モンスター
なぜ、愛を知ってしまったんだろう…
【ストーリー】 1986年。娼婦としての生活に疲れきっていたアイリーン・ウォーノスは、ある夜立ち寄ったバーで、同性愛者の少女セルビーと出会う。アイリーンは、純粋に自分を慕ってくれるセルビーに希望を見出し、2人で新しい生活を始めるため最後の客を取る。しかし、烈しい暴力を受けたアイリーンは男を射殺してしまう。セルビーを連れて逃げ出したアイリーン。「彼女のためなら何でもする」。その決意は、次第にアイリーンを追い詰めていく。
お薦め度: ★★★★☆.
「アイリーンは救われたのか?そうではないのか?」ととても判断に悩む作品です。「愛の行為」にここまでダメだしをした作品は珍しいと思います。
大作系の美しく賛美された恋愛に不信感をお持ちの方は是非!(苦笑)
私が見て最初に感じたことは「この愛によって一体何人分救われたのだろう」ということです。
■アイリーンの生き方(プライド)
冒頭はアイリーンが自分の少女時代を回想するセリフとそのイメージ映像で展開されます。子供時代に「有名になりたい」「女優になりたい」という夢は比較的だれでも憧れを抱くことです。 しかし、アイリーンは田舎町でスカウトされることをただ待ち望み、その夢に対して何らかの努力を払ったという描写はただのひとつも描かれていません。
真剣にあこがれるのなら、ダンスの練習をするとかブロードウェイに単身乗り込むといった何らかの努力を払うべきなのですが彼女はただ幸運を待ち望むだけです。そしてそんなものはありえないと気がついたときには既に遅く、娼婦というレッテルを貼られています。
アイリーンはセルビーに恋をし、彼女のために生きようとします。ここで周りを拒否して生きてきたアイリーンが、他者を受け入れて、これまでの生き方を変えようとしている。そのための最後の客があのような男だったことは同情に値します。
男を銃殺して半狂乱になって泣き叫び、約束の時間に遅れたことを恥じ、身なりを整えてセルビーの元へ向かうアイリーン。一週間で良いから私と一緒にいて欲しいと切望する彼女の姿には胸が痛くなります。
私はここで、彼女達が一週間で幾年かの別れの間の思い出作りのためにささやかな生活をおくり、それを描く作品なのかとおもいました。
では、一週間経ったら彼女を自宅に送りかえし、自首するのかといえばそうはなりません。セルビーとの生活がすっかり楽しくなった彼女は、自分が殺人を犯したことに対する後悔をけろりと忘れています。
アイリーンはセルビーのために真っ当な職業に就こうとし、その為の努力をします。しかしその努力は余りにも見当違いです。
娼婦という職業はアイリーン自身も自覚しているように「真っ当ではない」職業です。その職業を辞めて次の仕事に選ぶものが「獣医」「弁護士秘書」という猛勉強の末に取得できる資格の必要な職業。面接を受け履歴書を持参していないことを指摘されて激怒し、そうかと思えば職業案内所でようやく斡旋してくれる「工場」の仕事を拒否します。
プライドが高い故に、自分を受け入れてくれるようなささやかでも真っ当な道(工場の仕事)では彼女は満足できないし、面接に履歴書を持参しなかったという非難を、自分が娼婦だから差別していると判断します。
アイリーンは「自分が惨めなのは世の中のせいだ」と本気で思ってるでしょう。
しかし本当は彼女自らが自分を惨めに貶めている。彼女が社会に受け入れられないのではなく、彼女のほうもそのプライド、あるいは怠け心のために社会を拒否している。
彼女が社会に要求しているのは分不相応な地位です。それを望むのは別に悪いことじゃない。ただその地位を得るために誰もがする最低限の努力も払わずに地位だけを社会に要求し、自分の正当性を主張する。
■セルビーの生き方(愛の形)
アイリーンはセルビーという少女に恋をします。ダメ人間の愛の物語です。
アイリーンは、本当にセルビーを愛しているのですが、もともとの性根が上記のようなために、彼女の望むものを与えることはできても、本当に彼女のためになることが出来ません。本当の意味で彼女を幸せにしてやることができない。
この愛は連続殺人という悲劇を巻き起こします。その直接の原因は愛する相手がセルビーだったということでしょう。
二人がレストランの禁煙席で喫煙を咎められる下りがあります。
喫煙を咎められたアイリーンは逆に注意をした客に暴力を振るい、周囲の人間は冷ややかな目で彼女を見つめます。ここで一緒にいたセルビーがどのような行動に出たのかというと、ただそばでゲラゲラ笑うだけです。正直ここには凹みました。
アイリーンは元々人として真っ当な判断を下せずにいる人です。
しかし、もしセルビーが真っ当な人で、真っ当な生き方(ここで言うならば彼女の行動をたしなめる)をアイリーンに指し示すことが出来たなら、きっとアイリーンはそれに従おうとしたと思うのです。しかしセルビーにはそれができない。彼女は自分のことしか考えてない少女だからです。
セルビーはわがままで、享楽的で、自分の保身を第一に考えている。自分では何一つしようとせず、自分を甘やかしてくれないからといってはアイリーンを責め、かつアイリーンには不誠実です。
セルビーも一応はアイリーンがこんなことするのは良くないとわかっていても、今の気持ちいい生活のためにやめさせることができない。
自分を甘やかして欲しいがために、アイリーンが娼婦を辞めたことを激しくののしり客を取るようにと責め立てる。警察からの追跡を逃れるための逃走にバスを利用することを嫌がり「車を取ってきて」と言う。(既にアイリーンが殺人を犯していることを知っているのですからここで「車を取ってきて」と要求することは「人を殺してきて」と同義なのですが、セルビーにはその自覚はありません。さらに後に「どうして私が逃げなきゃならないの?私がした事じゃないのに」と言えてしまうのです。そのお金で遊びまわっているセルビーも同罪だというのに。)
