執着の源〜幸せは生きるための制限だった〜

こんばんは🌙.*·̩͙

先日の『そよ風の仲間たち』さんのイベント

〜引き寄せない法則〜

に参加してから

私の世界観がぐるりと変化しています。

なんか、エネルギーの変化が(੭ ᐕ))

今日は

イベントを通して、私が自分の世界をどう解釈し始めているのか、

そんな気づきのお話しをしようと思います。


注)ここからは、イベントでのお話しを元に、私なりの解釈をふんだんに入れた「気づき」のお話です。そよ風のメンバー様のお言葉を一部引用はしておりますが、その言葉の意図するとこなどは、私の解釈ですので、ご容赦ください。

ただ、とっても、深い、エモい、気づきをくれるサイトで、必要な方に、必要な分が届けば嬉しいなと思うので、

HPのリンクは一番下に貼っておきます💚

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私の世界を変化する。

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今ある現実は全て自分が作り出している。

この手のお話は、最近、色々なところで、

気づいている人には、よく入ってくる話かもしれません。

自分の目の前で起きている「現実」は

全て必要だから、自分で作り出した。自分で選んだことが起きている。

(目の前を走る一台の車の色や形やスピードさへも)


どんなに、自分が「嫌な不快な思い」をしたとしても、

その「嫌な不快」を味わいたくて作り出した。

もしくは、

その「不快」を通して、何かを変化させるために作り出した。

そういうことです。


でも、私たちはできれば嫌な思い、不快な思いはしたくない。

「幸せ」になりたいって思いますよね。

実はこの「幸せになりたい」が

私たちの現実を固定化する『枠・制限』だったりするわけです。


幸せへの執着

そもそも、「幸せ」ってなんでしょう?

「それは幸せ、それは不幸」

なんとなく、自分の状況、もしくは、他者の状況を観察して

そう振り分けることができると思います。

え?

幸せって定義あるの?

って思いませんか?

「幸せはこうです。」って誰が決めたわけでもないのに、なんとなく、これが幸せ、これは不幸せって決めつけちゃうんですよね。


幸せの形は自分で決めていい。

これもよく聞きますし、私もそう思っていました。

でも、これを言っている時点で、やっぱり、

「幸せの振り分け」が起きてるんですよね。


でね、

何が言いたいかって言いますと、


“幸せでもいいし、幸せじゃなくてもいい”


こういうことです。

どっちでもいい。


「幸せ」への執着を解放するのは怖い

「幸せじゃなくてもいい」

これってちょっと恐怖、不安になりませんか?

どうして不安になるのかなって考えたら

結局「死ぬかもしれない」って感じちゃうからなんです。

私たちは、究極「生きていたい」って思いますよね。

「生」への執着は、人間の本能の様に思いませんか?

「幸せになりたい」 は 「生きていたい」

と同義だと 私は考えました。

そして「死にたくない」ということ。

だって、「死んでもいい」って思うのって、すごく怖くないですか?

不幸なこと の様に感じませんか?

少なとも私はやっぱり怖いです。

私は、「生きること」に執着している。

だから、死を恐れる 死を遠ざけるための『制限・枠』が必要だった。

その一つが「幸せになりたい」だったんだと思います。

死にたくないだけなら「生きていたい」で良さそうなものですが

それでは不十分になって

いつからか、「幸せになりたい」に変わって

その「幸せ」にいろんな色〜んなものがくっついて、

そもそもの「生きるための幸せ」とは無関係になっていってしまった様に思います。

私に必要な幸せは、「生きる」のに必要な分だけで良かったのに。

「生」への執着は本当に必要か

では、そもそも、「生きる」ことに執着する必要はあるのでしょうか?

動物や植物は「生」に執着しているでしょうか?

答えは明白でした。

真に生きる とは、生きることすら意識しない境地。

ひたすらに「今」に存在すること

です。

う〜む(ーωー)

これは、生を否定していることにならないだろうか?

生への否定は

私の中で葛藤を起こしていますね=͟͟͞͞(꒪ỏ꒪)

なるほど・・・・そうきたか➳ ( ˙-˙


今日は、葛藤を感じたまま終わりますww

今日も、ありがとうございました。

明日もお楽しみ様で、

今に集中、自分に集中です(。ᵕᴗᵕ。)

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エモい気づきをくれる「そよ風の仲間たち」さんのHPはこちらです。


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