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「すべての人は平等である」という言葉を真に理解するための、宇宙的視点。

「すべての人は平等である」という言葉を真に理解するためには。

「すべての人は平等である」という
言葉は誰もが知っているだろう。
しかし、果たして真にその意味を理解しているだろうか?

最近ふとそんな疑問が湧いてきたので改めて自分に問いかけてみると、意外にも

「えーと、まぁ・・・なんとなくは。」
というぼんやりした答えが返ってきたことに驚いた。

この言葉を真に理解するためには、少し深いところまで掘り下げてみる必要がありそうだ。

*    *    *

「すべての人は平等である」という言葉を別の言い方にするなら、

「すべての人の存在価値は同等である」ということ。それが大前提となる。

なぜなら、もし人によってその存在価値に違いがあるとすれば、「平等」などという言葉は完全に実体性を失うからだ。

つまり、国民に愛される大統領であろうと、愛されない独裁者であろうと、働き者のお父さんであろうと、引きこもりのニートであろうと、毎日が楽しくてしょうがない女子高生であろうと、はたまた10人の子供を産み育てている肝っ玉母さんであろうと、万引きがやめられない60代の裕福な女性であろうと、自分では何も出来ない生まれたての赤ちゃんであろうと、30人以上の女性を手玉にとってきた結婚詐欺師であろうと、認知症であろうと、障害者であろうと、平和主義者であろうと、軍国主義者であろうと・・・

その存在価値は同等である、ということだ。

このことを本当に、心から受け入れるためには、まず自分の持つ「価値観」を見直す必要がある。

例えば、

国民に愛される大統領=良い人=存在価値が高い』

『愛されない独裁者=悪い人=存在価値が低い

という価値観。

これらは一見当たり前のように思える価値観なのだが、もしこれが成り立つとなると、
明らかに
「すべての人の存在価値は同等である」という言葉は成り立たなくなる。

さてさて、
「国民に愛される大統領」と「愛されない独裁者」の存在価値を同等として受け入れるためには、、
その存在価値を決めている基準となっている、
【良い人・悪い人】という評価を無効化する必要がある。

では、今までの価値観では明らかに「良い人」である人を「良い」と評価した理由は何だろう。

答えは簡単だ。自分(あるいは世の中の人々)にとって望ましい行いをしたからだ。

反対に、「悪い人」を「悪い」と評価した理由も簡単。
自分(あるいは世の中の人々)にとって望ましくない行いをしたからだ。

ここでさらなる問題が出てくる。
あなたの下した「望ましい行い」、「望ましくない行い」の評価は本当に正しいのか?

もしかしたら、あなたにとっての「望ましい行い」は誰かにとっての「望ましくない行い」ではなかったか?

うぬぬ・・・早くも答えのしっぽを掴んだ気がする。

つまり、すべてのものごとにはあらゆる側面があり、ひとつの側面だけを見て判断することはできない、ということだ。

「すべてのものごと」とは、「すべての人」でもある。

とは言え、ノーベル平和賞をとった人とホロコーストを行った独裁者の両者に対して、本当に同等の存在価値があると思えるだろうか?

両者のあらゆる側面を見たとしても、ぶっちゃけ
「いや、それはいくらなんでも~。」と言わざるを得ない。

ここで、新たな視点が必要となってくる。
「すべての人には役割がある。」という視点である。

例えば、ノーベル平和賞をとった人はなぜ、そのような平和的な活動に力を注いだのか?
もっと言うと・・・

なぜそのような必要があったのか?ということ。

当たり前かもしれないが、もし世界が平和なら平和活動は必要ないわけだ。

ということは・・・
ここは恐れずにはっきりと言おう。
つまり、
「ホロコーストにもやはり必要性があったのだ」と・・・。

あのような恐ろしい体験を通して、人々は平和の必要性を知り、人間のもつ残虐性を知ることができたのだ。
※「人を愛すること」と「人を傷つけること」は対義語ではあるが、これについても「良い」「悪い」ではないということを理解する必要があるだろう。


*     *     *

これは、決して「政治的な意見」ではない。

地球の歴史が辿ってきた道のりを理解する上で大切なカギとなる、【宇宙の法則】である。


はい、出ました。【宇宙の法則】。

小さなところから話していくと埒が明かないので、いきなり結論を言おう。
というか、思いついた時に言わないと自分が忘れてしまうのだ。

「私たちは宇宙なのである。」


私たち1人1人が無限の宇宙存在なのである。

「無限の宇宙存在」とは、すなわち、、

すべての創造主。

はい、大事なことなので、
今は理解できなくてもとりあえずメモっておいてくださいね。

これを証明するためにいくつか例をあげていきましょう。
     
*     *     *

まずは、宗教について。

宗教はなぜ生まれたのでしょうか。
答えは簡単です。
人々が求めたからです。
生きるために心の拠り所となるものが必要だったからです。

それでは、なぜ異なる宗教が次々と生まれ、場合によっては敵対し、場合によっては戦争まで引き起こしたのでしょうか。

こちらも答えは簡単。
人々が求めたからです。
いや、その自覚はなくとも・・・
「そのことを体験する必要がある。」と人々の潜在意識は知っていたからです。

つまり、地球のすべての歴史には
その時に地球に生きるすべての人、1人1人の潜在意識が関わっているのです。

少し話がそれてきたので、元に戻しましょう。

宗教について、もう少しだけ掘り下げてみます。

例えば
「宗教と政治の話には触れないほうがいい」という、世界的な不文律について・・・
あなたはどう思いますか?

