ合つた富山地方鉄道に乗りました。私の好きな低床のLRTです。
わづかの区間(電鉄富山駅・エスタ前からオークスカナルパークホテル富山前)ですが、これで富山地方鉄道、再び完乗です。
富山は、地方復興のモデルともいふべき街です。参考までに、以下の書をどうぞ。そして、その地方復興のカギはLRTでした。
私が富山に向かふ間、富山県出身の朝乃山関が大関霧島関に勝ちました。
帰りは、富山駅から十九時四十分発のかがやき516号で帰ります。イヤァ疲れた。電車に乗りつ放しといふのも、結構疲れるものです。
上野駅に二十一時五十分に着きました。旅の終はりは陽だまりの泉 萩の湯のサウナに入ります。
そして、明日はカフェ・バッハに行きます。先日、バッハのカップメニューを全て飲みました。今度、バッハのオススメコーヒーについて書いてみようかな。
最後までお読みいただき、ありがたうございました。