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メディア・リテラシー -「メディア」を捉えるものの見方👀について-

今日はおそらく誰にも読まれていないであろう、メディア・リテラシーについての私の論文を紹介したいと思います。

私はメディア論という学問分野から「メディアを捉えるものの見方」としてのメディア・リテラシーについて研究しています。

このnoteを読むにあたっては、まず、みなさんが今お持ちの「メディア・リテラシー」と「メディア」についての知識を一旦置いて、以下の2つのことについて新たに考える気持ちで読んでいただけたら幸いです。

・「メディア・リテラシー」とは何か?
・「メディア」とは何か?


メディア・リテラシーを取り巻く誤解

「メディア・リテラシー」という言葉は、近頃ではニュースをはじめ、テレビの中でもよく登場します。メディア・リテラシーを取り扱う学校の教科書も多く、若い人の中には授業で習ったという方もいるのではないでしょうか。「メディア・リテラシーってなに?初めて聞いた!」という人の割合は、少なくなってきているのではないかと思います。

しかし、「メディア・リテラシー知っているよ!聞いたことあるよ!」という人に、「メディア・リテラシーとは何か?」を聞くと、実は人によって「メディア・ リテラシーとはなんとなくこんな感じ」と思っていることが違うことがあります。

世の中には、「メディア・リテラシー」という言葉が、いろんな文脈で使われ、その場その場で意味することが異なることが多々あります。

私は世の中には、「メディア・リテラシー」を取り巻く誤解が主に2種類あるのではないかと考えています。 ただ、メディア・リテラシーは研究者によっても定義が異なることがありますので、ここでいう誤解はあくまで私の研究や、メディア論という1つの学問分野から見た際の見解として考えて下さい。

情報って本当に「真実」と「ウソ」の2つに分けることができるの?


「メディア・リテラシー」はフェイクニュースをはじめ、SNSやインターネット上に溢れる不確かな情報に対する対応策として、「情報の真偽を見極める力」みたいに扱われることが多いです。

今日において「メディア・リテラシー」が重視される理由の一つが、「メディア・リテラシー」をこの「情報の真偽を見極める力」と捉えている人が多いからということもあります。

この理解は間違っているというわけではないのですが、そもそもの情報の真偽に対する前提から疑う必要があるのでは無いかと思っています。

メディア論の立場からすると、すべての情報が真実の情報とウソの情報の2つに綺麗に分かれるわけではなく、すべての情報がある立場から見たら真実だし、ある立場から見たら同じ情報でもウソとなるといったように、情報は多面的かつ相対的なものです。

例えば、下の絵のように、どこの位置から円錐を見るかでその人の認識する対象の形は変わってきます。

見る場所が変われば、同じものを見ていても見え方が違う

故意に人を騙そうとするウソの情報もありますが、世の中に溢れる情報の多くは、誰かにとっての真実の情報です。

フェイクニュースに対抗したファクトチェックも確かに重要なことではありますが、ファクトに基づいて発信される情報、その人にとっての真実が必ずしも皆一致するとは限りません。立場が変われば、その人にとっての真実も変わるということは忘れてはいけないと思います。

なので、そもそも情報が真実の情報とウソの情報の2つに綺麗に分かれるという前提から誤解があるのではないかと思っています。

メディアを使って表現・発信できれば、十分にメディア・リテラシーがあるといえるの?

また、メディア・リテラシーは情報の真偽を判断する力、という情報の受け取り手としての能力だけではなく、情報の送り手として「メディアを活用して表現する力」も含めた能力だと説明されることも多いです。

SNSやYouTubeなど、簡単に情報発信ができるプラットフォームが身の回りに溢れている現代では、この、メディアの活用能力として「メディア・リテラシー」が取り上げられることも多いかもしれません。 

実際、メディア・リテラシーの研究者もメディア・リテラシーの定義として、「メディアからの情報に対する批判的思考力」と「メディアを活用し表現する能力」を組み合わせた能力であるとすることが多いです。

それでは、学校の先生は、情報を批判的に読み解く授業と、映像制作やSNSの使い方の授業をすれば、子どもたちに今日のメディア環境において充分なメディア・リテラシーを身につけさせることができるのでしょうか。

もしそうなのであれば、SNSを先生以上にうまく活用している子ども、友達の誕生日ムービーなど日常の中で動画を自ら作ることができる子どもは多いです。

また、批判的にメディアからの情報を読み解く力も、「テレビや新聞のいうことは信じられない。自分でSNSやインターネット上の信じられそうな情報を見つける」といった考えの子ども、若者たちもすでに多くいます。

