価値観や意見を受け入れるとは?
仕事をするようになると、日常的に対立する価値観や意見と遭遇することが多くなる。それとどう向き合うべきか、しっかり自分の中で言語化しておきたいと思い、今綴っている。
考察すればするほど、異なった価値観や意見との向き合い方が人生を好転させるかどうか、極めて重要な位置付けではないかと理解が深まった。
相容れない価値観と対立したり、誰かに意見することは仕事上絶対に避けられないこと。あなたの成長を阻むような敵を作ってはいけない。実力だけでは成り上がれない。
対峙する価値観や意見に対してのあなたのリアクションが、仕事を任せたくなるくらい気に入られるか、もしくは組織内の異分子として認識されるか、が決まってくる。
強調しておきたいのだが、これは媚を売ったり、自分の信念や自分の考えを曲げろという話ではない。僕はそういうことが大嫌いだ。
人と対立せず、自分の意見を通す方法だと考えてもらっていい。その考え方を今回はまとめてみた。理解を深めるために色々遠回りするが、最後まで付き合ってほしい。
さて、どこから考え始めようか迷った結果
まずは、価値観から派生して多様性から考え始めてみようと至った。
世間では、しばしば『多様性』は素晴らしいということが主張される。
多様性ってそもそもなんだって認識を揃えておきたい。
社会的な文脈で言うと、LGBT、移民、ハンディキャップ、女性問題などそういったマイノリティ的な話で挙がってくる。
対して、個人的な文脈でも『多様性』は出てくる。
簡単に言えば、価値観、経験、性格、好きなこと、宗教、文化、などなど。簡単に言えば、多様性と言われると「『個性』を受け入れてね」という意味合いで用いられるのがほとんど。
もっと言えば、多様性とはもはやいろんな言葉とセットで使われることがあり、働き方の多様性、人種の多様性、など挙げ始めたらキリがないです。
その多様性の意味はざっくり、ステレオタイプに囚われないで個々の事象や人物の存在を認めてくださいってことですね。
ここで論じたいのは、『認める』の解釈の幅である。多様性自体は、否定するべきものではない。問題は『認める』をどう解釈しているか、である。
これが自分が好まないものとの向き合い方のヒントになる気がする。
社会的な文脈で用いられる多様性を『認める』は、例えばLGBTや移民などマイノリティに対しては、制度のデザインやアクセシビリティを改善するよう動いてくださいって意味合いだと思います。
そういった社会的な多様性の問題は解決すべきである。ハンディキャップがある方が何か利用するときに、そのハンディキャップに合わせたデザインをされていないとそもそも利用できないこともありますし。
ここでの考察は、社会的な文脈ではない多様性について。
つまり、個人においての『多様性を認める』という意味について。
特に『認める』ってなんだってことですよね。考えられる限りこの2つの中のどれかにその答え(自分が正義としたいもの)がある気がする。
それぞれ吟味していきたい。当テーマは、受け入れ難いものに対しての考え方であった。それでは考えていこう。
では、
1つ目『それを素晴らしいって思うことか?!』
いきなり結論だが、これは違うと思っている。
こんなこと言うと、素晴らしいものだと考えて主張したり何か活動している方から批判がくるかもしれないが、絶対に違う。
そもそも形容詞は主観が混じっている。
ゆえに、相対的な判断が混じる。
『美味しい』は『まずい』を知っているからこそ『美味しい』がある。
当然ながら、『素晴らしい』が出てくるのであれば、その反対の拒絶的な意味を持つ形容詞が存在することになる。
『素晴らしい』=『認める』であった場合、それは意識下で『素晴らしくない』=『認めない』の概念も許すことになるはずだ。
それは本当に危険な考え方である。素晴らしくないと考えるものに対して、攻撃する可能性が生まれてくる。
いじめ問題の一部もこういった考えから問題になるケースがあると思っている。仲良い=素晴らしいという考えがあったら中には、仲良くない人に対しては攻撃しても良いという解釈をする人もいるだろう。
持っている価値観と反するものを攻撃することにより、自分達の素晴らしさをより実感することができる。一度攻撃し出したら、その味を覚えた人は止まることができるのだろうか。
『認める』の解釈が『認めない』ことを孕んでいる解釈の場合、それは多様性を認めたことにならないであろう。
『多様性=素晴らしい』説が正義となったら『良いとも思っていないことを素晴らしいと思わないといけないですよ』って意味にもなる。価値観の押し付け合いが始まる。
自己暗示的に、良いと思っていない、あるいは良いとも悪いとも思っていないものに対して『素晴らしい』と思い込むことは可能だが、それは素晴らしいと思っていないことに変わりはない。
