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体育の成績が"2"だった私が黒帯をとるまで #1【挫折】

基本、来た仕事は断らないタイプだ。
出来るかどうかよりも、やるかやらないか、だし。
ほんと、気合だけはそういう感じ。昔から。

大体のことはその気合で乗り切ってきてたが、やるやらない以前に「出来るかどうか」が必要になることもいっぱいあるんだよ。
ってことに気付いたのは上京から数年経ったある日。時すでに遅しなんだけど、何とかしなくてはと今まで見て見ぬふりをしてきた「運動へのコンプレックス」を見つめなおす機会を探してた。

■私って運動神経が無いのかも…と気付いたのは学生時代

授業をサボるタイプでもなかったし、割と真面目にジャージも着用していたけど、マット運動ではマット上で終わったことがない。マット運動のセルフ脱線事故だ。

球技は特にひどい。ドッジボールがトラウマだったこともあってか、どんなボールであろうと逃げる癖がついてしまっていた。
バスケならドリブルが自分のつま先にあたりコロコロ…
ソフトテニスではラケットを盾にしていた。
もう無理ー---!!!と叫んでいたら、口じゃなくて手を動かします!!と逆に先生に言われたこともあった。

道具を使うことや、複数人でやらなければならない運動がことごとくダメだったので、ダンスの授業だけはリーダーシップをとって頑張った。
自分の身体だけでやれるものなら少しマシだったというだけだけど。

運動が出来ないなら出来ないなりに、それでも授業はサボらなかった。

しかし学期末の成績表には、体育の項目に「2」(5段階評価)があった。
どんなに授業に出てもやる気があっても、出来ないと2なんだって少し凹んだ。

■出来ないなら「やらない」を選んだ学生時代後期

中学は部活が強制ではなく任意だったので帰宅部。代わりにダンススタジオに毎日通っていた。
高校時代は部活が強制だったので迷わず文化部へ。毎月FM仙台に通ってラジオに出演するっていうなんだか代わった部活動。

一人で黙々作業が昔から好きだったのもあって体育会系とは真逆の学生時代だった。
大学も体育の授業はテニスかゴルフの選択制。より走らなくて済みそうだとゴルフを選択。ま、ゴルフもなかなかにハードだったんだけど。。。

とにもかくにも、動かなくて済むならそちらを選んでいた。その当時はダイエットとかを本気で頑張ってみたこともなかったし、筋肉のあれこれも一切わからないし、身体はずっと硬いまんまだった。


■突然頑張るから、突然のけが

ダンスを踊って筋肉痛になることくらいしかやってきていないから、ある意味限界もわからない。とにかく自分の身体のことはなんにも分かっていないのだ。

3度目の舞台の稽古中、それは突然やってきた。
日々の稽古疲れも重なって身体は痛いし眠いし、置いていかれてはマズイとただただ焦っていた。

ダンスの集中稽古で、私は大開脚のセクシーな振り付けをもらった。鏡を見ながら何度も練習。しようと思った。
パッと脚を広げたら、股関節がピキっと変な音を立てた。ちょっと痛かったけど、その日の稽古は特に問題もなく終わった。

帰宅後、お風呂を終えてふと鏡を見たら、左臀部からハムストリングスにかけて真っ黒い何かが見えた。稽古着の色落ち?そうではなかった。
股関節から内出血をして左太ももの後ろ側が大惨事になっていたのだ。
自分の脚なのに今日半日も気が付かずこんなことに?!と驚きを隠せなかった。

翌日、幸運にも本番前最後の稽古休みだったので、朝一で整形外科へ駆け込んだ。
「鈴木さん、よく歩けますね。かなり酷いですよ…」
うっそ、ごめんなさい。歩くどころか踊っていたし…
診察の結果、重度の肉離れとのこと。さらに、
「しばらく絶対安静ですよ、痛くないのなら歩いてもいいですがスポーツは禁止です」

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