湊川神社参拝記(続 長崎の旅)
1、長崎の帰り道
いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
前回書きました長崎旅行の帰り、順調に行けば東京の家に二十三時頃着くはずでした。しかし折りからの大雨、愛知県で線状降水帯発生の影響で新幹線が進まず、新大阪駅で足止めを喰らひました。
私の乗つてゐたのぞみ56号は、広島駅や福山駅にたびたび停車し、列車は三時間以上遅れて新大阪駅に着きました。相生駅では一時間近く停車し、新神戸駅や新大阪駅近くでも長く停まつてゐました。新大阪駅に着いたのは二十三時半を過ぎてゐました。改札内には人だかりができてゐます。床に座つてゐる人、払ひ戻しに並ぶ人、駅員に質問してゐる人など、色々な人がゐました。
降る雨は あはにな降りそ うちひさす 都に我は けふ帰るため 可奈子
私の祈りの歌も虚しく、尼崎のサンホテルに急遽、宿泊しました。終電間際の新快速に乗り、尼崎駅で降りて駅前でタクシーに乗りました。ホテル到着は十二時を回つてゐました。深夜なのに、元気の良いホテルマンに労はれました。いふまでもなく、マッサージを呼ぶには時間が遅過ぎました。
疲れてゐてすぐに寝たいのに、あまり寝られないまま、朝を迎へました。
東海道新幹線は今朝の時点で、新大阪駅と名古屋駅間、三島駅と東京駅間のみの運行でした。正午過ぎからのぞみが動くといふ情報を得てゐましたが、せつかく関西に来たので、神戸に足を伸ばしてみました。
2、ナダシンの餅
サンホテルの最寄り駅は、阪神線出屋敷駅です。阪神線なので、甲子園駅…でありません。ところで、水道橋駅の発車メロディーは「商魂こめて」ですが、甲子園駅は高校野球の時期にその時々の曲になるさうですね。
大石駅を目指します。大石駅は私の大好きなナダシンの餅の最寄り駅です。
大石駅を降りて歩いて五分程度のところに、ナダシンの餅本店はあります。お好みセットを四つ購入しました。今日はチートデーです。
津のくにに うましものあり 水に酒 肉よりすぐる つきたての餅 可奈子
お読みいただいてゐる皆さんも、機会があればナダシンの餅を食べてみてください。安いですし、なによりも美味しいですから。
3、湊川神社へ
大石駅から次は高速神戸駅に向かひます。高速神戸駅には何度来たことでせうか。改札を抜けて、右に曲がり、階段を上がると、そこには大楠公、つまり楠木正成公をお祀りする湊川神社が鎮座してゐます。
湊川神社は、この地で延元元年五月二十五日に討ち死にされた楠木正成公をお祀りしてゐます。その創建は、明治五年五月二十四日でした。五百年を超える年月を経て、楠公は神としてこの地に祀られたのでした。
なほ、楠公について詳しく学ばれたい方は、平泉澄先生の『物語日本史 中』(講談社学術文庫)をお読みください。
私は、ある地方の高校で日本史を教へてゐた時、楠公のことで次のやうなエピソードがありました。
生徒から、
「楠木正成のことを先生は尊敬してるつて言ひますけど、どんなところを尊敬してゐるんですか?」
と質問されました。なほ、彼は野球部のキャプテンです。
私は次のやうに答へました。
「楠木正成公は、男の中の男だと思つてゐます。男の中の男の定義とは、自分の命よりも重たい何かに命を捧げることができる人のことです。
楠木正成公にとつて、自分の命よりも重たいもの、それが後醍醐天皇でした。だから、彼は千早城でも、湊川の戦ひの時も、死を覚悟して戦つたのでした。
さうした姿勢は、後の人からも尊敬され、水戸の徳川光圀をはじめ、吉田松陰先生など志士と呼ばれる人から崇められたのでした。
そして、自らの功績よりも、熊本の菊池氏を讃へ、一歩引いてゐるところ。息子の正行も父に続いたところなども、尊敬される理由の一つでせう。…」
生徒らが真剣な顔で私の話しに耳を傾けてゐたのを今でも忘れません。
それからしばらく経ち、生徒たちが、
「楠木正成もかつこいいけど、楠木正行つてかつこいいよね、敵を助けたりしてさ」
と友達同士で話してゐるのを聞き、少しでも私の思ひが届いたことを喜んだことがあります。
いくたびも 生まれかはりて あだを撃つ たけくさやけし まめこころはも 可奈子
湊川神社は、楠公を尊敬する者にとつて「聖地」のやうなところです。
ちやうど神職の方々や巫女さんが、境内を掃き清めてゐました。
玉垣を 掃きて清むる 祝部の その真心を うづなふらしも 可奈子
このオリーブの木はわが国最古のものださうです。
七五三のお参りをしてゐる家族が数組ゐました。幸せさうで何よりです。私は、なかなか出会ひや出会つてから進展がないので、彼らの幸せの程度はわかりませんが、それでも楽しさうに見えました。その親子がこれからも無事であつてほしいです。
私も、楠公の神前に参拝しました。そして、殉節の地にて拝礼しました。ますらをの俤を見た心地がしました。