吟味は途中だが、『認める』=『素晴らしい』ではないということだけは確かである。
2つ目の『存在を認めること』も1つ目と同じことが言える。
『存在を認める』があれば『存在を認めない』がある。
『存在を認める』とはどういうことか?認めたら存在して良いと言うことであれば、認めないのであれば、攻撃しても良いという考えを持つ人が出てくるだろう。
真に受け入れられるものは『良い』と思える存在だけである。おわかりの通り、『認める』=『受け入れる』ではない。
さて、下記2つは答えでなかったが、収穫が色々あって納得いく答えにたどり着けそうだ。
良いと思うものは勝手に良いと思ってしまうし、好ましくないものに関しても、勝手に良くないと思い込んでしまうのが人間である。
良い悪いと思うことは止められないとしても、それからどういうアクションを取るかは抑制できる。ここに理想的な『多様性を認める』の答えがある。
当たり前だが、どれを自分の中の正義とするかという話なので、答えとするものは人それぞれ異なる。僕の中では、より合理的なものを答えとしたい。
ここまでの重要なポイントはこれ
答えはシンプルであった。
共感できるものは自由に受け入れ、相容れない価値観や意見と出会ったら『攻撃しない』こと。一旦は、意見や価値観を受け取り、相手に投げ返さず、そっと横に置く。
これが『多様性を認める』ということであり、また自分とは反対の価値観との付き合い方である。
良いものと思うものに関しては、ポジティブなアクションやフィードバックを行って構わない。
悪いものに関して、受け入れようと歩み寄っても構わない。そして関わってみた結果、受け入れられるものもあるかもしれないが、「やっぱり無理だ」となった場合、そっとしておくのが良いだろう。
相容れないものと対峙したとき、「あなたはそうなんですね」といった感じで近づきもしないけど、距離も取らない、これが『認める』であるべきだと僕は考えている。
そうすることで、いろんな価値観が存在することができる。肩身の狭い想いもしないだろう。これが『多様性を認める』の僕なりの答えである。(あくまでこれは個人の価値観に関する多様性の話。)
ここから普段の話し合いや友人関係でも同じことが言えますよ、という話をするのだが、完全に余談であり個人的な経験の話をさせてほしい(笑)
海外留学に行ってから帰って来た人は稀に患う病気がある。多様性症候群である。これは本当に危ない考え方を持っている人が多い。
日本にない文化=素晴らしい文化
周りの人と違う=素晴らしい
これは個性の押し売りである。多様性症候群を患っている人の実際は、皮肉なことに多様性を認められていないのだ。
多様性という言葉を盾に、自分を認めてほしい、人と違うことで悦に浸り、多様性っぽい発言をする度自分の経験や存在意義を確認して気持ちよくなっている次第である。
比較している時点で、それは多様性ではない。
「日本ってこういうところだめだよね。(アメリカと違って)」といった発言は物事を一元的にしか見ていないことが多い。
例えば、自由と無秩序は紙一重で、日本のように規律がある文化は表現がしづらいが、おかげで治安が良いとも捉えられる。
特徴や性格は二面性を持っていることをわかってほしい。みんな違ってみんないい。
さて、本筋の日常ベースの話に。
相容れない意見と対峙した時、攻撃してはいけない、ということを中々できていない人がいる。僕もたまに無意識に攻撃している時があります。「それは違う。ダメだな」的な。
否定してはいけないんですよね。
何か取り決めを行うときの話し合いは、当然ながら解決しないといけない問題があるからそれについた話し合いが行われているのだが、誰かが意見を否定したり、攻撃した場合、会議が踊るようになる。
攻撃されたのであれば、攻撃し返す。そこからは会議ではなく自尊心を保てるように、相手よりも上だという存在証明合戦が始まっている。
否定や攻撃はせず、まずは聞いて、みんなの意見を考慮した上で一番合理的な意見を選ぶ。これが会議であってほしい。選ばれない悔しさがあるのであれば、それを次回に活かすべき。
自分の意見が反映されなかったことを敗戦として捉えること自体は成長の糧になるので良いとしても、みんなの意見を覆そうとするのは駄々をこねてるだけである。
相手の考えを変えたいのであれば、「こうしたらもっとよくなりますよ!」「もったいない部分が1つあって・・・」など言い方1つ相手の受け取り方は違う。
誰しも否定されると嫌な気持ちになります。
攻撃せず、否定もせず、相手の意見に乗っかり、自分の意見を付け加える。
どうしても受け入れられないのなら『そうなんですね』と一旦置いておくこと。
色々、考察段階で寄り道しましたが、至ってシンプルなこと。