彼女たちの望みは、誰もが夢見るような典型的な幸せの形です。けれど彼女たちはそれを手に入れるための適切な努力をしなかった。他人のものをむしりとって、それを得ようとした。彼女たちは真っ当な努力する道があったにも関わらず、努力することがイヤで、そんな道を選んだ。
■愛の力
私は恋愛というものは概ね一方通行だと思っています。しかしそれにしてもこの作品の二人のすれ違いぶりはすごいものがあります。互いに愛し合ってはいるものの、確固たる隔たりがあり一度として交わりを見せることがない。
アイリーンは搾取されるだけの愛しか知らないのでセルビーの搾取するだけの愛になんら疑問を持つことがありません。セルビーはセルビーで、依存するだけの生活に慣れているために、自分からはなんの努力も払わない。
アイリーンは「どうすれば幸せになれるのかわからない」と言い、セルビーも「ただ普通に幸せになりたかっただけなのに」と嘆きます。それは彼女たちの心からの叫びであり、その悲しみには心が痛みます。
けれどその愚かさゆえに彼女たちの愛は汚辱にまみれてしまった。
愛とは「至上のもの」でも「崇高なもの」でもなく、単純に「感情のひとつ」「何かを成し遂げる力(≒エネルギー)」でしかありません。 どんなに心から愛しても、力の使い方を誤ればこのような結末を迎えることだってある。
アイリーンは最後に「愛は万能」「夢は信じればば叶う」「信念は山をも動かす」という訓示に「勝手に言ってな」と吐き捨てます。 彼女の言葉は非常にやるせない気持ちにさせられます。
私は「この愛によって一体何人分救われたのだろう」と思います。
恋愛というものは(加点方式ならば)二人分は幸せですし、ストーカーのような愛でも一人分は幸せです。しかしこの愛は誰も救わない、アイリーンもセルビーも、もちろん被害者も。一人として幸せを感じることがありません。
彼女自身もセルビーとの愛が何の役にも立たず、自身の人生を破壊つくしたことを自覚しています。「愛のための行動」をおこした本人のアイリーンですらその正当性を見失う。だからといって、セルビーへの想いを断ち切ることも出来ない。
いっそ彼女はセルビーと出会わないで自殺したほうが良かったのではないかと考えるほどに、この愛には救いがないと感じます。 しかしアイリーン自身は「どうして愛を知ってしまったのだろう…」とは真の意味では思っていません。
「私はセルビーへの愛のために人を殺した。私だって愛を知ることが出来た」という確固たる自覚があるだけ「どうしてこんな事件を起こしてしまったのか分からない」と恐れおののくよりは幸せなのだろうか。0.2人分位は彼女は幸せなのでしょうか。 これは果たして本当に幸せといえるのでしょうか?
すさみきった彼女の人生の最後に、曲がりなりにも愛を交わしたことは彼女が死刑になる直前までの支えとなったことでしょう。しかし、裁判のシーンで、彼女が身を呈して庇ったセルビーは彼女のことを「本当に疎んじている」。そしてアイリーンがそれを「演技で疎んじている」と感じている。アイリーンの気持ちがまったくセルビーに伝わっていないことを非常に悲しく思います。
彼女は「どうして愛を知ってしまったのだろう」。こんなに救われない愛をどうして知ってしまったのだろうと。
■原作付の再構成について
これは映画作品としては関係ありませんが、元ネタのあるストーリーを映画化(再構成)するということは実に製作者側の意図を如実に反映されるのだ、と感じました。
「モンスター」は社会的に虐げられた女性の物語としてあまり強調されていません。主人公の女性二人のバックグラウンドに対しての言及があまりないからです。 アイリーンはその生い立ちから今に至るまでの人生が悲惨なものだったと語りますが、そこは本人が語るだけで、しかもあっさりと片付けられます。映像としては表現されません。また本人がそのことをトラウマとして抱えているようにもあまり見えない(過去の記憶が悪夢として蘇り、苦しめられるとか)
そのせいかむしろアイリーンはこの体験に反発し、抵抗しているように感じました。自分を惨めにさせている存在に負けまい、思い知らせてやろうと振舞っているからです。今の惨めさに彼女は泣きますが、その大元となった原因(不遇の子供時代とか)については詳しく語られていないと思うのです。 同様にセルビーもその生い立ちは詳しく語られないように感じます。もちろん家族関係や、そこにセルビーがどんな問題を抱えているかは判るのですが、家族は最後まで画面に出てきません。
もし彼女たちのバックグラウンドを描いて見せたら、描き方によっては観客の同情を集め、この歪んだ愛の形も美しくも悲劇的な愛の一つの形として見せることも可能です。 またセルビーの親や、アイリーンの子供時代を突っ込んで描いて、彼女たちを虐げている側の言い分も見せれば、社会問題を提起する形も取れると思います。その辺が描かれてないせいか、この悲劇は彼女たち自身が、その愚かさゆえに招き寄せてしまった。
ここまで愛を美化しない作品は非常に珍しく、連続殺人という犯罪も「愛の行為」の延長線上として描かれています。犯罪者の愛だから下らないのではなく、下らない人の愛だから犯罪に走った、「どう考えても…自業自得…」という感があるのです。
彼女たちの悲劇は、彼女たち自身があまりにも性根がダメなので、ダメ選択しかできず、そしてそれゆえの結末、と言う印象がとても強いのです。
(2004,11,04)/(中・感想)
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