メディア・リテラシー教育の目的が、本当に「メディアからの情報に対する批判的思考力」と「メディアを活用し表現する能力」を育成することにあるのなら、すでに達成されつつあるかもしれません。

しかし私は、メディア・リテラシー教育は、「メディアからの情報に対する批判的思考力」と「メディアを活用し表現する能力」についての授業をしたらそれでお終いというものではないと考えています。

本日はなぜ、メディア・リテラシーが「情報の真偽を見抜く力」でも「批判的思考力+メディア活用能力」でもないと考えるのか、その理由となる私の論文についてお話しさせていただきます。

「メディア論」とは?

まず、私がどのような立場で研究していたかということを説明したいと思います。
私の専攻はメディア論という学問です。 メディア論もメディア・リテラシー同様、人によって意味するところが様々です。 時として、メディアに関する研究全てを指して「メディア論」という言葉が使われる時もあります。 一方で、私の専攻してきたメディア論は、次のような学問です。

あらゆるものごとが潜在的にメディアとなり得るという前提のもと、あるものごとをメディアとしてとらえる際のものの見方を重視し、 「メディア」という概念装置をとおして事象を分析する学問

メディア論は、情報そのものを分析対象とするのではなく、メディアを分析対象としています。例えば、このnoteを読んでいるときに、 普通はこの文字情報の内容を追いますが、メディア論では文字情報に着目するのではなく、「この文字情報を伝えているnoteというプラットフォームがどのような構造をしているか」や「どのようなプロセスで情報を伝えているか」というこのnote上にある文字情報から視点を引き剥がした俯瞰的な視点に立ってメディアの構造を捉えて分析します。

情報から視点を引き剥がしてメディアを捉える

また、様々な事象を「メディア」という概念装置をとおして分析するとはどういうことかというと、例えば、メディア論を使って研究する方々の中には、博物館をメディアと捉えて、博物館の機能を分析するという研究をしている方もいます。 テレビや新聞といった、普通、「メディア」という言葉から連想されるマスメディアの研究をしている方ももちろんいますが、メディア論は、「あらゆるものごとが潜在的にメディアとなり得る」という前提に立ち、様々なものを「メディア」として分析する学問です。

「メディア」とは?

英語のメディアは媒体と日本語訳があてられることがありますが、ここでいう「メディア」もその意味で、「コミュニケーションを媒(なかだち)する事物のこと」を指しています。

そのため、メディアとは、例えば、「スマホはメディアでコップはメディアではない」というように分類できるものではなく、コミュニケーションを媒しているときはスマホはメディアであるし、コミュニケーションを媒していないときはスマホでもメディアではありません。コップも同様に、メディアではないと分類されるものではなく、コミュニケーションの媒をしているときはメディアになります。

また、メディアは、単に情報を伝達するだけの無色透明なツールではなく、メディア自体が情報の枠組みや情報の発信の仕方を決めるものであり、長谷川一さんの言葉を借りれば、メディアとは「ものごとを理解する、その仕方」のことです。

たとえば、本というメディアには一般的に動画も音も載せることはできません。それは本というメディアの特性でもあり、枠組み・制約でもあります。

私がこのnoteで伝えようとしていることは、冒頭で紹介したように、すでに論文として発表している内容ですが、同じ筆者が書いた同じ内容の文章でも、noteに載っている文章と論文に乗っている文章では、扱われ方や信憑性も異なるかもしれません。また、私の言葉選びも論文調ではなくnote向けの言葉づかいに変わっているなど、筆者の振る舞い方もメディアによる影響を受けています。

私たちは、情報の内容だけで情報を判断しているのではなく、情報を伝達するメディアからも多くの情報を受け、そして得られる情報の量や種類の制約をメディアから受けています。

学校におけるメディア・リテラシー実践の継続性について

前置きが大変長くなりましたが、ここからは論文の内容に入っていきたいと思います。
※長くなるので研究結果に関わることだけ紹介します。研究方法などを知りたい場合は論文の方をご参照ください。

タイトルにある通り、私は学習指導要領にも載っていないメディア・リテラシーをどのようにすれば学校の先生たちが自律的に取り組んでいくことができるかというテーマで論文を書きました。