正直言って、「別に良くね?」と思いませんか?
それは、あなたが日本人だからです。

元旦に神社へ初詣に行き、大安吉日に宝くじを買い、バレンタインにチョコレート売り場に並び、ひな祭りに雛人形を飾り、厄除け大師でおみくじを引き、チャペルで結婚式を挙げ、時の総理大臣に不満を持ちながらも選挙に行ったり行かなかったりし、クリスマスに高価なプレゼントを贈り合い、大晦日に年越しそばを食べ、ハロウィーンに仮装して街を練り歩く。

これって・・・「ダメなこと」ですか?もっと言うと「悪いこと」ですか?

・・・ダメじゃないですよね? 
悪くないですよね?

今まで日本人は、こういった日本人の性格について自ら厳しい評価をしがちでした。
実際、外国の人から見れば「変」だったかもしれません。

でも、「変」って一体何ですか?
「変なこと」は悪いことでしょうか。

「変なこと」とは、すなわち・・・
「理解できないこと」です。

つまり、自分が理解できないことについては「悪いこと」の引き出しに放り込もうとしているのです。

はい。ここで、さらなる視点が必要です。

「理解できないこと」を「悪いこと」の引き出しに放り込むのは「悪いこと」でしょうか。

もちろんん、これも「悪いこと」なんかじゃありません。

さぁ、考えてください。

考えて考えて、考えて考えて、、

💫💫💫

はい。またいつのまにか話がそれていました。
宗教の話に戻しましょう。

ここでいきなりまた結論を言います。

宗教の存在意義とは・・・

考えることです。

つまり、表面上は「神にすがる」※という、ある意味「他力本願」な形をとりながらも、人々が求めていたものの本質とは
「自ら考えること」だったのです。
※「神にすがる」という言葉には異論もあるでしょうが、わかりやすく伝えるためにここではこのように表現させてもらいました。


では、なぜ人々は自ら考えることを求めるのでしょうか。

これも答えはいたって簡単です。
楽しいから。

そして・・・
喜びを感じるからです。

*     *     *

さぁ、ここで、もう一つの大原則をお伝えしましょう。

つまり、「人はなんのために生きているのか?」という、
ごく根本的な問いに対する答えです。
それがすなわち、

「喜びを感じるため」なのです。
これは地球上に生きる、あらゆる人にあてはまる大原則です。

では、
喜びを感じるために生きているのに、「幸せそうな人」と「不幸そうな人」がいるのは
なぜでしょうか。

ここで無限の宇宙存在である、「すべての創造主」という視点が必要になります。

つまり、「幸せそうな人」も「不幸そうな人」も、自らその人生を創造しているのだ、
ということです。
喜びを感じるために。

もちろん、喜びを感じるためにリストラにあったり、病気になったり、夫に浮気されたりするわけではありません。

これらすべての一見「不幸な出来事」が起きたのには、ちゃんと理由があるからです。
つまり、
その先にある喜びを感じるためなのです。
どうぞ、その先にどんな喜びが待っているか、想像してみてください。
それがすなわち、、、
「創造すること」でもあるのです。

あなたはすべてのものを創造しています。

例えば、
SNSでつぶやく言葉。

今朝作った豆腐の味噌汁。

ペットの世話。

ご近所さんとかわす挨拶。

ベランダで野菜を育てること。

Youtube動画に「いいね!」すること。

トイレでスッキリすること。

お店の人に親切にされて、思わず笑顔で「ありがとう。」と言うこと。

そのことに気づけたなら、あなたには
これらすべての喜び、すなわち「創造」が・・・
地球上に生きるすべての人、
もっと言うと「すべてのもの」と繋がっている
ということが見えてくるでしょう。


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まただいぶ話がそれましたね。
どこまで戻りましょうか。

「理解できないこと」を「悪いこと」の引き出しに放り込むことの是非についてでしたね。
また出てきました。

「是か非か」問題。
つまり、「理解できないこと」を「悪いこと」の引き出しに放り込むか放り込まないか、という判断もまた1人1人違う、ということです。

話を戻したばかりで申し訳ないのですが・・・
そろそろ頭の中がキャパオーバーになってきたようです。

無理をすると爆発しそうなので、今回はこの辺でやめておきますね。
それでは、またいつかお会いしましょう。

サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~。
※私は、過去の偉人たちの創造した言葉(「だいじょぶだぁ。」など)を進んで使うことでその偉人たちをリスペクトしています。

※このエッセイは私が瞑想から受け取ったメッセージを基に書かれたものです。
真実の探求は今も続いており、これが最終的な答えではありません。

♡♡♡最後までお読みいただき、ありがとうございました。あなたの幸せのヒントが見つかると嬉しいです^^!いっっぱいの愛をこめて。♡♡♡

桑田華名

お読みいただきありがとうございます!いただいたサポートはクリエイターとしての活動に使わせていただきます。エッセイ、小説、イラスト、瞑想日記など…いろいろ投稿してますので、是非また遊びに来てくださいね!