A COURSE IN MIRACLES に出会うまで②
これはとても個人的なことなのだが、わたしの人生の初めの部分(今死ぬのなら半分くらいの地点となる)思春期である中学生の頃、わたしにとってはとても苦しい時間の始まりだった。わたしは、人は何故生まれ、どうして生きなければならないのかを真剣に考え始めた。
まず、この世界の理不尽というのが赦せなかった。
このことはまだ世の中をよく知らないはずの、特別非凡な経験をしたわけではなく、まぁまぁ普通と言われるような家庭でごくありきたりなように育ち特別飛び抜けた才能持つわけではないわたしにとっても、明白なことに思えた。この世界は理不尽だ。何かがおかしい。善人と言われる人たちがかならず報われるわけではなく、逆にずる賢い人間がいい思いをしているように見えることもある。わたしはそれが赦せなかった。
それから、どうしてそのような世界が存在しなければならないかを真剣に考え始めることになった。そうすると、このような疑問を持つ人はあながちそういう疑問に繋げていくのかもしれないが、宇宙の誕生にまつわる話、ビックバンが何故起こらなければならなかったのかとか、何故宇宙のチリから人間が発生しなければならなかったのかなどと、色々考え始めることになるのである。
ところで話が飛んでしまうのだけれど、人間がどうして「神」という概念を意識的に、あるいは無意識的にも意識しているのだろうと思うことがある。
例えば誰かが無神論者だと声高に叫んだとして、それはこの世界を神が創ったのではないかという本人さえ気がついていない滞在的な考えを軸に判断していて、この世界は神が創ったにしては野蛮すぎる、救いが無さすぎる、というところからそう思うのならば、やっぱり神を意識していることになる。或いはこの世界の科学によって、この世界が誕生するのに神の力は必要ないという結論に至ってそういう場合も、どういうわけか、そこには神という概念が対比のように顔を覗かせる。わたしたちは意識的にも無意識的にも、神という概念を意識しているのではないだろうか。
そしてどういうわけか、この世界を創ったもの=神のような秘密の信念も、時々浮かび上がってくるように見え隠れする。
わたしが自分の住む世界について考え始めたころ、随分とこの無意識の信念に悩まされたように思う。神がこの世界を創ったとしたら、神はどうしてこの世界を創らなければならなかったのだろうか。
わたしたちに、自分のいるところまで上がってこいと修行させるため?どうして神はそのようなことをさせなければならなかったの?神は完璧ではないの?
考えるのも嫌になる、このようなことをよく考えたものだと思うが、もうそれを考えなくなった理由は、それがこの世界と比べるとあまりにも信頼できそうだったからだ。
『A COURSE IN MIRACLES』(※以後、コース)によると、この世界は神が創ったのではない。そうであれば神は完璧ではないからだ。
神は全的な愛であり、永遠であり、無限である。
わたしたちは、神のもとでは一つであり、神と同じように創られている。
神は完全であるから、完全なものしか創造できない。それ以外は不可能だ。
けれども、わたしたちは神から離れたという夢をみている。それがこの世界だ。
その夢のなかで、わたしたちはいがみ合ったり、憎しみあったりしてその、わたしたちが神から離れたという間違った概念からくるとてつもない恐怖から目をそらすために、何かよくないことの原因を他人に押し付けようとしているのだが、本当は夢をみている心は一つしかない。
夢の中でわたしたちは、互いに敵意を向けあっているようにみえるが、心は一つしかないので、本当に憎んでいるのは神から離れてしまったように見える自分自身である、というのである。
そしてその夢から覚め、神の中にいるわたしたちの自覚を取り戻すためプロセスとなりうるのが、このコースである。
あぁ、ぶっとんでいる。本当にぶっとんでいる。
この考えに触れてから9年ぐらい経って慣れてきたけれど、この考え方に慣れるまでに、この考えを疑う機会が少なかったかといえば嘘になる。けれども、少しずつそれを信じる意思が強くなってきた理由は、この教えを実践するのには一銭もかからないということ。誰も傷つけないということ。どこでもできる、心の訓練だという条件をきっかけに続けてきた結果、本当にその成果を実感する、極めて現実的な教えだという点である。(それを実践する本人にとっては。)
コースはこの世界で起こるように見える目の前の出来事をどうこうするものではなく、
(コースによるとこの世界で起こるように見えることは事前に決定されている)、それに対する自分の見方を心を訓練することによって変え、心を解放して楽にしていきましょう、という教えである。
胡散臭いものである。
けれどもこの世界の胡散臭さに嫌気がさしたら、試してみる価値のあるプロセスである。
これは短期的なプロセスではない。
長期的なプロセスである。