北関東の旅 上
ときわ路パス
某年某月某日、ときわ路パス(正しい仮名遣ひでは、「ときは」になりますがご了承ください)といふフリーきつぷを利用して茨城県内と栃木県の一部を巡りました。ときわ路パスは不定期に発売されるきつぷで、利用できる時期にムラがあるので注意が必要ですが、とても便利なきつぷです。「ときは」の名の如く、長く長く残つてほしいきつぷです。
このきつぷの注意点の一つには、上野や東京などの都内の駅で購入できない点にあります。以前、北千住駅のみどりの窓口で購入しようとしたところ、「ここでは扱つてをりません」と断られました。
初めて、ときわ路パスを使つたのは、三年前の春でした。今回も前回とほぼ同じ旅程です。
大宝城と関城
前日の夜に、取手駅前の東横インに泊まりました。明日は早いので、取手の地酒である君萬代を飲み、すぐに寝ました。君萬代とは素敵な名ですね。余談ですが、茨城県の木内酒造(ネストビールで有名)では菊盛といふお酒があります。由来は菊、つまり皇室が盛んになるようにと藤田東湖先生によつて名付けられました。なほ、東湖先生のお好きなお酒は剣菱です(「頃来一斗剣菱春…」と詠んだ詩に明かです)。
今朝、取手駅にてときわ路パスを買ひました。ここから関東鉄道常総線に乗ります。いかにも、ローカル線です。しばらく、住宅地の中を走り、景色も単調です。水海道駅を過ぎると、田園風景も見えてくるやうになります。
最初の目的地は大宝駅です。ここは、大宝八幡宮(創祀は大宝元年、西暦701年)が鎮座してゐます。そして、大宝城のここで吉野朝廷側について戦つたのが、下妻政泰です。彼は、高師冬と戦ひ、討ち死にしました。彼の顕彰碑が、本殿の裏手に建つてゐます。その撰文は、当時東京帝国大学教授であつた平泉澄先生です。
正漢字を当用漢字に、片仮名を平仮名に改めて、記します。
この碑文は、平泉先生に学ぶ者にとつて、千古の名文です。南北朝時代について、理解を深めたい方は、平泉澄先生の『物語日本史 中』をお読みください。
鶏が鳴く 東の国の ひたちなる 城に籠りて 果てし君はも 可奈子
境内には、犬養孝先生の万葉歌碑もあります。
筑波嶺の さゆるの花の ゆ床にも かなしけ妹ぞ 昼もかなしけ (巻二十・四三六九)
(筑波山に咲く小百合のやうに、旅の寝床でも、私の恋人は昼も愛しいものである)
常陸国の防人の歌です。大舎人部千文の歌で、彼にはもう一首の歌が伝はつてゐます。
あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍に 我は来にしを (巻二十・四三七〇)
(霰が降るといふ鹿島神宮の神様に無事を祈り、天子様の軍に私は来た)
「さゆるの花」は小百合が訛つたものです。「ゆ床」は夜床、「かなしけ」は愛しきです。訛りが強く出てゐます。後者の「あられ降り」は鹿島の枕詞、「皇御軍」は集中で、唯一見られる表現で、「天皇の軍隊」のことです。
ちなみに、常陸国の防人歌には、防人歌中で唯一の長歌があります。
足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く
荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く
馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは斎はむ
諸々は 幸くと申す 帰り来までに (巻二十・四三七二)
(足柄の峠を越えることを許されて、故郷を返り見ることもなく私は超えて行く。勇気ある男子も行きはばかるだらう、不破の関を私は越えて行く。馬を筑紫の崎まで進め、そこに留まり、私は無事を祈らう。故郷の人たちは、無事であれと祈つてをる。帰るまで)
これらの歌は、天平勝宝七年(755)二月十四日に兵部少輔・大伴家持に呈上されました。家持はこれらの歌を見て、きつと胸に迫るものがあつたでせう。家持は彼らの無事を祈り、
今替はる 新防人が 船出する 海原の上に 波な咲きそね (巻二十・四三三五)
(今、交代して行く防人たちが船出して行く、海の上に、波や来ないでくれ)
と歌ひました。困難に負けない勇気、そして国、家族を思ふ情。これこそがわが先祖が大切にして来た精神でした。
大宝駅から再び列車に乗り、北に向かひます。すぐ隣の駅である騰波ノ江駅で降ります。かつて、この地には騰波ノ江といふ湖があり、筑波山に登つたと見られる高橋虫麻呂が歌に残してゐます。
登筑波山歌一首幷短歌
くさまくら 旅の憂へを 慰もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 騰波の淡海も
秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日に 思ひ積み来し 憂へはやみぬ (巻九・一七五七)
(旅の苦しみの慰めにならうかと、筑波山に登つて見ると、すすきの穂が散る師付の田に、雁も寒々と来て鳴き、新治の騰波の淡海にも秋風が吹いて波が立つ。筑波嶺のよい眺めを見れば、長き日々を悩みながらやつて来た苦しみは軽くなつたものです)
反歌
筑波嶺の 裾廻の田居に 秋田刈る 妹がり遣らむ 黄葉手折らな (巻九・一七五八)
(筑波山の裾のまはりの田に稲を刈る、あの人のもとに送る黄葉を折つて行きたいよ)
一体、騰波の淡海が、どこにあつたのか皆目わかりませんが、私は関城を目指して西に歩きました。
古への 騰波の淡海は 知らねども 今も聞こゆる うぐひすのこゑ 可奈子
徒歩二十分ほどのところに小さな関城跡があります。ここは北畠親房公が北朝方と戦つた地です。興国二年(1341)に小田治久から小田城を追はれた親房公が、ここに移られました。その後の戦ひは二年にわたりましたが、敗北し親房公は関城を脱出しました。そして、戦ひの最中、どちらにつくか迷つてゐる結城親朝に「関城書」を送り、大義を説きました。「関城書」については平泉澄先生の『傳統』(原書房)中に「関城書弁護」があります。「涙なくては読めない」と言はれる程の名文と、平泉澄先生は「関城書」を評価してをられます。
なほ、『神皇正統記』は、さらに東に行つた小田城で書かれました。関城でも加筆がされてゐたと看板にあります。『神皇正統記』について、私は平泉澄先生の次の一節を常に意識するやうにしてゐます。
SLもおか号に乗り二宮翁を偲ぶ
さて関城を後にして、再び常総線の客となり北上すると下館駅に着きます。
ここから真岡鉄道に乗ります。元々は国鉄真岡線でしたが、後に第三セクター化されて現在に至ります。
真岡鉄道といへば蒸気機関車、SLもおか号です。会社側はネット予約を勧めてゐます。生憎、ネット予約を忘れてゐた為、当日券に賭けましたが、無事に入手できました。前回、訪ねた時は武漢熱禍で乗れませんでしたが、今回は無事に運行されてゐたので乗車します。
まがな道 けぶり立ち立て 下毛野 真岡の野らに 子らが手を振る 可奈子
オハフ50系を運用してゐるのは、ここだけでせうか。クーラーもなく、扇風機が回つてゐますが、外の風も気持ちが良いですね。煤が入つてきますが、気にする程のことはありません。車内アナウンスと共にハイケンスのセレナーデが流れると、かつて、あさかぜや富士、さくらといつた寝台特急で旅をした時を思ひ出します。汽笛の音と共に、胸に迫るものがあります。ジョニー・ハイケンスは優れたオランダの音楽家でしたが、ナチスを支持してゐたといふことで戦後、抹殺されました。セレナーデはわが国でも大東亜戦争中に、ラジオで流されるなど、よく知られてゐました。
※はやぶさ・富士の最終運転の車内放送は何度聴いても涙が出ます。私は最終運転の前日に、大分から東京まで富士に乗つてゐました。
途中、久下田駅は二宮尊徳翁ゆかりの地(桜町)で、復興に携はつた地です。平泉澄先生は『日本学叢書 報徳外記』(雄山閣)の解説(『先哲を仰ぐ』にも収められてゐます)で次のやうにこの地でのことを書き記してゐます。
真岡駅を経て、茂木駅まで蒸気機関車の旅を楽しみました。のどかな車窓は日々の疲れを癒してくれるでせう。そして、蒸気機関車の汽笛の音は、不思議なもので何故か涙が出さうになります。茂木駅でおそばをいただき、今度は普通列車で下館駅に戻りました。
あしはらの 豊あきつしま
とりがなく 東の国
下毛野 真岡の田井は
あまざかる ひなにあれども
あしたには 白鷺かけり
ゆふへには かはづ騒けり
春辺には きぎし妻よび
秋立てば ひぐらし来鳴く
この国の まがなの道に
笛の音の とどろく聞けば 古へ思ほゆ
反歌
下毛野 国もとどろに 鳴る笛を また聴きに来む いや年のはに 可奈子
水戸に行きつつ
下館駅から水戸線に乗ります。以前の記事(大回り乗車の旅)で、水戸線について少し触れましたので、どうか併せてお読みください。
車窓左手には筑波山が見えます。
筑波嶺に かか鳴く鷲の 音のみをか なき渡りなむ 会ふとはなしに (巻十四・三三九〇)
(筑波山にカァカァと鳴く鷲のやうに、泣き続けて暮らすのだらうか。おの人に会ふこともなく)
筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水 よにもたゆらに 我が思はなくに (巻十四・三三九二)