まず、研究にあたっての私の問題意識から説明します。情報化社会である現在、メディア・リテラシーは世界的な重要課題とされており、日本においても新型コロナウイルスの影響による学校の一斉休業に伴う学びのオンライン化や、GIGAスクール構想による一人一台端末環境の実現に伴って、加速的に関心が高まっています。その一方で、日本の学校教育の中ではメディア・リテラシー教育は十分に普及しておらず、児童生徒にとって十分な学習の機会があるとは言い難い状況です。

メディア・リテラシーに関する先行研究では、これまで、メディア・リテラシー実践が学校で展開されることが少なかった理由として以下のものが指摘されて来ました。

1. 「メディア・リテラシー」が学習指導要領に記載されていないこと
2. 教師がメディア・リテラシーについての被教育体験がないこと

過去の研究では、1に対する解決策として、まず、「メディア・リテラシー教育のこの活動は、学習指導要領のこの項目として扱うことができますよ」というような形で、学習指導要領への紐づけを行ってきました。また、2に対する解決策として、メディア・リテラシー教育を受けたことがない教師でも、メディア・リテラシーの授業ができるように、授業カリキュラムや教材の開発が行われました。

過去の研究によって、先ほどのメディア・リテラシー実践が学校で展開されることが少なかった理由としてあげられた2つの課題に対する解決策は示されましたが、元々の目的であった、学校で先生たちが自らメディア・リテラシー実践に取り組むといった自律的な展開には十分に繋がって来ませんでした。 

その理由の1つとしては、メディア・リテラシー実践に取り組むための動機や意欲がそもそも教師になかったことが挙げられます。そもそも学習指導要領に載っていないメディア・リテラシー教育をどのようなきっかけで先生たちはやろうと思うのでしょうか。教科書の内容をやるだけでも大変な学校の過密スケジュールの中、それでもなおメディア・リテラシー教育に取り組もうとする先生はどれくらいいるのでしょうか。

そういったことが放置されたまま、どんなにメディア・リテラシーの授業カリキュラムや教材を作ろうとも、それを活用してくれる教師は少ないでしょう。

つまり、メディア・リテラシー教育について、過去の研究でwhatやhowは提供されましたが、whyについての研究は十分にされて来なかったのです。それは、教育の実践研究において往々にしてあることだと思います。

そのため、本研究では、学校におけるメディア・リテラシーの持続的展開を目指して、「教師がメディア・リテラシーをどのように意義づけると、継続的な実践につながるのか」を明らかにすることを目的とし、先行研究の課題であった、教師がそもそもメディア・リテラシー実践に取り組む動機や、教師にとってのメディア・リテラシー実践の意義について問うことにしました。 

研究の目的を明らかにするために、本研究では、2000年代前半にメディア・リテラシー教育に熱心に取り組んでいた教師4名について、その後の約15年間どのようにメディア・リテラシー教育を継続してきたかということをメインにしたライフストーリー・インタビューを行いました。

その結果、4名の教師のうち、2000年代後半以降、メディア・リテラシー教育の継続に困難を抱えた2名と、メディア・リテラシー教育を形を変えながらも継続した2名に分かれました。

私は研究をはじめた当初、教師がメディア・リテラシー教育を継続して取り組むか否かは、教師のメディア・リテラシーに対する意欲や、メディア・リテラシーにどれほど意義を見出しているかにかかっていると思っていました。

しかし、メディア・リテラシー教育を継続できなかった教師2名の理由を探ると、2名ともメディア・リテラシー教育に強く意義を感じ、意欲もあるけれども継続できない状況に陥っていることが分かりました。

まず、メディア・リテラシー教育の継続が難しくなったとはどういうことかについて、B教諭とD教諭の事例を見ていきます。

B教諭もD教諭も2000年代前半にメディア・リテラシー教育を始めましたが、当時のメディア・リテラシー教育で扱っていたテレビや新聞などのメディアと、現在子供達が利用するネットやSNSなどのメディアとの間にギャップを感じていました。
また、B教諭とD教諭のインタビューの中では、現在のメディアについていくことができず、子どもたちの方が新しいメディアへの適応力が高いと感じ、教師として現在のメディアを教えることができないと話していました。
つまり、メディア環境の変化に対応できなかったことがメディア・リテラシー実践の継続に困難を抱えた要因になっていました。

一方で、メディア・リテラシー教育を継続することができたA教諭とC教諭は、2000年代はじめから現在にかけてメディア環境は大きく変わったとしつつも、当時行ったメディア・リテラシー教育は現在のメディア環境に対しても適応できると考えていました。

