たましいはどこにある? / 塩田千春展「魂がふるえる」
人は圧倒的なものと対峙すると自然と涙が出るのかもしれない。
追い立てられるような焦燥と不安感。
対して、全てを許されているような安堵感。
その狭間でグラグラと揺れ動く心を包み込んで、優しく存在する空間。
写真では伝わらない、ということをこんなにも強く思った展示はないかもしれない。
塩田千春展「魂がふるえる」を観てきた。
糸やロープを使ったダイナミックなインスタレーションを中心に、作家の幼い頃から現在までの作品を一堂に見られるボリュームのある展示だった。
小さな身体に収まりきらない魂の解放。
時に血流のように暖かく、時に死のような静けさを伴って、圧倒的な力で包み込まれるような空間。
これを落ち着かない、怖い、という人もいるけれど、私は不思議な安心感に包まれていた。
たましいってなに?どこにあるの?
と、問う作家の作品は、目をそらせないくらい魂そのものを見せつけられているようなものばかりだ。
この安堵感、覚えがある。
私も作家と同じく、身体と心の乖離を感じる時代を確かに送ってきたことがある。
それは多くの若者における共通言語なのかもしれないけれど。
ふと自分を俯瞰するような感覚。
宇宙の彼方から小さな小さな消えてしまいそうな自分の魂を漂わせている感覚。
この手は、この指先はなんで動いているんだろう。
血は、皮膚は、細胞は、生まれて死にを繰り返して、私は一体どの時点で完成形となるのだろう。
身体はただの入れ物なのになぜ感情は身体に支配されてしまうのだろう。
そんな気持ちを作家が代弁してくれるかのように、大きくて、優しくて、冷たくて、生々しい魂の粒子を形にされた作品。
それに包まれているような時間。
いつまでもここにいたい気持ちがあった。
こういう表現者がいるから、救われる人もたくさんいるんだろうと思う。
苦しくて苦しくて悲しみに暮れている人が、アートを通して希望を見いだすのは夢のような美しいシナリオだ。
私はそれを見たいし、気持ちのざわめきや心地よさや切なさ、全ての感情をそのまま受け入れたい。
そういう自分を大切にして、大きな世界の中の小さな私として許しながら生きていくことを誓った。
たましいはどこにあるんだろう?
私のたましいは、幼い頃から宇宙の彼方から優しく私を見下ろしていて、今も変わらない。
だから今日も、明日も、安心して生きていける。