なつかしき きみの姿を ここに見て いにしへ今に 思ほゆるかも 可奈子
このやうなこともされてゐるんですね。この方、前に「ごりやくさん」に出てゐましたね。素敵な方ですね。私が男で、この方の彼氏だつたら、毎日でも歌を送つてしまひさうです。
楠木正成公については、こちらの看板をご覧ください。とてもわかりやすくまとまつてゐます。
徳川光圀公の建てられた「嗚呼忠臣楠子之墓」にも参拝しました。橘曙覧先生の御歌が思ひ出されます。
湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝折り伏せて 嗚呼といふめり
そして、曙覧先生が楠公の家風を想像されて詠まれた、
一日生きば 一日心を 大皇の 御為に尽くす 我が家の風
の歌の心が、この清浄の地を通じて伝はつてきます。
なほ、楠木正成公が、真木和泉守や佐久良東雄先生から尊敬されてゐたこと、ナダシンの餅のことなどは、こちらにも書きましたので併せてお読みいただけたら幸甚です。
ますらをの こころ思ほゆ 湊川 絶えぬ流れを 汲む人や誰 可奈子
4、東京への帰り道
参拝後は、JR神戸駅から新快速に乗り新大阪駅まで来ました。新幹線乗り場近くはものすごい人です。幸ひ、払ひ戻しできるきつぷはどこでも良いとのことなので、東京に帰つてからすることにしました(無事にできました)。
のぞみの自由席で帰らうとしましたが、ホームの人だかりがすごくて、最後尾がどこかもわからず、名古屋駅行きのこだまに乗りました。さういへば、関西も米原駅のあたりも雲はかかつてゐますが、晴れてます。
名古屋駅に着きました。下り列車のホームの階段に妙な列ができてゐました。そして、改札階に降りてみると、とんでもない数の人が…。名古屋駅始発ののぞみに乗ることを一瞬考へましたが、望みを捨てました。帰るための選択肢は以下のとほりです。
一、名古屋から昼行バス(新東名スーパーライナー)に乗ること。
二、中央線経由で東京まで帰ること。
三、混雑に耐へて新幹線に乗ること。
四、とりあへず名古屋観光をして、ある程度時間が経つてからのぞみに乗ること。
三は最速で東京に帰ることができますが、人ごみが苦手なので、即消えです。
四は特に名古屋ですることもないし、少し疲れてゐるのでやめました。
二は、新たにきつぷが必要なのと、乗り換へが面倒です。
そこで消去法で一を第一候補としました。人ごみをくぐり抜け、JRバスのきつぷ売り場に行き、自動券売機で新東名スーパーライナーの空き具合を確認すると……奇跡的に、一席空いてゐました。
といふわけで、以前よく乗つた新東名スーパーライナーに乗車して帰ることにしました。車内は満席で、座席も新幹線に比べると狭く感じられますが、私はバスが好きなので問題ありません。発車前に運転手が、
「新東名が通行止めになつてをり、東名を走ります。途中、一般道に降りたりします。結論は滅茶苦茶遅れます」
と言つてゐました。私は新幹線の混雑よりマシだらうと楽観してゐました。
新東名をしばらく走り、通行止めになつてゐるので、途中下道から東名へと入りました。由比のあたりで渋滞になり、ノロノロ運転が続きましたが、蒲原あたりで解消しました。結局、バスは二時間半の遅れで運転してゐました。
途中、由比のあたりで外を見ると、暗闇の駿河湾が見えました。さういへば、『万葉集』の巻第三には次の歌が収められてゐることを思ひ出しました。
昼見れど 飽かぬ田子の浦 大皇の みことかしこみ 夜見つるかも (巻三・二九七)
田口益人の歌です。ちやうど、彼と同じやうに、昼間に見ても飽きない田子の浦を夜見ることができたのです(天皇のみことをかしこんではゐませんが)。
なんとか、霞ヶ関まで帰つて来ました。ここから地下鉄に乗り、家まで帰りました。
死中に活あり、といひますが、今回はまさかの自然災害に困惑しながらもうまく対処できたと思ひます。「過去に経験がある」といふのは、私のやうな人には大きな武器になります。私は地下鉄サリン事件のやうな歴史的な事件を中学生の時に経験してゐるので、多少の交通トラブルには対処できると思つてゐます(ただ、人間関係や仕事だとさうは行かないのが難点です)。ただ、傷付くやうな出来事は避けたいです。
たまにはかういふ経験も自分の人生を豊かにしてくれるので、それはそれで良かつたです。今回の大雨の被害に遭はれた方々には、あつくお見舞い申し上げます。
でも、かういふ思はぬ事態はなるべく避けたいですね。よく難が有る方が「有り難い」人生などと言ひますが、「難があつてありがたう」つてドMでは…。私は難が無い「無難」が良いです、できるなら。甘いナダシンの餅を食べながら、そのやうなことを考へてゐました。私は、人生もお菓子も、そして恋愛も甘いのが良いです。辛いのは嫌です。でも辛(から)いのは好きです。
今回も最後までお読みいただき、ありがたうございました。