では、メディア・リテラシー教育を継続できた教師と継続できなかった教師の違いはどこにあるのでしょうか?
これらのことについて、ライフストーリー・インタビューから明らかになったことは、両者の間では「メディア」の捉え方が大きく異なったということです。

順を追って説明していきたいと思います。
まず、4名の教師のインタビューの中であらわれたそれぞれのメディア理解から、メディアに対するものの見方には4つの段階があることが明らかとなりました。 

はじめに、メディアを「異化」する(=身の回りにあったものごとが今までと違って見えること)経験があり、そのことによって、普段意識することのなかったメディアについて、意識的に捉え、そのメディアの働きや特性を考えるようになります。それらを、「メディアへの気づき」の段階と呼ぶことにします。

次に、そのようにメディアを意識し、メディアについて熟慮による考察を重ねるうちに、「メディアとは何か」について考え始め、徐々に「メディア」の抽象的な概念化がなされます。そして、メディアをテレビや新聞といった個別の事象として認識するのではなく、自らのメディア概念を当てはめることによって、メディアを認識するようになります。その段階を私の研究においては「メディア論的視座」としています。

それらの4つの事象が循環して繰り返し経験され、形成されるものを、「メディア論的視座の内在化」と呼びたいと思います。

それでは、4名の教師の事例に戻ります。
メディア・リテラシー実践が継続された事例であるA教諭とC教諭の事例におけるメディア・リテラシー実践の特徴としては、扱うメディアを限定せずに様々なメディア、あるいは普段メディアとは想定しないもの(コンビニや学校など)を扱ったメディア・リテラシー実践を展開していたことや、それぞれのメディア・リテラシー実践がメディア環境の変化に左右されていなかったことが挙げられます。両者ともにメディア概念を構造的に理解することでそれらの実践を可能としており、また、そのメディア概念は、メディア・リテラシーと出会う以前からのそれぞれのものの見方と親和性が非常に高く、元々のものの見方の素地に乗る形で「メディア論的視座」が形成されていました。
そして、2人のメデ ィア・リテラシー実践に共通していることは、メディア・リテラシーを「能力」ではなく「ものの見方」であるとしていることにありました。

一方で、継続的なメディア・リテラシー実践に困難を抱えたB教諭とD教諭のメディア・リテラシー実践は、新聞やテレビなどのニュースを題材にそれぞれのメディアの特性を考え、それに対してどのような接し方をするべきかという取り組みでした。
2人のインタビューでは、双方ともにメディア・リテラシーの大切さについて語られていました。しかし同時に、様々なメディアが登場する中で、同じ「メディア」というくくりで捉え、同じようにメディア・リテラシー教育を行うのに困難を抱えることで、メディアやメディア・リテラシーに対して捉えどころのなさを長年抱えていました。そのため、メディアやメディア・リテラシーという言葉の使い方や、生徒に対してメディア・リテラシーという言葉を使うことに対して、とても慎重な姿勢を見せていました。
2人のメディア理解は、メディアを批判的に捉えるといった「メディアへの気づき」はあるものの、メディア概念の構造化による「メディア論的視座」の内在化はされていないと考えられます。

このように、メディア・リテラシー実践の捉え方、内容自体も継続した教師2人と継続に困難を抱えた2人の間に違いがありました。

それでは、考察に入りたいと思います。
本研究から得られた知見は、「教師がメディア・リテラシー教育にどのような意義を見出しているか」ということは、教師の自律的・継続的な実践への一つの要因ではありますが、意識的な意義づけよりもむしろ、「教師がメディアをどのように捉えているか」という無意識的なものの見方とメディア・リテラシーの結びつきが継続性へと影響を及ぼすということが示唆されました。つまり、継続的なメディア・リテラシー実践を展開する際の、メディア論的視座の働きが浮かび上がってきました。
B教諭やD教諭のように、「メディアへの気づき」の段階においてもメディア・リテラシー実践は展開されますが、メディア環境の変化や学校においてどのように実践を展開していくか、ということに困難が伴いました。そして、そもそもメディアやメディア・リテラシーについて分からなさを解消できないということが明らかとなりました。 

本研究から示唆されたことは、メディア・リテラシーは「能力」ではなく、「ものの見方」であると捉える必要性です。

実際に、欧米では人々のメディアに対する「身構え」や「パースペクティブ」をメディア・リテラシーとしており、メディア・リテラシー教育が盛んな台湾では、英語のmedia  literacyを「媒体素養」、つまりメディア(媒体)に対する素養と訳しています。

「メディア・リテラシー」とは?