(筑波山の岩もとどくやうに落ちる水、その水のやうに絶えてしまふことなど私は思うはない)
筑波嶺の とてもこのもに 守部すゑ 母い守れども 魂そ合ひにける (巻十四・三三九三)
(筑波山の至るところに守る人を置くやうに母は私を男から見守つてゐるけれど、あの人と魂が結ばれてしまつた)
水戸に着きました。水戸といへば修史事業が大変よく知られてをります。そして、その修史事業から生まれたのが水戸学です。水戸学といへば、藤田東湖先生や会沢正志斎が思ひ出されませう。その水戸藩を平泉澄先生は次のやうに端的に評価をされてゐます。
平泉澄先生の『先哲を仰ぐ』(錦正社)を見てみませう。
かうした事実を簡単に学びたい人は、「天下一の学校」を目指して立てられた弘道館、そして常磐神社にある義烈館(令和四年六月一日から休館)を訪ねてください。常磐神社は義烈両公、すなはち徳川光圀、徳川斉昭の二柱の御霊をお祀りしてゐます。
また、錦正社から出版されてゐる水戸学関係の諸書をお読みください。オススメは以下の三冊です。
今日は、水戸に立ち寄りませんでしたが、江戸、すなはち地元にゐても小石川や隅田公園で水戸の風を十分に味はふことができます。それに将軍は定府でしたし、後期水戸学の藤田東湖先生も江戸で活躍なさいました。
ミニさむに会ひに行く
水戸駅から勝田駅に行き、ここからひたちなか海浜鉄道に乗り、阿字ヶ浦駅を目指します。
那珂湊駅には、猫駅長のミニさむがゐます。以前は、黒い長毛種でモフモフのおさむがゐました。おさむには会つたことがありませんが、ミニさむには以前来た時に会ひました。
途中の、美乃浜学園駅にある美乃浜学園は、『万葉集』に由来がある校名です。
磐城山 ただ越え来ませ 磯崎の こぬみの浜に 我れ立ち待たむ (巻十二・三一九五)
(磐城山を越えて、来てくださいね。磯崎のこぬみの浜に私た待つてゐませう)
女性の歌です。恋人を待つ、素敵な歌ですね。原文の「許奴美乃浜」から取つたのでせう。
現代、多くの学校が合併などに伴ひ、出典もない美辞麗句を並べたやうな校名になつてゐるのを見ると、美乃浜学園の由来はとても素敵だと思ひます。どこかの女子校(現在は共学校)とはまるで違ひますね。学校名がキラキラネームなのは、その学校の卒業生も嫌でせう。
なほ、私は「キラキラネーム」といふ表現はやめた方が良いと思つてゐます。それよりも、「馬鹿親ネーム」とでもした方が良いのではないでせうか。何故なら、いはゆるキラキラネームを付けた親は子に良い名前を付けたと思つてゐますから。
閑話休題。終点の阿字ヶ浦駅からしばらく海に向かつて歩いて行くと、温泉があります。温泉に行く前に、駅近くの堀出神社を参拝します。ここは義公・徳川光圀ゆかりの神社です。また近くには、ほしいも神社といふ神社も鎮座してゐます。
阿字ヶ浦温泉のぞみは、サウナ(ミスト)も水風呂もあり、ぬるめの露天風呂が気持ち良いです。茶色い湯で、舐めると塩の味がします。汗がよく出て、お肌が締まる感覚があります。風呂上がりはよく暖まり、さらにお肌がすべすべになつたやうに感じました。なほ、私は人生も風呂もぬるめが好きですが、サウナは熱いのが好きです。
じつくり温泉に入つた後は、再び勝田駅に戻ります。那珂湊駅で途中下車し、行きに会へなかつたミニさむに会うことができました。有難いことです。私の顔を見たら逃げてしまひましたが、可愛いですね。駅員さんによると、もう十三歳位ださうです。勝田駅からは、特急ひたち号で上野に帰りました。
那珂湊 駅にこもれる 老い猫ま 見れば見るほど 愛しかりけり 可奈子
さて、常磐線の途中駅ですが、ひたちの牛久駅には二所ノ関部屋があります。二所ノ関親方、さう横綱稀勢の里関です。今でも、照ノ富士関に勝つた優勝決定戦は感動します。貴乃花関の優勝並みに感動した一番です。私の好きな中村親方(元、嘉風)も在籍してゐます。
そして、龍ヶ崎には式秀部屋があります。私の大好きな式秀親方(元、北桜)の部屋です。親方は真心の人です。詳しくはWikipediaをご覧ください。奥様にビーズを送られた話など、涙なくては読めません。初めて両国国技館で観戦した際、一緒に写真を撮つてくださつたこと、本当に忘れられません(弟子に珍妙な四股名を付けてをられますが…それをいふと、不了見綾丸とかはどうなるのだといふ話しですが)。
茨城県は魅力のない県といはれ、アンケートのやうなもので最下位にあるさうですが、私には信じられません。素敵な海も、万葉の昔から歌はれた筑波山も、そして国民の心を奮ひ立たせた歴史も、私の心を楽しくするものばかりです。
最後までお読みいただき、ありがたうございました。続編もお読みいただければ幸甚です。上野三碑を訪ねてゐます。
(続)