では結局、メディア・リテラシーとは何なのか、という話ですが、私は、メディアを捉えることにより、身の回りのものごとを俯瞰的・構造的に見ることだと考えています。シンプルな表現ですが、この「メディアを捉える」ということが実は難しく、私たちの身の回りは日常に溶け込んでいて見えなくなっているメディアで溢れています。

しかし、コミュニケーションのあるところにメディアはあります。様々なコミュニケーションにおいて「何がそのコミュニケーションを媒しているのか?」という視点でものごとを捉えようとすると、徐々にメディアが立ち現れてきて、ただの「情報」であったコミュニケーション自体を構造的に捉えることができるようになります。

そして、メディア・リテラシーの目的を端的に言うと、この「メディアを捉える」という構造的なものの見方をもって、個人が世界をより深く理解し、よりよいものに変えていくことであると考えています。

急にメディアの話から世界の話に飛躍したように感じるかもしれませんが、メディアのあるところにコミュニケーションが生まれ、コミュニケーションのあるところにコミュニティが生まれることを考えれば、メディアを捉えることがなぜ世界を理解するという話につながるのかが伝わるのではないかと思います。

メディアのあるところにコミュニケーションが生まれ、コミュニケーションのあるところにコミュニティが生まれる

なので私は、メディア・リテラシーを次のようなものと考えています。

メディア・リテラシーと情報モラルは違う

最後に、論文からC教諭のインタビューの一節を引用します。

僕が実践で必ず、メディア・リテラシーの実践で、必ず問うのは、「これは事実か?」って問うわけですよね。これって本当なの?で、僕が一番生徒にやりたいのは、 そこで「これって本当なの?で、まあ、はっきり言って、教科書だって本当なの?先生が言ってることって本当なの?それって、あなたしか決められないんだよ」っていうのが、根幹にあるでしょ?って。究極言えば、そこを伝えたいんだと思うんですよね。<中略>だから、先 生のいうことも正しいと思ってないんですよね、きっ とね、僕がね。ていうか、そういう、従順な子を育てるのが、教育なんだろうけど、逆のことを言ってるでしょ?<中略>教員の言ってることを、「それ、あんたの言ってること、本当なのか?」って言え、思えっていうんだからね。これは怖いことなんですよ。本当はやってはいかんことかもしれないです。だけど、やっぱり、 僕は学校をどっか、あれなんだろうね、学校っていうのは、別に、って思ってるからやれるのかもしれない。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjet/advpub/0/advpub_45069/_pdf/-char/ja

情報モラルとメディア・リテラシーが混同されることはよくあります。学校現場で「メディア・リテラシーが必要だ」と言われる場面の多くは、生徒が犯罪に巻き込まれないようにといった観点が主で、情報モラルのことを指しています。しかし、メディア・リテラシーは倫理観や道徳観の高い人のみが持っている能力なのでしょうか。それは、メディア・リテラシーをあまりにも矮小化して捉えていると思います。

このnoteの前半でもお話ししたとおり、メディア論の立場から言えば、絶対的な正しさというのは存在しません。
ここまで述べてきたメディア・リテラシーである、物事を俯瞰的に捉え、今ある当たり前を疑ってかかる。これは、クラスで例えるなら、学級委員長的なポジションにいる人ではなく、教室の後ろの方の窓際の席に座っている、先生の話なんて信じられないというような生徒の方が持ち合わせている能力かもしれない、と大学院の教授が表現していたことがあり、その表現はとても分かりやすくメディア・リテラシーの面白みを表しているのではないかと思っています。

メディア論についてもっと知りたい方へおすすめの本と論文

  • 水越伸(2005)メディア・ビオトープ: メディアの生態系をデザインする. 紀伊國屋書店.

  • 水越伸, 飯田豊, 劉雪雁(2018)メディア論. 放送大学教育振興会.

  • 長谷川一(2009)アトラクションの日常 : 踊る機械と身体. 河出書房新社.

  • 長谷川一(2011)メディアとしての...... : 暗黙知、枠組み、コンテクスト・マーカ ー. マス・コミュニケーション研究, 78: 35-60.

  • 長谷川一(2014)ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか : テクノロジーと身体の遊戯. 慶應義塾大学出版会.

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